孫権の室の前には何故か護衛兵はいなかった。
 代わりに周泰が立っており、二人を出迎えた。
 の装束の奇異に気付かないのか、周泰に動じた様子は見られない。
「周泰」
 孫権の驚いた様子からしても、周泰がここに居るのは想定の埒外だったのだろう。伏せた眼差しにばつの悪さが滲んだ。
 しかし周泰はただ辺りを気にしたように見回してから、二人の入室を急かし、扉を開けると押し込めるようにして中に入る。
 が戸惑い見上げるが、周泰はただの肩を押して孫権の方へと追いやった。
「……孫権様……」
 自分は外で見張りをしている、とだけ告げると、周泰はするりと扉の外に出て行った。
 何故居るのか、問い質す間もない。
 閉ざされた扉は周泰の放つ気により、材質以上に重たげで開けるのを躊躇わせる。
 孫権は諦めたように肩を落とし、を奥へと誘った。
 椅子を勧め、向かい合わせで卓を囲む。は無言で従うのみだった。
 灯りの元で改めて見ると、引き裂かれた襟先が無残だった。
 繕うにしても相当大きな鉤裂きの跡が残ってしまいそうだ。
「すまなかった」
 無意識に謝罪の言葉が漏れる。謝って済むことではないが、謝らざるを得なかった。
 だが、意外にもは笑みを浮かべた。泣き笑いの苦い笑みだったが、それでも笑みであることには違いない。
「慣れてますから」
 胸を衝かれる思いがした。
 こんなことがしょっちゅうあってたまるものか、と思ったが、の現状を慮るにそれもあながち嘘ではないようにも感じられた。
 孫権の顔色からそれと悟ったのか、の強張った笑みが少し和らいだ。
「……蜀にも、短気と言うか、カッとなりやすい人が居て。優しい、いい子なんですけど、カッとするとどうにも止まらなくなるらしくて、だから」
 女に狼藉を働くなど、男の風上にも置けない。
 しかし、先刻狼藉を働いたのは他ならぬ孫権で、それを口にする資格などあろう筈もない。
「教えて下さい」
 の声が静かに孫権を促す。
 孫権の躊躇いは、ほぼ一瞬だった。
 先に口が動いていた。
「お前が、好きだからだ」
 はっとして口を閉ざすが、嘘偽りではない。
 気を取り直すように頭を振り、姿勢を正してを見詰めた。
「お前が兄上の想い人だとはわかっている。だが、私はお前に好意を抱いてしまった。だから、お前が昨夜のことを忘れてしまっていることが、私にはたまらなかったのだ」
 自分自身に確認するように、孫権は一語一語に力を篭め、はっきりと言い切った。
 の目に戸惑いが生じる。
「私は、昨夜、お前を抱いた」
 宣言するような言葉に、は最初きょとんとし、次いでみるみる青褪め、俯いた。
 孫権は、は酷く衝撃を受けているのだと感じた。胸が痛むが、致し方ないと思った。意に沿わぬまま体を汚されたのだ。傷つけられたとしても、おかしくはなかった。むしろ、当然だ。
 ごん。
 鈍い音がして、孫権がはっとを見遣ると、は卓に額を打ちつけていた。
 何をしているかと慌てて抑えにかかる。
 衝撃が大き過ぎて、頭がどうかしてしまったのではないかと思った。
「……いや―――……」
 掠れ気味の声は悲鳴と言うにはあまりに力がなく、一人言めいていた。赤くなった額と青褪めた顔が相対している。座った眼が虚空を睨み、痛みによる反応からか目元に涙が浮かんでいるのが、肌の色と相まって不安定な違和感を醸し出す。
 あまりと言えばあまりな反応だった。
 てっきり泣き伏すか呆然とするかのどちらかだと思い込んでいた孫権は、の異様な振る舞いにどう反応していいかすらわからない。
「私って奴は……」
 ぽつりと呟いた言葉から、どうもは自分を責めているようだ。
 突然くるりと孫権を振り仰ぐので、孫権は思わず一歩退いてしまった。
「抱いたって、ぎゅってした、とかじゃないですよね? あの、ホントに、えぇと、契った、ってことですよね?」
 慎みの欠片もない言葉ではあったが、気圧された孫権はそれを詰るゆとりもなく頷いた。
「……イヤ―――……」
 同じ言葉を繰り返し、は魂が抜けてしまったかのように力を抜いて倒れ伏した。ごん、と鈍い音がして、頭を強く打ったとわかる。
 身動ぎもしないに、失神したのかと慌てふためく。
 しかし、すぐにまた私って奴は、と呟きが聞こえ、失神したのではなく虚脱しているのだと知れた。
 ごそごそと動き出したは、卓に肘を突き額に指を当てて目を閉じている。
 苦悩しているとも取れる様に、孫権は苦いものを感じていた。
 はおもむろに立ち上がると、無言で孫権を押して椅子に掛けさせた。
 何事かわからぬまま、孫権はともかく腰掛ける。
 孫権を腰掛けさせると、は溜息を吐きつつ自分の椅子に座り、また額に指を添えた。
「……いちお、確認なんですけど、孫権様って、私のこと、好きなんですよね……?」
 そうだと言っている。
 訳がわからないながらもカチンと来て、孫権はむっとしながら頷いた。
「どうして好きなんですか? 何処が?」
 改めて聞かれると、返答に困る。
 気が付いたら目で追っていたのだ。きっかけは孫策の失踪の時に見せた激情だったと思う。筋違いの責め立てに黙って耐えていた心根に、憎かろうに、何事もなかったように振舞うあの笑みに、孫権は惹き付けられたのだ。
 だが、それを言葉に直せと言われると難しい。
 口篭ってしまった孫権に、は苦く笑って見せた。
「孫権様、私のこと知らないから、勘違いしちゃってるんですよ。私、そんな女じゃありません」
 どう思っているかなどわかっているぞと言いたげな口振りに、孫権はの目を見詰めた。
「私、伯符……孫策様の他にも好きだって言われてる人が居て」
 はそこで一度口を閉ざした。何かを躊躇うように、しかし思い切ったように勢いよく口を開く。
「私、他の男とも関係、その、許して、体を許してますよ。虎だって、誰の子かわからない」
 虎と言うのが孫堅が名付けたの子の名だと付け加えられ、孫権は絶句するよりなかった。死んだ子に名付ける孫堅の意図が計り知れなかった。
 は話を続ける。
「それに……それに、私、そのことあんまり嫌だと思ってないし。だ、触られるの、嫌じゃないって言うか、むしろ嬉しいって言うか……。自分から、頼んじゃうことだってあるし、ふ、二人同時とか、相手にしたことだってあるし……淫乱だとか言われても否定できないし」
 自棄気味に声が大きくなるの暴露話に、孫権は相槌すら打てない。顔を真っ赤にして、固く目を瞑ってしまったを見詰めるしか出来なかった。
「だ、だから、だから孫権様が思っているような女じゃ、ないんですから、私」
 沈黙が落ちた。
 は、ぜいぜいと息を吐いた。まるで長時間演説ぶったかのような疲労だ。
 己の恥部を洗いざらい話すのには、膨大な精神力の浪費が必要だ。心臓がやかましいほど鳴り響いている。頭の中では血脈の流れる音が、がんがんと騒音じみて聞こえていた。
「私が」
 孫権の言葉は、半ば意識せずに漏らされるような声音で囁かれた。
「……私が、その男達の一人に入るのは、まずいのか?」
「はっ!?」
 素っ頓狂な声が漏れた。
 孫権の言葉は、にはあまりに衝撃的だった。
 顔をわずかに赤らめ、孫権はの視線から目を背けつつ、しかし尚言葉を重ねた。
「私は、お前が許すのなら、その男達の一人に加わりたい」
 はっきりと、そうしたい、と口にする孫権に、は腰が抜けそうになった。
 何を言っているのか、理解してないのだと思った。『男達』の中には、孫策をも含まれているのだ。もう一度きちんと理解させようとが口を開き掛けた時、孫権は立ち上がりの傍らに膝を着いた。
「兄上から、お前を抱けと命じられた」
 初耳の話に、の動きが止まる。
 同時に、かつて孫策から請われた記憶が蘇った。
――……権と、寝てやってくれねぇ?
 あの男は、まだ!
 かっとなり、居もしない孫策に悪口雑言並べ立てそうになるが、孫権に手を取られ正気に戻る。
「兄上から言われずとも、……私がお前を得たいと思ったことに代わりはない」
 温かく力強い手は、孫策のものと良く似通っていた。
 だが、孫策よりやや繊細な優しい質感の肌は肌理細やかで、その分しっとりと犀花の手を包み込む。染みこんでくる温もりが、の体に変化をもたらした。
 ぎゃーす!
 己のことだけに誤魔化しようがない。
 だから淫乱だと言われるんだ、ホントに淫乱になっちゃったかも、つか淫乱だよホントにっ!
 パニックを起こした頭は、体の操作を放棄してしまったらしく指先すら動かせない。
 固まってしまったの眼前に、孫権の真剣な眼差しが近付いてくる。
 かつて綺麗だと目を奪われた、紫がかった青の目がそこにある。
 吸い込まれそうだと思った。
「お前は昨夜、私に抱かれながら兄上の字を呼んだ」
 さっと顔色を変えたに、孫権は寂しげに微笑む。
「……兄上の代わりでも、私は構わぬ。だが、せめて今ここにいるのは私なのだとわかってくれ……孫伯符ではなく、孫仲謀であることを認めてくれ」
 孫権らしいと言えば言えた。控えめで、己が立場を弁えた、ある意味悲しいほど現実を見据えた告白だった。
 自分が自分だと認めてくれさえすればいい。
 そんなことがあっていいのだろうか。
 口にするからには慎ましやかな願いであれと控えたのかもしれない。
 けれど、孫権の人となりからそうではないと察した。この人は、心の底からそう思っているんだと思えた。
 ああ。
 ダメだ、マズイと混乱しつつも必死に己を制止する声を振り切って、もう一人のが自分の手を差し出させてしまう。
 孫権が驚いている。
 当たり前だ。
 ああ、もう馬鹿だ、ホントに馬鹿だ。
 そう思いつつもの手は孫権の頬を包み込むようにして上向かせ、そのまま唇を重ねた。
 柔らかく熱い、薄い皮膚の感触は瑞々しい。溶け出す寸前のような儚さに、は意識がぼやけていくのを感じる。
 動じていた孫権が、不意に身を乗り出してきた。
 自分の頬を包んでいたの手を取り、握り締めると引き寄せるようにして後ろに引く。
 押し付けられた唇が圧迫に負け、わずかに開いた隙間にぬるりとしたものが侵入してきた。
「んっ」
 思わず漏れた声に食いつくかのように、孫権はの後頭部に手を掛けて更に唇を押し付けてくる。
 舌を吸われ、引きずり出される。味蕾から苦味が脳に伝わり、体が痺れてゆく。
 孫権の指が胸の膨らみを這い、びくんと震えた拍子に口付けが途切れた。
 もう荒い息を吐くだけで精一杯で、言葉を発することが出来ない。崩れ落ちそうになるのを、孫権が支えた。
「淫乱、か」
 囁かれる侮蔑の言葉にさえ、体が反応するのを孫権に観察されている。
 冷ややかな視線は皮膚を突き通し、内部で熱を滾らせる。
「成程な。腹立たしくもあるが、……何とも言えぬ」
 舌打ちしたげな面持ちで、孫権はを抱き締めた。
 人よりやや高めの熱が、を包み込み攫おうとした、瞬間。
 がぁん、と扉に何かが叩きつけられ、厚い板をビリビリと震わせた。
 一気に覚醒した二人は、音のした方を見遣る。ある程度の騒音は打ち消してしまう扉から、罵声とも怒声とも付かぬ声が聞こえてくる。
 顔を見合わせ、は孫権からそっと身を離した。
 神経が正常に戻ったのか、体はの意図するままに動く。
 そんなを、孫権はやや名残惜しげに見詰めた。
 そっと扉を開けた瞬間、覗き込もうとしたの顔のすぐそばに何かが振り落とされる。
 扉を弾いた瞬間に金色に輝く火花を見た気すらして、は床にひっくり返った。
!?」
 暁を構えた周泰の向こうに、波濤を手にして驚愕したような凌統の姿が見えた。
「居るじゃないか!」
 責め立てるような言葉は、にではなく周泰に向かってのものだった。
 黙したまま凌統を睨めつける周泰に見切りをつけ、凌統は再びを振り返る。
 その胸元が肌蹴、肩から掛けた虎皮が先端を辛うじて覆っているその様に、凌統は言葉を失くして立ちすくむ。
 唇がわなわなと震え、留めようとしたのか噛み締めた瞬間、構えも取らぬまま周泰に襲い掛かる。
「りょ、公績っ!」
 が非難めいた声を上げた。武器を噛ませて鍔迫り合いしていた周泰と凌統が、同時に後ろに跳び退る。
 最早の声など聞いてもいない。
 本気で遣り合おうとしている。
 の決断は早かった。
「ちょ」
 横合いから凌統の腹に飛びついたに、二人は気合を殺がれて集中を乱す。
 飛びついた拍子に肩から掛けていた虎皮が外れてしまっている。抱き着かれた形の凌統が見下ろすと、たわんだ乳房が潰されつつもくっきりと線を描いているのが見える。
 殺気はかき消され、かと言って引き剥がすこともできず、凌統は両手を半端に浮かせて立ち尽くすしかない。
 周泰も暁を鞘に納め、落ちた虎皮を拾っての肩に掛け直した。
 睨めつけられても顔色一つ変えない周泰に、凌統は唾してやりたいのを堪えた。
「……説明してもらおうか」
 改めて殺気立つ凌統の前に、困惑顔の孫権が現れる。
 主家の一員に対峙して尚、凌統の怒りは収まらない。むしろ勢いを増すばかりだった。
「わ、私がする、私がするから、公績」
 首を捻じ曲げて孫権を振り返るに、孫権は戸惑いつつも頷いた。
 頷き返すに、二人に通じ合うものを感じた凌統は無性に面白くない。
「……ちゃんと、全部。話せるんだろうな!」
 抑えた声に、凌統が如何に怒り狂っているかが忍ばれた。
「話せないならば、私が話す。中に入れ、凌統。騒ぎを聞きつけた者がいるようだ」
 孫権の言葉に耳を澄ませば、確かに遠くから何人かが駆けつけてくる気配と物音がする。
 沈黙を了承と受け止めた孫権は、後の始末を周泰に託し室の奥へと下がる。
 凌統は渋い顔を見せながらも、を抱いて室の中に進む。
 離れようとしたは、凌統に叱咤されてやっと自分の格好に気が付いた。無我夢中だったとは言え、己の醜態に羞恥して頬が染まる。
 その様に、凌統はほんの少しだけ安堵した。
 だが、を見る周泰の目に気付くと、凌統の不機嫌の度合いは更に水増しされるのだった。

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