と呼び掛ける声に、は重い瞼をこじ開けようともがいた。
 ぱちり、と音を立てて開いたものの、薄目の状態でそれ以上は叶わない。
 孫権の姿に、夢でも見ているのかと思いながら記憶を手繰る。
 そう言えば、昨夜は孫権に抱かれたのだ。
 気付いて尚、包み込んでいる薄靄のようなものは晴れずにいた。
 ぼうっとして孫権を見上げる。
 体を許すの許さないのの言葉ははあまり好かない。女ばかりが許す等と高位に立って、と埒もない反感に駆られるのだ。互いに許しあって、それで交合と呼ぶに相応しかろうと思う。
 我ながらつまらないことを考える。
 が他愛のない思考に沈んでいる間に、孫権はに覆い被さってきた。
 今一度、という声は熱を帯びて切ない。何者かに追われるかのような切迫さを感じた。
 既に体中がだるい。
 武将の強靭な体力で力いっぱい苛んだのだから、当たり前といえばそうだ。
 返答しようとして、口に違和感を感じた。
 声が抑えられないからと、手巾を噛まされていたのだ。
 その間に孫権はの体を完全に組み敷いていた。
 あんなにしたのに、といっそ感心する思いだ。
 目を閉じると、柔らかな肉に固いものが押し当てられ、抉りこんでくるのがわかった。
 半ば感覚がない。
 孫権の息が熱く弾んでいる。たぶん心地良いのだろう。
 濡れた音が響き、泣き出しそうな潤み声が鼓膜を震わせる。
 体の快楽よりもその声に感じ入って、は釣られるように声を上げた。
「……ここか」
 同じところにぐいぐいと擦り付けてくる孫権に、は首を振った。擦られ過ぎた膣は熱を帯びるばかりで、過ぎた快楽から麻痺してしまっている。
 感じようがない。
「……ここか?」
 試すように少しずらしての反応を伺う孫権に、はただ首を振って答える。言葉は戒められているから伝えようもない。
 腕を伸ばし、孫権を抱きこむ。
 入っているかどうかも判然としないが、腹に力を篭めるように意識した途端、孫権の体ががくりと沈んだ。
 情けなさそうにを見上げると、小さく詫びた。
「すまぬ、もう持たぬ」
 持つ方がおかしい。
 孫権の腰が大きくを抉り、音を立てて肉がぶつかる。
 不思議なもので、何も感じないはずなのに何故か段々と気持ちいいと感じてきてしまう。
「……うっ……」
 孫権が短く呻き、熱く濡れたものが飛び散った。
 は再び気を失った。

 凌統がの室を訪れると、はまだ寝ているようだった。
 見張りを下がらせ、中に入る。
 違和感がある。妙に寒い。
 炭を入れてやった割には、温くない空気に首を傾げる。
 朝の冷気に冷やされてしまったのかとも思うが、それにしても寒過ぎた。
 閨の方に顔を覗かせると、窓の一つが小さく開いているのが見えた。
 無用心だと眉を顰め、窓を閉めようと中に踏み入る。
 眠っているの肩が剥き出しなのが目に入った。
「…………」
 一瞬訳がわからず、凌統は繁々とその円い肩を見詰めた。
 はっと我に返り、事後も考えずにの上掛けを剥ぐ。
 案の定と言うべきか、そこに現れた裸体に凌統の顔は引き攣った。
 生臭い。
 男にさんざ抱かれた後だと見当はすぐついて、凌統は上掛けをまくった姿勢で固まってしまった。
 は、寒さに鳥肌を立ててようやく目が覚めた。
 と言っても、目は閉じたままだ。
 もそもそと上掛けを探すが見つからない。下敷きにしていた夜着を見つけ、寝転がったまま袖を通すという不精ぶりを発揮した。
 多少はマシになったが、それでもまだ寒い。
 この時点でようやく目を開け、寝台の傍らに立つ凌統に気がついた。
「……おは、よ……?」
 不穏な空気は読めないものの、何とはなしに違和感は感じたらしくはゆっくりと体を起こした。
 その頭を叩かれる。
 ぱんっ、と、それは良い音がした。
 突然もたらされた衝撃に、は両手で頭を押さえ、涙目で凌統に疑問を投げかける。
 歯軋りしそうな苦い顔付きで、凌統はに上掛けを投げつけると、大股で出て行ってしまった。

 凌統の用意してくれた湯で体を洗うと、冷えていた体も温まった。
 体のだるさとほのかな痛みはどうにもならなかったが、それでも日常生活に差し障りのある程度ではない。
 何より、抱かれたという満足感からか久し振りに落ち着いた心持がした。相手が孫権であるというのがどうにも複雑ではあったが。
 凌統は、の対面に座ってぶすくれたまま一言も口を聞かない。
 顔もそっぽを向いて、を見ようともしないでいる。
 あからさまな態度に、どう対応していいかわからない。
 茶を淹れてはみたが凌統は手も付けようとせず、は一人で茶を啜っていた。
 空気が重い。
 が立ち上がると、凌統が素早く吐き捨てた。
「何処行く気だよ」
 刺々しい物言いに、は肩をすくませる。
「……おかわり、飲もうと思って……」
 茶碗を取り、ついでに凌統の茶碗も下げようと取り上げた。
 ばんっ、と大きな音と共に卓が揺れる。
 凌統は痺れる寸前の手で、こつこつと卓を叩いた。座れと言っている。
 手にそれぞれ茶碗を持った間抜けな状態で、それでもは凌統の指示に従い椅子に掛ける。
「……あんた、孫権様の嫁になるわけか」
 凌統の言葉に、はしばし考え込むように目を伏せ、ふるふると頭を振った。
「じゃあ何だって!」
 憤る凌統に、は再び目を伏せた。
「……孫権様も、そのつもりじゃないと思う……し……」
 何故そんなことがわかる、と凌統は喚いた。眠っていたの様から、孫権が如何に執拗にを求めたのかはっきりと知らしめられた。あれほどの執念を見せておいて、手に入れずにおられるわけがない。
 また、も孫権を受け入れたからこそ情事に及んだのだろう。
 でなければ、話がおかしい。
 黙っていただったが、言い難そうにしかしはっきりと切り出した。
「……孫権様……ね、そのー……中に、出さなかっ……た……んだよ、ね……」
 凌統も思わず口を閉ざす。
 中に出さなかった、と言葉は抽象的だが、その意味するところはすぐにわかる。
 を得ることに迷いがないなら、のすべてを得ようとするだろう。孕ませることにも躊躇はないに違いない。
 しかし、孫権はに子種を植えようとはしなかった。
 抱くだけだったというなら、確かに孫権の意志はとの婚姻には向いていないのかもしれない。
「そらー、中に出さなくったって子供はできるけどさ」
 そうなのか、と凌統は目を丸くし、はそうだよ覚えておくといいよと答える。
「挿れてる間に漏れちゃうんだってさって、こんな話はいいんだよ」
 が茶々を入れ、置いといて、と何もないところから荷物を横にずらす真似をする。手にした茶碗から冷めた茶が数滴零れた。
 自分で言い出したくせに、と凌統は呆れ顔だ。
「……でも、とにかく孫権様は私に子供生ませる気はないんだと思うよ。だから、結婚とか、ないんじゃないかな」
 問題は、だから自分なのだとは眉を顰めた。
「今回だって……ホントは流されちゃイカンって踏ん張ったんだけどね……でも、結局駄目だった。何でだろう。もう、何か情けなー……」
 淫乱だ、と、それこそ趙雲や孫策からも言われている。孫権にすら、しっかり指摘された。
 求められるとどうにも弱い。最近は、体の方が味を占めて暴走しているような気すらする。
 嫌ではない、ちゃんと受け入れた。はこの点だけは決して譲らない。だから自分が悪いと責めるのだ。
 全部相手の横暴と投げ遣ってしまえば楽だろうに、と凌統は思う。こんな脆弱な女が、例え本気で逆らったとしても敵う道理がないのだから、それでいいだろうに。
 損な性分だよと嘲笑いたくなる。
 けれど、のそれは凌統自身決して嫌いになれない愚直さだと感じていた。
「……未亡人の人とか、どうしてるの?」
「は?」
 いきなりな質問に、凌統の目が点になる。
 曰く、喪に服している間は男っ気などあってはならないだろう彼女達は、どうやって耐えているのだか知りたいのだそうだ。参考にならないかということらしい。
 凌統は、馬鹿な女だなぁと呆れたくなった。
 普通の女は、身分の高い、力が強い男に媚を売るのが定石で、もしも男が複数現れたならそれは男の方で何とかするのが常だった。
 稀に女が男を選ぶこともあるが、色男に力がないのもまた世の理で、程度の大小はあれ大抵悲劇で終わるようだ。
 結局、男任せにするしかないというのが中原の『良識』なのだ。
「筋道通しているような固い女もいるにはいるらしいがね。大抵、喪が明ける前にどこぞの男としっぽりと落ち着くか、男に見向きもされないような婆さんかのどっちかだろうね」
 参考にならねぇ、と呻くを見ていて、何時の間にか普通に話していることに気がつかされた。
 緊張感が持続しないのだ。人柄とか雰囲気とかの問題かもしれないが、何はともあれ変わった女だということに間違いはない。
「どっか、落ち着いたらどうだい。一人身だからふらふらするんだろ?」
 凌統の言葉に、はうんうんと唸り声を上げて悩み始めた。
「……でもさ、も、もらってくれるかどうかわかんないしさ」
「は? ……あんた、求婚されてるんじゃなかったのか」
 途端に不安そうにするに、凌統は尚も言い募る。
「選り取り見取りなんだろ? そん中から良さそうなの一人、適当に選んじまえばいいんじゃないの。何なら、くじとかさ」
「……ホントに、もらってくれるかなぁ」
 は未だに、ただ張り合っているだけなのではないかという疑いを捨て切れていない。
 一身是肝と謳われた趙雲、西涼の錦馬超、小覇王孫策、麒麟児姜維、いずれも引けを取らぬ華のある武将だ。それだけに誇り高いだろうし、たかが女のことでも張り合うのかもしれない。
 もらってくれるとはっきり聞いているのは実は姜維ぐらいで、しかも『誰もをもらってくれなかったら』の条件付だ。他の三人は『それっぽい』ことを言っただけだというのがの認識である。
 ただでさえおこがましい相手に、尻込みするのも仕方ない。
「でしょ?」
 相槌を求められても、はいそうですねと安易に頷けない。
 凌統の見立てでは、少なくとも趙雲は本気だろうし、孫策もその気だ。姜維とて、座して待っているようには見えなかった。
 の疑い深さには呆れるばかりだが、中原より遥か南に位置する孤島の如き村の出自(凌統はそう聞いている)では、これぐらい用心した方がいいのかもしれない。
 とは言え、わざわざ親切に言ってやる気にはなれなかった。
「……まぁ、相手に困るようなら面倒ぐらいは見てやるよ」
 誤魔化すと、が怒ったように凌統を睨めつけた。
「結婚の? それとも夜の?」
 どっちもヤダからね、と唇を尖らせるに、凌統は胸の奥底に微かな痛みを感じた。

← 戻る ・ 進む →

Arrange INDEXへ →
TAROTシリーズ分岐へ →