は凌統と共に街に下る道程の途中に居た。
 以前に孫権に破かれてしまった文官の装束を、繕ってもらいに行くことにしたのだ。
 大喬や小喬付きの女官の中にもその手の繕い物の名人はいるらしいのだが、さすがにこうもあからさまに破かれた跡を見せるわけにもいかない。
 一旦収まった騒ぎをぶり返すことに何の意義も見出せなかったので、凌統が執務に囚われて重くなった腰を上げたのを幸いに、直してもらいに行こうと決まった。
 凌家の昔馴染の職人とのことで、それなりに鼻薬が効く。蜀の文官様に悪さをした奴がいるなどと騒がれずに済むなら、多少手間が掛かっても構わなかった。
 の馬術の腕前はあまり褒められたものではなく、今日も凌統の馬に相乗りとなっている。
 落ちないようにと背中にしがみついているの体には、当然それとわかる膨らみもあり、凌統は自然と無口になった。もっとも、馬を駆けさせながらのおしゃべりなど、舌を噛みましょうと言っているようなものだから、は気付いてもいないようだ。
 を連れ出したのには、実は他に訳がある。
 凌統不在の報はすぐに孫権にもたらされようし、そうなれば情の濃い孫権のことだから、の元に忍び入らないとも限らない。
 ここ最近は諦めてくれたのかもしれないとも思うがしかし、油断は禁物だ。何せ、孫権の腹心たる周泰はを孫権のものにするべく様々に画策しているらしい。
 その手の方面には疎いか興味がないと思い込んでいただけに、周泰の躍動振りは凌統には奇々怪々としか映らない。何をそれほど執着することがあるかと思うのだが、あの寡黙な男が、実はこれこれこういう事情で、などと素直に白状するとも思えない。
 ともかく、が城に居なければ良かろうと連れ出した次第である。本当ならば、繕い物など部下にでも預けて届けさせればいいだけなのだ。
 そんなわけで、城下に降りなければならぬのは、むしろ凌統の都合だった。
 はその辺のことには気が回らないらしく、珍しくもない枯れ木の続く道行を楽しんでいるようだ。忙しなくきょろきょろとしているのが、回した腕から伝わる振動でわかる。
 城から出た理由をに知られれば、もう偉そうな顔はできなくなるだろう。
 絶対に秘密にしなければ、と凌統は気を引き締めた。

 宿は前回と同じ宿だ。
 こうるさい雀の如き娘達は、主によほどこっぴどく叱られたらしく、凌統達の前に顔を見せもしない。あるいは、押しかけてきた錦帆賊達がよほど恐ろしかったのだろう。
 和やかなご面相とは言い難い連中だから、年頃の娘達にはいい薬になったのかもしれない。
 が頭を下げると、出迎えてくれた主はにこやかに挨拶を返す。
「先日は、とんだ騒ぎになってしまいまして相申し訳ありません」
 恐らく詫びたいが為にわざわざ待っていたのであろう。既に詫びの書状が届けられていたが、義理堅い主の気が済まなかったに違いない。
 は、しきりに主のせいなどであろうはずがない、と慰めの言葉を送るが、主は頑なに頭を下げ続けた。
「せめても、手前からのお詫びの品を受け取って下さいませ」
「そっ、だって、あれはお頭が」
「いえいえ、ほんの心ばかりの品でございますから」
 結局根負けし、ほくほく顔の主の案内で、凌統とはとある店へと足を運ぶことになった。
 宿の近場にあるその店は、宿の主が手掛ける店の一つであるという。
 朱塗りの門構えは大きく、そのまま奥に進むとでっぷりと太った女が出迎えた。
「こちらが、そうですか、さぁどうぞ、奥へどうぞ」
 あれよあれよと言う間に奥に連れて行かれるに、何故か凌統は着いて来ない。
 不安げに振り向くに、凌統は今の内に野暮用を済ませてくるとのみ声を掛けた。
 の姿が廊下の角の向こうに消えると、凌統は深々と溜息を吐く。
「……ずいぶん、大変なご様子で」
「ああ、まぁねぇ、なかなか色々あるもんさ」
 軽口をたたきながらも妙に疲れた様子の凌統に、宿の主は微かに笑う。
「……何だい」
 むっとして唇を尖らせる凌統に、主は苦笑してみせた。
「いえ、様のような女が、昔居たなぁと思い出しましてね」
 何処か懐かしげな様子に、凌統は驚きを禁じ得ない。己の身の内話をこの男がするのは、初めてだったからである。
「どんな、女だった?」
 水を向けると、主はわずかに躊躇いを見せたものの、封印が解かれたかのようにぽつりぽつりと語った。
「気立てのいい、素直な女でしたよ。顔の作りはご愛嬌だが、情が深くて奔放で、危なっかしいけれど優しい、可愛い女でした。娼婦でしたが、妙に賢くて、変なことをよく知っている……あれはひょっとしたら、いいとこの出だったのかもしれませんな。それでいて夜は滅法艶やか……いや、これは様にはご無礼ですな」
 まま、と変わらない。
 言うに言えず、凌統は無言で続きを促した。
 が、主はそれきりで切り上げてしまう。
「……さて、公績様。野暮用をお済ませになるのでしたら、早く行かれた方がよろしいでしょう。何、昼からやってる店も、お天道さまの目の届かぬような裏の道沿いにはございます。私も商売に戻りがてら、ご案内いたしましょうよ」
 さすがに父の代から馴染みの男とあって、凌統の『野暮用』の中身も重々承知の上らしい。その上で凌統が動きやすいように便宜を図ってくれたのだろう。
 手の平で弄ばれるような不快感に、怒るよりもまず恥ずかしくて顔を赤らめた。

 その頃のは、ほぼ着ぐるみ剥がされた状態で茫然自失としていた。
 赤はどうだ白はどうだ、金は銀はとひっきりなしに商品が運び込まれてくる。
 商品とは、女物の装束だった。
 何処にこれだけ仕舞ってあるのかと目を剥くほど、色取り取りの装束と飾りが持ち込まれてくる。
「お好きなものはありましたか?」
 思い出したかのように問い掛けられるが、既に何着試着したかもわからない。現代のように綺麗に映る全身用の鏡があるわけでもないから、どれが似合うかの判断など付けようもない。
 口篭っている間に新しい衣装が運び込まれ、また女中達に囲まれ勝手に着付けられていく。
 飾りが合わぬ、色が合わぬと太った女が一言告げれば、女中達はくるくると立ち働き再びに違う飾り、装束を合わせていく。
 目が回りそうだ、とが思い、実際足元がよろめきだした。
 その時、女中の一人が女の傍らに小走りに走り寄り、何事か告げた。女は眉を顰めて振り返る。
「……一度、休憩にいたしましょう。装束はまだたんとありますから、お楽しみになさって下さいましね」
 楽しくねぇ。
 着せ替え人形のような扱いに、は渋い顔を露にした。
 女中が庭でもご覧になったら、と勧めてくれて、は遠慮なく好意に甘えることにした。

 設えられた庭は小さく、狭かったが、よく手入れされていて綺麗だった。
 恐らくは内庭なのだろう、箱庭めいた作りは小ささ狭さを逆手にとって見栄えを良くしていた。
 寒さは厳しかったが、その分天気はいい。
 正月は呉で過ごすことになるだろう、とはぼんやり考えた。
 といっても、この時代の正月に何をするのかなどは知らないから、ぼんやりして終わりそうな気もしていた。
 やはりご馳走を食べたり、酒を呑んだりするのだろうか。
 ならばいつもの宴と変わらない気もしたし、正月は家族で過ごすものだろうから一人身の自分にはあまり関係がなさそうだ。
 人の気配を感じて振り返れば、女が周泰を連れて来たのが目に入る。
 何故周泰が。
 驚き、立ち上がると、女は肥えた体を捻りながら、周泰に一礼して去っていった。
「ど……」
 どうした、という問い掛けはあまり正しくない気もする。何故ここに、と言った方がいいだろうか、いやしかしと考えている間に、問い掛けるタイミングを逸してしまった。
 どうしようかと思いあぐねていると、周泰が重い口を開いた。
「……孫権様が……」
 はい? と首を傾げると、周泰は再び口を閉ざした。ずいぶんと言い難そうだ。
 何だろうかと想像するが、さっぱり見当も付かない。気になってしまい、続きを強請った。
「……誰にも、言いませんから」
 この言葉が奏を効したのか、周泰はを見下ろし再び口を開く。
「……孫権様が……気にしておられる……」
 何を、と問おうとして、ふと自分の顔を指差す。
 周泰がこくりと頷き、をじっと見詰めた。
「気にして……って、え?」
 謎は解けたが深まった、という感じがする。
「孫権様が、何で私を気にするんです」
 気にする云われはないと思う。
 周泰の目がわずかに細められ、何とはなしに怒ったように感じられた。
 しかし、いくら周泰が怒ろうと、に心当たりはない。凌統から四六時中の護衛に詰めると聞かされても、孫権は『そうか』の一言で済ませたらしい。詳しい遣り取りは知る由もないし、むしろ見切りをつけられたと感じていたのはの方だった。
 だが、ひょっとして、とは周泰を上目遣いで見詰めた。
「……もしかして、私が公績撒いてでも孫権様んとこに行くべきだって、そう仰りたいんですか」
 周泰は無言だ。頷きもしない。
 けれど、『当たり前だろう』と言わんばかりの空気がそこにあった。
 絶句する。
「……お前には……孫権様が……必要だろう……」
 正直、それは違う。自分が情けなくて恥ずかしいが、周泰の言葉を額面通りに受け取って、あい左様でございますと言えるほど厚かましくはなれない。
 に必要なのは、熱を昂ぶらせて治めてくれる相手なのだ。孫権でなくてはいけない理由はない。それこそ、周泰が相手でもまったく構わないはずだ。
 情けないが。本当に、心の底から情けないが。
「……何でそこまで見込んでくれるのかわかりませんけど……正直、私みたいなの押し付けられても、孫権様だって困ると思いますよ……」
 例え今は良くとも、だ。孫策と孫権は曲がりなりにも兄弟だ。女を巡って争いになるほど愚かではないと信じているが、その原因になる可能性すらの心根を苛んでしまう。
 俯いてしまったの頭に、周泰の手が何の気なしに伸び、ぽふんと置かれる。
 そのまま撫で回され、周泰の意図がわからず困惑した。
「……お前のような女が……昔……居た……」
 周泰が口を開くも、言っていることがどう繋がるのかさっぱりわからない。
 押し黙るを他所に、周泰は途切れ途切れのいつもの調子で言葉を綴る。
「……求められれば……誰にでも……応じるような……女だった……ただ慰めるように……娼婦という……立場を除いても……恐らくは……」
 懐かしむような声音は、そのひとが周泰に取って大切なひとだったからだろうか。
「……ある時……血迷った男に……殺された……己が……物に……ならぬなら、……と……」
 が弾かれるように顔を上げると、周泰の手はの髪をすべってその頬を柔らかに包む。
「……お前は……俺が……守ろう……」
 何も、恐れることはない。
 周泰は、そう締めくくった。
 託される思い出の重さに、は唇を噛んだ。
 存外に温かい周泰の手を、ヒステリックに振り解く。
「……だから、私はそんなんじゃないんですって。自覚しちゃうくらい、……その、誰でもいいような、そういう女なんですって!」
 確かに、孫権は自分は幾人かの男の内の一人でいいと言ってくれた。
 だが、そんな言葉はあんまりにも都合が良過ぎて、には重い。重過ぎる。
 常識外れにも程があるし、自分の優柔不断ぶりにも腹が立つ。
 それでも尚それで良いと言われることに、胃が沸騰して逆ギレしてしまいそうだ。
「……お前が……迷うことは……ない……」
 誰でもいいなら、それでいいだろう。誰も手放せないなら、誰も手放さなければいい。
 あっさりと決め付けた周泰に、は空いた口が塞がらない。
「お、お前には孫権様が必要とか何とか、今、今言いませんでしたか!?」
 言った、とばかりに周泰が頷く。
「その口で、今度は男を二股三股四股に掛けまくれとか言いやがりますか、その口で!」
 今度は少し考え込み、しかし再びこっくりと頷く。
「……おっ……」
 もう、言葉が続かない。罵声を浴びせるのは簡単だが、今の周泰にはのれんに腕押し、糠に釘と言う奴だろう。
 何より、救い難いその考え方に打ちのめされてしまって、は言葉を綴れずにいた。
「……だっ……じゃ、じゃあ、じゃあですよ、もしもの話ですよ、私がもし、周泰殿がいいって言い出したらどうす」
 ようやく立ち直り、周泰を言い負かすべく勢い込んだの口を、周泰は事もなげに自分のそれで塞いだ。

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