凌統と話していて、気が付いたことがある。
 気が付くも何も、無意識に忘れようとしていた節もあるが、は呉に来てまだ何もしていないのだ。
 星彩が帰ってからにしても、それなりに時が過ぎていた。
 宴の際に色々な人から声を掛けてもらったが、立ち消えになってしまったかのように何のリアクションもない状態が続いている。
 間が悪くもあり、また、の護衛に呉の家臣の中でも生え抜き(見えなくともそうなのだ)の凌統がついている。生半な身分の者は到底近寄れずに居るのを、自身は理解していなかった。
 いかんなぁ、と反省すると同時に、孫堅が宴に誘ったのはこの為だろうかと思い当たった。
 そんな親切な人だろうか。
 孫堅に対しては、かなり根深い猜疑心を抱いてしまっているから、どうにも裏があるように思えてならない。
 それに、すぐに自分の物になれ等とからかってくるのが気に食わない。今日などは凌統の目の前で言って寄越したのだ。
 いっそ、うんって言ってみようか。
 ふっと思いついたことではあったが、すぐに寒気を感じて打ち消しに掛かる。そんなことを言ってしまったら、ホントに犯されかねない。据え膳食わぬは、等と言う言葉もあるわけだし、孫堅はその性格からして毒を喰らわば皿まで、豪気と言うより大雑把な性質に思えた。
 炎と言うより、風のような人に見える。自由奔放で、伸びやかだ。荒れ狂えば脅威となろうが、穏やかに在ればただひたすらに心地良い。
 嫌いではない。だからこそ、攫われぬよう、流されぬように気を引き締めなければならない。
 親子丼はマズイからな!
 無論この場合の親子丼は食べる方の親子丼ではない。蛇足だが。
「う」
 阿呆なことを考えたせいか、少し腰が引けてきた。茶の成分が未だに体を冒しているのか、些細なことでもの体はすぐに熱を帯びる。
 夜も更けてきたから、そろそろ休むかと立ち上がった。
 寝ることを護衛兵に告げに行く。さすがに急用でもないのに室を覗かれるのは抵抗があり、自分の寝汚さを自覚しているからヨダレ垂らしてぐーすか寝こけているところを見られるのもたまらない。
 他の武将達がどうしているかは知らないが、とりあえずは挨拶してから眠っていた。
 扉を開くと、護衛兵が驚いた顔をして立っていた。
 今まさに開けようとしていたという態で、何か用かとは首を傾げた。
 護衛兵が半身ずらして下がる。その位置に孫権が現れたのを見て、は思わず驚きの声を上げた。

「……すいません、変な声上げちゃって」
 ふへへ、とおかしな笑い声を上げながら、は茶の仕度に忙しく動く。
 卓に広げられた竹簡に、墨で文と絵が描かれていた。のっぺりとした大地に、墨の濃淡を使って雲が描かれている。小さな人影は、見たこともない不思議な形のものに乗っていた。
 何の気なしに孫権がそれを見ていると、不意に竹簡が宙に浮く。
 は恥ずかしそうにしながら、竹簡を奥に下げてしまった。
 無言で戻ってくると、孫権の前に茶を差し出す。
「今のは?」
 気になって問うと、尚香に見せる『お話』の一部だという。
「それはともかく、御用は何です。こんな時間にわざわざお出でになるなんて」
 更に問い掛ける孫権を持て余したのか、の声はややきつい。
 無作法を指摘された孫権は、顔色を曇らせて俯いた。
「あ、そういう意味じゃなくて……」
 は困ったな、と呟きながら所在無く体を揺らした。
「あの、だって、孫権様、お疲れでしょう? 昨夜だって私が牀使っちゃったから、よく眠れなかったんじゃないですか?」
 考え考え紡がれる言葉は、孫権の身を案じ労わるものだったが、孫権の内心を酷く傷つけた。
 やはり、忘れているのかと思うとやりきれない。
 周泰が一体どのようにしてを謀ったのかは定かでないが、あれ程強く掻き抱いたことを、覚えてすらいないという事実に孫権は陰鬱な気持ちに陥る。
 抱いた直後はなかったことにしてしまいたいと後悔したというのに、不思議だった。
 目の前で愛想笑いを浮かべているからは、昨夜の淫蕩な表情は垣間見ることも出来ない。煽り立てるような艶めいた声も、誘うように震えた肌も夢の中の出来事のようだった。
 もそうなのだろうか。
 夢を見た、と思ってなかったことにしたのだろうか。それとも、本当に何も覚えていないのか。
 まさか、と思いつつも、自分こそが夢を見たのではないかと胸が苦しくなる。を抱きたい、穢したいと願うあまり、淫夢に囚われたのではないだろうか。だとすれば、一人の男として何と愚かしく情けないことだろう。
 黙りこくったまま額に脂汗を浮かべている孫権の異変に、はようやく気付いた。
「孫権様?」
 が屈みこんで孫権の顔を覗き込むと、暗い思索に墜ち込んでいた孫権がはっと我に返って立ち上がる。
「な、何でもない」
 出て行こうとした孫権の足に、卓の脚が引っかかって盛大な音を立てる。手も付けていなかった茶碗が引っ繰り返り、孫権の装束を濡らした。
「ちょ、孫権様っ!」
 茶碗を抑えて何とか破損は免れたものの、孫権は茶碗をひっくり返したことにも気付いていないのか、あちこちに体をぶつけながら扉に向かう。
 幾らなんでも様子がおかしいと、は慌てて後を追った。

「孫権様!」
 庭に下りていった孫権を確かに見た。
 けれど、既に夜も更けた庭には月の光の助けもなく、わずかにきらめく星明かりだけが頼りと言う心許なさだった。
 見つけられたのは奇跡に近い。
 にも馴染みとなった池の辺に、孫権はぼんやりとして立っていた。
 見つけたことにほっとして、近付こうとするを孫権は拒絶した。
 何かしてしまったろうか、と考えるが、腹を立てるぐらいなら牀など貸しもすまいし、わざわざ室を訪ねてくる理由がわからない。
 訊ねるより他に手立てがなく、は仕方なく問いを口にした。
 私、何かしてしまったんですか。
 それが、孫権の胸を切り裂くとは思ってもみない。
 のろのろと振り返った孫権が、予想もしない俊敏さでに襲い掛かった。
 体が宙を浮き、背中に衝撃と熱が加わった一瞬後に痛みが体を痺れさせる。
 意識するより早く、塞がれた唇に驚愕して頭の中が白くなった。
 孫権の指は遠慮会釈もなしにの装束の下に滑り込んでくる。
 冷たい指の感触に、我に返ったが暴れ始める。
 非力な、という侮蔑が孫権の視界を狭くした。
 こんな脆弱な力で抗って何になる。何にもならない。
 ただ、孫権の心を切り裂き狂暴にするだけだ。
 何故わからないかと、孫権は歯を食い縛る。
 力尽くで左右に割った襟先が、甲高い音を立てた。
 白い胸乳が露になる。
 の顔は血の気が引いて真っ青だ。
 これでなかったことには出来なくなる。
 もうこれでなかったことには出来なくなる。
 猛り狂うような、ほっと安堵するような、不思議な感覚に落ちた。
 首に、女の腕が巻き締められる。
 ぐっと引き寄せられ、柔らかな肉に頬が沈んだ。顔に浮いていた汗が擦られ、不快だ。同時に、肉とも思えないような柔らかな感触に、心まで沈みこみそうな感覚を覚える。
 体の中に巣食っていた邪気が、吐息に乗せて吐き出されたような気になった。代わりに吸い込まれた空気は、肺に痛みを伴って染み込むほど清々しかった。
 体が酷く重かった。
「……落ち着きました?」
 はっとして見上げれば、わずかな嫌悪を滲ませたが見下ろしている。
 我に返って離れようとしたが、の手がぐっと押さえつけてそれを許さなかった。
 非力な女の力だから、外そうと思えばすぐにも外せるはずだ。
 だと言うのに、孫権の体は再びの腕の中に閉じ込められた。
 狂乱が静まれば、ただもう羞恥に苛まれる。頬に当たる柔肉の感触に、到底落ち着けるものではない。
 もぞもぞと身動ぎする孫権を、叱咤するようには力を篭めて抱き込める。
 頬に当たる肉が、ぐに、と歪む。不思議だった。男の体に、こんなものはない。
 とくんとくんと、早い鼓動が鼓膜を震わせた。の心臓の音だとわかる。こんなに早くては、も落ち着かなかろう。
 落ち着くも何も、自分に乱暴されかけたのだ。落ち着くどころではない。
「……すまぬ」
 孫権はから離れると、目を背けつつも小さく詫びた。
 も、引き裂かれた襟を掻き集め、露になった胸元を隠した。唇が震えている。
「……な、何で、こんなことって、罵って、やりたいです、けど」
 声もまた、細かに震え途切れ途切れに吐き出される。
「理由が、ある、でしょうから……とに、かく、それ、き、聞いてから、です」
 くっと噛み締めた唇が、色を失くして痛々しい。
 風が吹き抜ける。
 冷気が身に染みた。
「すまなかった」
 孫権は再び頭を下げたが、は目に顔を強張らせたままふるふると首を振って拒絶した。
「きっ、聞いてから……!」
 それだけを言うのが精一杯というように、は再び口を閉ざした。
 孫権も頷き、ふとに手を伸ばした。
 は仰け反ろうとして、背後の木の幹に思い切り頭をぶつける。
「……大丈夫か」
 頭を抑えてうずくまるに、孫権は半ば呆れつつ見下ろす。
 手が後ろに回っているから、再び胸元が露になっている。孫権は腰元の虎皮を外し、の肩に掛けてやった。ついでに、その目元に零れた涙を拭ってやる。
 は孫権の手を振り払い、立ち上がる。
「……私の室で、良いか」
 どのみち、もこの格好では室に戻れまい。
 無言のまま頷くと、は目元を乱暴に拭った。
「泣くな」
「痛いんですっ」
 眉を吊り上げて怒鳴るに、孫権は罪悪感を覚えつつ、必死に自らを律しているだろうに何とも言い難い憐憫の情を抱く。
 憐れで、愛しくて、哀しかった。
 立ち尽くしていても仕方がない。折角昨夜は風邪を引かせずに済んだのに、今夜風邪を引かせたのでは話にならない。
 慣れ親しんだ庭は、道が闇に沈んでいても手に取るようにわかる。
 歩き始めた孫権の後ろを、が着いて来るのを気配で感じた。
 頭を打ちつける前から涙を浮かべていたことを、孫権は黙っていることにした。

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