「お気の毒ですが」
 医師が暗く沈んだ顔でそう告げた。
 何が気の毒なのか、にはさっぱりわからない。
 起きたばかりで、視界も薄く濁っている。
 目を擦りながら辺りを見回すと、白い衣に身を包んだ見知らぬ男達が、の牀をぐるりと囲んでいた。
 この光景を見せられたことの方が、よっぽど気の毒な気がする。
 精気ない沈んだ顔がくすんだ灰色に見える。
 色彩を奪われた世界は、狭苦しい窮屈さを感じさせる。
 男達の間から、星彩の姿が見て取れた。軽やかな緑と白の基調に、アクセントに黒が入った鮮やかな装束。
 色彩が蘇った。
 ほっとして微笑みかけると、星彩もまた俯いてしまう。
 何があったのか説明を求めるように見上げるに、医師はまず溜息を吐いた。

 呂蒙が手配した町医者は、あまり評判の良くない医師だった。緊急のことと急ぎ募った為、たまたま近くに居合わせたその医師を招いてしまったのだ。
 依頼を受け、その医師が下した診察結果は風邪及び船酔いからくる体の衰弱だった。
 手持ちの薬を何種類も調合し、良く効くようにと多めに飲ませた。
 適量、という言葉は医師の中にはなかったらしい。
 これで治った者も多く居るというから、は運が悪かったのだろう。
 が倒れた時、孫策の出立と重なっていたことも災いした。
 皆、自主的に見送りに参列してしまい、屋敷の中に人が少なくなってしまった。この屋敷に不慣れな星彩は、気を失ったを放っても置けず誰か通り掛からないかと近場をうろつくしかできなかった。
 やっと通りかかった女官はまだ入りたての新米で、教育係の先輩を探して走り回り、更に時間を浪費した。
 何もかもが運が悪かったとしか言いようがない。
 孫家馴染みの医師が到着した時には、もう手の施しようがなかった。
「……良い、子だったのでしょうな。母体に負担を掛けずに、去った」
 流産だった。
 の知らぬ間に、腹の中には命が宿っていたのだ。
 極度の船酔いも、食欲の減退も、そうだと言われればなるほど納得だ。
 ただ、にとっては未だに信じ難い、夢のような話だった。
 腹の中に子供が居た、という事実が、どうにも理解しかねる。
 恐る恐る触れてみるが、何も異変は感じられなかった。痛みがなくなった分、爽快とさえ思えた。
 働かない頭で、医師の言葉を整理してみる。
 飲まされた薬の効果で、の体の悪い部分が排除された。しかし、腹に居た子もまた『異客』と取られ、薬は腹の子を責め立てた。
 しかし、そうとは知らぬは異変に気付けぬまま宴に出て酒を呑み、歌い踊り、酒と薬が混ざり合い、更に腹の子を痛めつけた。
 寒い中、大喬を追って薄着で飛び出し駆け回ったのも良くなかった。
 医師が駆けつけるのも遅かった。
 やはり、運が悪かったとしか言いようがない。
 けれど。
 はぼんやりとしていた。
 信じられなかった。

 が流産したと聞き、一番に顔を青褪めさせたのは呂蒙だった。
 医師を用意させたのは、呂蒙の指示だったからだ。
 呂蒙の指示を受けた部下は、更にその配下に任を託した。とにかく、何でもいいから近くにいる医師を探して来いとの言葉をバカ正直に真に受けた配下は、たまたまその場に居合わせただけの医師を引き摺ってきたのだ。
 呂蒙が私用で港に来ていたのが災いした。連れていたのが呂蒙の呼吸を読み取る術に長けた副官であったなら、そんな真似はさせなかったろう。昼日中から港に見物に来ている医師が、良い医師とは思えない。
 更に青褪めたのは、大喬だった。
 後ろめたい嫉妬に胸を焦がしていただけに、流産の報は大喬に激しい衝撃を与えた。
 聞いた瞬間、意識を失って崩れた姉を、小喬は驚愕と共に抱き支え、一緒に引っくり返った。意識を取り戻した大喬が号泣し、理由もわからぬまま小喬も姉に習って号泣する。
 周瑜が女官に請われて駆けつけるまで、二人の少女は誰にも手がつけられなかった。
 孫権もまた、衝撃を受けた者の一人だ。
 の腹に居た子なら、孫家の一員であった可能性もある。と言うより、それ以外の可能性などまったく考えられなかった。孫策の子に違いないと盲目に信じ込み、その死に打ちひしがれた。尊敬する兄の子だから、孫権には尚更衝撃だったのだろう。
 故に、孫堅もまた衝撃を受けていた。
 激情は身の内から溢れ出すことはなかったが、その唇がらしくもなく戦慄いたのを黄蓋が見ている。
 しばらくの間、に薬を飲ませた医師を処罰するか悩んでいたようだ。黄蓋の視線に気付くと、すぐにそれと白状した。
「しかし、そこまでしなくてはならぬものでしょうか」
 黄蓋は慎重だった。絡みで、孫堅が冷静を失っているのではないかと危惧したのだ。
「医師と言うのはな、好意と善意で人を殺めることのできる職種なのだ。一歩譲って患者が居ないのはいいとして、暇に飽かせて港をぶらぶら散策するくらいなら書の一つも読んで己を高めるべく研鑽すべきだろう。そうとすら思えんのなら、これから先いったい何人殺すか知れたものではない」
 とにかく裁きを受けさせ、是非を決めさせよ。但し孫家の名に結果が左右されぬように取り計らえ。
 君主としての孫堅は、あくまで冷静だった。

 あちらこちらが、生まれてもこなかった命が失われたことに動揺し、悲嘆に暮れている。
 凌統は苛立たしい空気に煽られる自分を必死に抑えつつ、の室を訪れた。
 出迎えた星彩の表情は、悲嘆と言うより困惑に満ちていた。
 おや。
 不思議な違和感に、しかし敢えて追求も出来ずに星彩に連れられ室の奥に向かう。
 は牀に居たが、服装は文官装束を着込み、起き上がって竹簡を広げていた。
「あ、凌統殿」
 いらっしゃいと笑うは、凌統の良く知る能天気なだ。
 どんな形であれ、子を失った衝撃に打ちのめされていると思っていたのだが、予想は尽く外れてしまった。
 小首を傾げるに、凌統は小首を傾げ返した。
「聞いていたよりは、元気そうだ」
「いや、もうすっかりいいんですよ。でも、星彩が許してくれなくて」
 の言葉に、星彩が渋い顔をする。当たり前だと叱っているようでもあった。
 ぺろりと舌を出し、竹簡を片付け始める。
 相変わらずの子供じみた仕草、相変わらずの声色、相変わらずのに凌統は逆に戸惑いを覚えた。
 腹の子が流れたのだ。
 呉に居てさえ乱行を繰り返していたことを知っている凌統には、腹の子の父が誰だったかを知る術はない。
 しかし、自分に心当たりがあればきっと何らかの翳りを感じると思うし、にもそうあって欲しいと思う。
 それとも、父親がわからない子だから流れても平気で居られるのだろうか。
 胸の内にもやもやしたものが湧き上がり、表情に表れる。
 が不思議そうに凌統を見るのもまた、腹立たしさを増した。
「あんたさ、平気なの」
 星彩の顔がさっと青褪める。
 それを見ながら、は苦笑を浮かべた。
「平気って、アレですよね。アレのことですよね」
 アレと一言で片すのは、ふざけているとしか思えない。口にし難いからこそ代名詞を使っているのだろうが、それにしてもと凌統は眉を顰めた。
 は困ったように頭を掻いた。
「……あのー、星彩にもね、何度か言ったんですけどね。私、実感なくて」
 は。
 白けた空気が場を支配する。
 凌統が固まったのを聞こえなかったと取ったのか、はおどけるように肩をすくめて苦笑して見せた。
「いや、だから。いきなりお腹に子供が居ました、でももう居ませんからって言われても、実感も何もないんですよ。そんなつもりもなかったし、自分に子供が生めるっていうのも何だか理解できなくて」
「そ」
 そんなことがあるだろうか。
 は紛れもなく女で、孫策にも趙雲にも抱かれているのだからその自覚はあるはずだ。
 女である以上は子供を産むのが当然で、ならば自覚など最初から備わっているはずではないのか。
 凌統は、そこでふと気がついた。
 自分は男だから、女が子供を産むに当たっての心構えや感情など、理解しようもないのだ。
 そしてまた、がどれだけ変わり者なのか理解してしかるべき立場にいるのだ。
 星彩はの落ち着きように戸惑っているようだが、凌統はすとんと収まりがついた。
 たぶん、星彩が女であり凌統が男である差が現れたのだ。乱暴な話だが、凌統は自分が倒れ、目が覚めた時に子供が居ましたが流れましたと言われたと考えれば同じようなもんだろうと覚った。
「そっか」
「うん……じゃなくて、はい」
 いきなり通じ合ってしまった二人に、星彩はぎょっとした。
 自分が一番を理解していると思っていたのに、この凌統は星彩がどうしても理解できないでいたの心情を、砂に水が落ちるように素早く理解してしまった。
 悔しさと恥ずかしさで顔が熱くなる。
 請われて淹れた茶は、そんな星彩の心情を汲み取ったかのように酷く渋かった。

← 戻る ・ 進む→

Arrange INDEXへ →
TAROTシリーズ分岐へ →