が孫堅の執務室を訪れたのは、昼も過ぎた頃だった。
恐る恐る入室してきたの後ろに、当たり前のような顔をした凌統が控えている。
護衛なのだから当たり前といえば当たり前だが、孫堅には凌統のこの態度が自分に対しての威嚇だと見当が付いた。
子供のようなやり口だが、孫堅が子供のように我がままを通すのに併せたのに違いない。
腹も立てられず、孫堅は口元に苦笑を浮かべた。
「な、何か、一晩中お待ちになった……とか……」
愛想笑いのつもりなのか、は引き攣った口元を懸命に弧に整えようと努力しているようだった。
無駄だったが。
孫堅は、悪戯っぽい笑みを浮かべてを見詰めた。
「昨夜は、何処へ行っていた。こんな時間になるまで出てこられなかったということは、余程入り組んだ迷路にでも迷い込んだのだろう?」
嫌味としか思えない言葉に、は応戦も出来ず黙り込む。
先に孫権に礼状を、と墨を磨ったり文面を考えたりしていたので、出向くのが遅くなってしまったのだ。
言い訳のしようもないし、正直に話せば孫権にも責めが及びかねない。
「……申し訳ありませんでした」
頭を下げるしか出来ないが、孫堅は許そうとはしなかった。
「俺は、何処へ行っていたかと聞いている」
「……言えません」
「言えぬところへ行っていたか」
が何か一言発すると、間髪入れずに孫堅が切り返してくる。
ぐうの音も出ない。
「庭木の下で、がたがた震えていたそうですよ」
突然凌統が割って入ってくる。
驚き、顔を上げるに、凌統は一瞥くれて合図した。
「せめて、俺の所に来てくれたら匿いようもあったんですがね。何しろ、お相手がお相手だから俺じゃ役に立たないと踏んだんでしょう、あの雪の中、ずっと外に居たらしいですよ」
「ほう」
凌統の嫌味にも、孫堅は動じることなくを見詰める。
「病気がちなお前が、よく風邪も引かなかったものだな。何か、体に良い薬でも飲んでいるのか」
ぱっと催淫剤入りの茶のことが頭を過ぎる。
こんな言い方をするということは、やはり犯人は孫堅なのだろうか。
「それが、何でも親切な仙人が現れて、酒は振舞ってくれるわ服は乾かしてくれるわでそれは良くして下さったそうですよ。夢でも見たんじゃないかって言ってんですけどね、現にこうしてぴんぴんしてるし、あながち嘘とも思えなくて」
口から生まれてきたのかお前は、とがツッコミを堪えるほど、凌統はべらべらと出まかせを言い募る。
孫堅も出まかせだとわかっているだろうに、面白そうに凌統の話に頷いている。
「成程な。……それで、俺に対する誤解は解けたのだろうな?」
湯は体が温まる効能があると聞いた大喬が用意させたもの、夜着は小喬があつらえさせた物と調べがついていた。
二人ともたいしたことではないと思っていたらしく、家人に言付けただけで、家人の方もあまり大袈裟にしてくれるなとの命にただ用意だけ整えて室を去った。
それが偶然に孫堅の来訪と重なり、を脅かしたことを二喬は知らずにいる。
知っていたら、孫堅とは言えただでは済むまい。息子の嫁と都督の嫁から総スカンだ。いずれ、娘の耳にも及んで苦情を書き連ねた太い竹簡が届けられるだろう。
ただ、それで怯むような孫堅ではない。江東の虎の異名は酔狂で付けられたわけではないのだ。
「昨夜の穴埋めに、今宵こそ空けてもらえるのだろうな」
「いや思うんですけど」
それまで黙っていたが、挙手をして発言を求める。
「夜に来るからイカンのじゃないでしょうか」
「俺とて、執務や軍務で忙しいのだ」
「今は?」
沈黙が落ちた。
大袈裟に溜息を吐く孫堅を、は容赦なく睨めつける。
「言っておくが、忙しいのは事実だぞ」
「今は?」
「今は、小休止だ」
何時から何時まで小休止だというのか。じと目のは、黄蓋に訊いてくると踵を返す。
「凌統」
命とあれば嫌々ながらも従わざるを得ない。凌統は、立ち去ろうとするの腕をはっしと捕まえ、取り押さえた。
じたじたと暴れる様は、まるで犬か猫だ。
呆れつつも孫堅の前に連れ戻すと、孫堅はやはり可愛がっている犬猫の顔を覗き込むようにしての顔を見詰める。
「俺のものにならんか。可愛がってやる」
「結構です」
「いいのか」
「良くないです」
じゃれあっているとしか思えない会話の遣り取りに、凌統は背中がこそばゆくなってきた。
今日は珍しく退室を命じられないと思っていたが、案外こうして見せ付けるのが目的だったのかもしれない。
孫堅はからからと笑うと、の頭をぽんぽんと撫でて、退室を許した。
今度また宴を開くから、そこに顔を出せとだけ付け加えた。
室に戻ると、は茶の仕度を始めた。
本当に茶が好きだなと、凌統が呆れ返る。
に『呆れる』のはもう何度目だろうと考え、数えるのも嫌になり放棄した。
それぞれの専用の茶碗が二つ、卓に載ったのを見届けてから口を切る。
「あんたさ、ちょっと今、呉での付き合いどうなってんのか、いっぺん整理して俺に話しとけよ」
孫堅だの周泰だの、思いも寄らない付き合いにいちいち振り回されるのが面倒になってきた。話して聞かせる類のことではないが、こうなるともう収集がつかない。
御付の侍女が居ればそこから聞きだせもしようが、生憎は一人で来て一人のままで居る。
着替えや掃除は一人でするし、洗濯物もまとめて城付きの家人に頼んでいるから、雇う必要もないと割り切っているらしい。
留守の間は護衛の者か、さもなければ入ってすぐの室に竹簡と墨が置いてあるから、用があったら名前を書いておくようにしてあって、と変に気が回っている。
それだけにの情報は掴みにくかった。
一人で居るのを好む性質というわけでもあるまいが、庭を散歩してたり書き物をしていたりと、それで日が暮れるのも珍しくはないのだ。
「付き合いって?」
「誰とどういう関係なのか、どう思ってるとか気になってることとかさ。さもなきゃ、迂闊に探しにも行かれないだろ?」
今朝とて、ずいぶん探し回ったのだ。まさか孫権の所に行っているとは思わないから、全然違うところをうろつきまわって、今考えると実に馬鹿馬鹿しい。
くさくさした凌統の態度に思うところがあったか、は悩みながらも人名を挙げ始めた。
「伯符……孫策殿は、まあ、いいよね。で、孫堅様は……同盟国の君主で、えぇと、何考えてるかよくわかんない。遊ばれてる気がするから、ちょっと苦手、かな」
必要だと思って訊ねたのだが、こうして聞いていると少し問題がある気がしてきた。
曲がりなりにも同盟国間の絆を強めるべく送られてきた使者のはずだ。それが、相手国の君主を何考えてるの苦手だの言っていいものだろうか。
良くない。
だが、考えなしかもしれなくとも、正直に言っているのがわかった。
それが嬉しい気がしてつい、を制止せずに置いた。
「お頭……甘寧殿は、お頭でー」
「ちょっと待て」
孫策が最初に来るのは分かる。ついで孫堅の名が来たのも、まぁ分かる。
何でその次に甘寧なのだ。しかも、お頭と来た。
「だいたい、そのお頭ってな何なんだよ。あんた、いつからあいつの手下になったんだ」
「いやだって」
お頭はお頭だし、と訳のわからない理屈をこねる。
凌統は甘寧が嫌いなのだ。だから、が甘寧に懐いているのがどうにも気に食わない。甘寧の方が年下であるにも関わらず、は甘寧を敬い慕っているように見える。
そんな価値などあるわけがない、と凌統は唾したい気持ちでいっぱいだった。思ったよりは悪くないかもしれない、少しはいい所もあるかもしれないとは思うようになったが、それとて『かもしれない』の領域を出ることはない。
ちゃんと見れば分かるはずのことを、が分かろうとしないのが歯痒かった。
「……凌統殿、お頭のこと嫌いだもんね」
悟ったような口振りで、は笑みを浮かべる。
カチンと来て、凌統は無言で席を立つ。
そのまま背を向けて立ち去ろうとする凌統を、は腰掛けたままで見送る。
「凌統殿が嫌いでも、私は好きだから、無理だよ」
何が無理か。
扉を出る寸前、を睨めつける。
「……俺に、あいつのこと好きになれってのかよ」
父親を殺した相手を好きになれるはずがない。甘寧とて、憎まれているのをわかっているはずだ。わからなくてはいけないのに、負い目もなくしゃあしゃあとしている。
だからこそ凌統は甘寧が許せずに居るのだ。せめて悔んでくれたなら、自分が悪かったと打ちひしがれてくれたなら、凌統とてここまで甘寧を憎まずに済んだかもしれない。
「別に、そんなこと言わないよ」
「じゃあ、何だっつの」
が笑う。
苦い、重い気鬱な笑みだった。
自分がその笑みの原因なのかと思うと、ぞっとした。訳もなく喚き散らしたくなる。
「ごめんね」
詫びられるいわれなど何処にある、と凌統は歯を噛み締めた。詫びるくらいなら、甘寧と縁を切れと言ってやりたい。
だが、の謝罪は凌統の足に重い鎖を巻きつけてしまった。行くに行けず、戻るに戻れない。
固まってしまった凌統に、はそっと近付き手を引いた。
「ごめんね、もう、凌統殿の前でおか……甘寧殿の話、しないようにするから」
お茶が冷めるから、と通らない理屈を述べては凌統の手を引く。
振り払ってもいいはずだったが、それでは自分があまりに情けなく思えて、凌統は足を引き摺るようにして椅子に戻った。
凌統が椅子に座っても、は何故か手を離さずに傍らに居た。
言いにくそうに口篭っていたが、凌統が目を向けると思い切ったように口を開く。
「……二人とも好きだってのは、ダメ? 許せない?」
甘寧がやったことも、凌統が受けた仕打ちも聞いている。
聞いて尚、それでも二人ともが好きだ。二人とも優しくしてくれる。守ってくれる。
それを、どちらかだけ好きになって、嫌いになるのは無理だ。
「でも、どうしても、嫌だったら」
の手が、凌統の手からそっと離れた。
引き止めたのは、凌統だった。
「……嫌とか、そんなんじゃなくて」
むっとして、明後日の方向を見ながら半ばヤケクソ気味に凌統が吠える。
「ただ」
言葉を捜すように、凌統の眉が顰められる。握った手に、力が篭った。
「ただ……ムカつくだけだっつの」
「なにそれ」
呆れたようなの声に、凌統は口をへの字に曲げた。
普段から呆れている対象に呆れられる。なかなかに屈辱だった。
誤魔化すように勢いよくの手を放すと、音を立てて茶を啜る。
「……俺の前で、あいつの名前出すなよ」
がこっくりと頷く。
「……後、俺のこと、字で呼びな」
「あざな?」
突然の申し出に、はオウム返しに聞き返す。
凌統は不貞腐れたまま茶を飲み干した。
「公績」
凌統の字は知っている。知りたいのは、何故字で呼ばせようと思ったのか、ということだ。
けれど、凌統は飲み干したはずの茶碗を傾けての視線を避けている。言いたくないか、その理由もないかだろう。
男なんていつまで経っても子供だという言葉が、身に染みる。
「……公績、お代わりは?」
が訊ねると、凌統は茶碗をぐいっと押しやってきた。
呼び捨てで良かったろうか、と考えながら次の茶を淹れる。
そっと振り返ったに、凌統は可愛げなく目を逸らしてみせた。
呼び捨てでいいや、と思った。