抱かれるのは好きだ、と思う。
 卓に頭をつけて寝そべるというだらしない姿で、は薄ぼんやりと思考に耽っていた。
 普段は主に文官の仕事に就いているという孫権は、意外なほど精悍な体付きだった。軽々との体を抱き起こし、苦にする様もなくに様々な痴態を取らせた。
 抵抗することは考えなかったが、悦に体の力を奪われていたとは言え、人一人の体をああも容易く動かせるのは強靭な筋力がなければ考えられまい。
 受けだ受けだと思っていましたが、ちゃんと男の人でした。
 不埒な思考を巡らせた挙句自爆し、むぐぐ、と謎の呻き声を上げると、隅に置かれた長椅子で竹簡を読みふけっていた凌統が顔を上げる。
「何、けったいな声上げてんだよ。うるさいっつの」
 遠慮会釈もなしにつけつけ言い募る。
「……ここ私の室だもん、いいじゃないちょっとぐらい」
「俺はあんたの護衛で渋々付き添ってるんだ、ちょっとぐらい我慢してくれてもいいと思うけどね」
 孫権に抱かれ、それを凌統に知られて以来、凌統がぴったりとくっついて護衛してくれている。
 曰く、未亡人に虫が付かないようにするには見張りが立つのが一番とのことで、凌統は今腰掛けている長椅子を寝台にして夜も泊り込んでいる。
 せいぜい湯浴みや着替えなどで私室に戻る程度で、後はほぼすべての時間をに割いていた。執務も持ち込む念の入れようで、だから孫権とはあれっきりになっていた。凌統の手前、さすがに無闇に誘い出せないのだろう。
 孫権が室に忍び込んでくることも勿論ない。
 何となれば、凌統がの室に泊まりこむことを決めたその日の内に、凌統直々に孫権の元に報告に赴いたからに他ならない。
 は室で留守番を命じられていたから、二人がどんな遣り取りをしたのか知る由もない。
 帰ってきた凌統から聞いた限り、孫権はただそうか、と言った限りだったという。
 一夜限りの過ちで済ませてしまったのかもしれない。
 飽きるほど抱いて、満足したのかもしれない。
 それならそれでに文句を言えた義理もなく、これきりなのだと納得しておけばいいだけの話だ。
 しかしである。
 何故か、それを寂しいと思う自分が居るのだ。
 あれだけ求め執拗に縋った孫権に、もういいと容易く踏ん切りを付けられてしまう程度の存在なのかと思うと憂鬱にすらなる。
 勝手な話だ。孫権の嫁になりたいと望むわけでもない、愛妾でも情人でもない、ただ孫権には自分を一途に想っていて欲しいと望んでいるのだ。
 厚顔無恥にも程がある。
 そんなことを考えて、はまたうがぁ、と奇天烈な声を上げた。
「うるさいっつの」
「悪かったねっつの」
 この女、と呟いた凌統は、しかし口を噤んで竹簡に目を戻す。
「あんたさぁ、アレはどうしたんだよ。アレやってればいいだろ」
 アレと言われて、は首を傾げた。
「アレだよ、あの、尚香様に送るとか言う」
「あぁ、アレ」
 イラスト入りの物語を綴る仕事のことだとやっとわかった。
 凌統が居るから嫌だとあっさり返す。
 あまりに露骨な物言いに、凌統は読みかけの竹簡を下ろしてを睨めつけた。
「だって、人が居ると気が散って書けないんだもん」
 は、周りに人が居ると創作活動できない口だと主張してはばからない。
 何が創作活動だ、と凌統は苦い顔をしてみせた。
「居ないものとして考えろよ、護衛なんだし」
 基本、護衛というものは居ると思った時だけ居るという存在だ。影と変わらず、また影以上に存在感があるのは本来好ましくない。
「無理だよ、だって居るじゃん。気になるもん」
 ぶーぶーと文句を垂れるに、凌統はどうも小喬殿に似てきたなと呆れ顔だ。
 の不平不満は、プライバシーの侵害のみに留まらない。
 妙に熱を帯びやすい体は、孫権に癒されて数日こそ何事もなく平穏に在ったが、また再び貪欲に蠢いている気配がある。
 凌統が居るのが気になって自慰すらままならないし、慰められない熱は昇華することもなくの体の奥底にわだかまっている。
 これをいったいどうしたらいいんだろう。
 その手の話に未亡人ネタが多いのが分かる気がした。安直に言ってしまうと、溜まるのだ。それはもう、色々な何かが。
 溜めて溜めまくったその何かは、男の濃ゆい欲望を満たすのも容易いに違いない。
 伯符帰ってこないかな、と思いつつ、きっと孫策でなくてもいい、趙雲でも馬超でも良くて、姜維が居たらイタダキマスなんてことになりかねないぞと考え、段々自分が惨めになってきた。
 何か、発散した方がいいかもしれない。
 ちらりと凌統を伺うと、何だという目で見返してくる。
「……じゃあさぁ、私、隣の執務室に篭るから、絶対見ないって約束してくれる?」
「何だそれ。護衛の意味ないだろっつの」
「……扉、少し開けて中の物音聞こえるようにしとくから。それなら、いい?」
 凌統はうーんと考え、渋々了承した。
「扉、片面開けとけよ」
 それだけ大きく開けてあれば、如何な孫権、周泰といえど、凌統を騙し果せてを連れ去ることなどできないだろう。
 は凌統の言う通り、扉を片面大きく開いて執務室に入っていった。
「覗いたら、ヤダからね」
「だから」
 それじゃ護衛にならないっつの、と吐き捨てる凌統に、覗いてもいいけど書いているものは見るな、と言い捨てては顔を引っ込めた。
「何だそりゃ」
 密書を作りますといわんばかりだ。無論これは単なる比喩であって、あのが密書を作るなど思いもよらない。
 ならば何だと考えてみるに、恋文付文の類かと行き当たった。
 誰にだ。
 無性に気になって、そうなると手にした竹簡の文字が急激に理解しがたいものに変化した。
 凌統は憤りながら竹簡を下ろすと、開け放たれた扉の向こう側を凝視した。

 ノートを広げるのは久し振りだった。
 虎の子とも言うべきノートとシャーペンだったが、使わずに腐らせて何になる。
 使うなら今だと、久し振りに絵を描き始めた。
「……あれ」
 久し振りのせいか、線がよれる。描きたい線が描けない。
「げ」
 あれほど描き込んだキャラの顔が上手く描けなくなっていることに、は衝撃を覚えた。
 絵って描かないと下手になるって言うけど、ホントだ……!
 最近も絵は描いているが、筆と墨を使って水墨画風に描いていたから原稿の絵とはまた別物だった。デッサンが取れず、は基本中の基本に立ち返り、団子や十字を描いてからそこに顔や体の線を入れていく。
 前はせいぜい顔の十字に当たりを取るくらいで、そこそこ満足できる絵を描けていたはずなのだが嘘のようだ。
 趙雲が来る前は毎日のように原稿を描いていたものの、仕事をするようになってからは妄想すらしなくなっていた。
 忙しかったし、妄想する前に体現させられていたし、要するに余裕がなかったのだ。
 唸り声を上げながら、手当たり次第に書き散らしていく。
 笑っている顔、怒っている顔、泣いている顔、角度や向きを変えて何パターンも書き散らしていく。
 何とか自分の線を思い出してきた頃には、ノートは20ページ近く浪費されていた。
 集中力は衰えてないのぅ、と一人満足げに頷くと、今度は目的であった『発散』に取り掛かる。
 団子をざっと繋げて大まかな体の感じを掴むと、その線に沿って体の線を描き込んでいく。シーツの上に横たわる少年の姿が、ノートの上に現れた。
 これはなかなかいい感じだ、と思いながら、今度は可愛いミニスカとエプロンで有名な制服を描いていく。ただの立ち姿だったのを、途中で描き換えてスカートの裾をちらりと持ち上げる挑発的なポーズをさせてみた。
 見えそで見えないパンツ萌え! とほくそ笑み、いらっしゃいませと屈みこんでいるメイドやら、振袖を広げていたずらっぽく笑う女の子、ネクタイを緩めるサラリーマンやシャワーを浴びて髪から水を滴らせている青年などを次々に描き上げていく。
 やっぱり私、絵描くの好きかも!
 にやにやしながらシャーペンを滑らせ、描いていく内容は徐々に絡み絵へと移行する。
 手を繋ぐ可愛らしいカップルの絵を描いてみたり、剣客風なおじいちゃんに抱っこされた孫、刀を切り結ぶゲームキャラなどの健全なものから、抱き締めあったり押し倒してみたり、BL風味を醸して妖しげな雰囲気に突入を始めた。
 さすがに趙雲や馬超を描く気にはなれず、描いたところでいかがわしい気持ちになるのはこちらだと見当もつく。見られたらさすがにまずいし、あれやこれやと済ませた身では、妙にリアルに描き込んでしまいそうで怖かった。
 自分のナニまで再現されたら、気分悪いわな……。
 描きやすさでは男の奴の方が描きやすかろうな、と何の気なしに描きかけて、ふっと横を見た。
 気配を感じたのかもしれない。
 そこには、ぎょっとしている凌統が立っていた。
「っっっっっ!!!!!?」
 声にならない叫び声が声帯を震わせる。
 凌統はばつ悪そうに目を逸らし、顔を赤らめた。
 はっと気が付き慌ててノートを伏せ、はだらだらと脂汗を垂らした。
「……まぁ、あの……」
 いかにも取り繕った風で凌統の言葉は歯切れが悪い。
「意外だったけど、結構上手いもんだね」
「……そんな生温い同情なんかいらないもん」
 自分の頭の中を覗き込まれたようで、異様に恥ずかしい。穴があったら入りたい心境だ。
 劉備や関平には見せたこともある。上手くないけど、と卑屈になりつつ、まぁそれなりには描けてるでしょと上目遣いに伺ったものだ。
 いやらしい根性をフル発揮した情けない記憶も相まって、むやみやたらに消えてなくなりたい心境に駆られる。
「イヤ、だからさ……同情とかじゃなくて、ホントに上手いって思ったって」
「いい、別に、無理に褒めなくったって」
 ストレス発散にいたずら描きしていただけだ。褒めてもらいたいわけでもないし、だから覗かないでと言ったのに。
 泣きたいわけではないのに涙が零れ出し、は慌てて目元を擦った。
「……悪かったよ、つい、邪推した」
 が怒りを交えた涙目で見上げてくる。そんなたいしたことはしてないだろ、と反発もあるが、とてつもなく深い罪悪感が凌統を苛んでいた。
「密書、とか、……いや、ホントはあんたが誰かに付文でも書いてるのかと思って、つい、ね」
 言い訳しようとして止めた。本当のことを話そうと、何故か素直に思った。
「……悪かった。これからは、気をつける」
 の頭に軽く手を置き、撫で回す。
 髪をくしゃくしゃにされても、はじっとして身動ぎもしない。
 これは本気で怒らせたかと、肝が冷えた。
「……公績って、ずるいよねぇ」
「あん?」
「何かさ、怒ってるこっちのが馬鹿みたいっていうかさ。普段ヘラヘラしてるくせに、そんな真顔で謝られちゃったら何も言えないよ」
 は深い溜息とともに、不貞腐れたように唇を尖らせる。
 肩から重い荷が下りた気分で、凌統は口の端を無理矢理引き上げた。
「……誰がヘラヘラしてるって、そりゃアンタだろ」
「私はヘラヘラなんてしてないもん」
「俺だってヘラヘラしている覚えはないね」
 軽口の応酬が、ただ快い。
「絵、上手いよな、アンタ」
「上手くないよ、もっと上手い人たくさんいるもの」
 凌統がさり気なくノートを取り上げようとすると、は体を伏せてノートを押し隠してしまう。
「俺描いてよ、かっこ良くさ」
 な、と強請られ、は上目遣いに凌統を見上げる。
 ノートを反対側から開くと、シャーペンの尻をノックして芯を繰り出した。
「描いてる間は覗いちゃ駄目」
 覗きこもうとする凌統を手で追い払い、凌統も生返事をして背を向ける。
 さりさりと軽く小さな音が室の中に響いた。
 出来た、との声に凌統が振り返ると、はノートから紙を破り取り、凌統に掲げて見せる。
 薄青の横線が入った白い紙に、大きな楕円の輪郭と垂れた目、その右目の下に黒い点が描かれていた。
「……かっこ良くっつったろ、かっこ良くって」
 髪をぐしゃぐしゃに掻き乱してやると、は子供のように頑是なくきゃあきゃあ言って笑う。
 まったく、ホントにガキだよな、と凌統は苦笑した。

 けれど。
 夜も更け、いつものように長椅子に横たわる凌統は、浅い眠りに就くでなく闇夜を見つめていた。
 けれど、が子供などではないことを凌統はよく知っている。
 孫権の精をその身に浴びた裸体は、情欲を催す女の体そのものだった。
 の絵は、輪郭を省略しつつもくっきりと描く変わった手法の絵なのだと知った。何のつもりなのか、実際の人間よりも随分丸まっちかったり目が大き過ぎたりはしたけれど、人なのだということはよくわかる。男だったり女だったり、老人や小さな子供が線を繋いで描き表されていくのを、まるで妖術を見るかのような心持で見詰めていた。
 次は何を描くのやら、とほんの少しだけわくわくしながら待っていると、は不意に男のものを描き出した。
 輪郭だけの、描きかけの絵だ。
 ひょっとしたら違うものだったのかもしれなかったが、しかし凌統は、これは男のものに違いないと悟ってしまった。動揺が完璧に消していた気配を乱し、に気付かれてしまったのだが、それも仕方なかろうと凌統は小さな溜息を吐く。
 欲しいのだろうか。
 あの絵だけは、他の絵とは違っていた気がする。妙に生々しく感じられ、その生々しさが凌統を動揺させた。
 はまだ起きているようだ。
 途端、股間に主張し始める熱を感じ、凌統は舌打ちして寝返りを打つ。
 背後に気配を感じ振り返ると、そこにが立っていた。
 白い絹の夜着は、の体の線をゆったりと描き出している。
――欲しいのだろうか。
 自分の言葉が蘇り、凌統は慌てふためきながら飛び起きた。
「何、どうしたんだっつの」
 それこそ自分に言ってやりたいと思いつつ、を見上げる。
「……公績、私の牀で寝なよ」
 ちょっと待て。
 心臓が騒がしく鳴り響くのを感じながら、凌統は生唾を飲み込んだ。
「私がこっちで寝るから」
 長椅子でばっか寝ていると、体おかしくするよと言って凌統を追い立てにかかる。
 馬鹿か、俺は!
 妙な期待をした自分が死ぬほど恥ずかしく、凌統は犬猫のようにを摘み上げると、牀に引き摺り戻して上掛けを掛け、押し込む。
 長椅子に戻ると、床に落ちていた上掛けを拾い上げ、頭から被って無理矢理眠りに就いた。
 何もかもが馬鹿馬鹿しくて仕方なかった。

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