は、キスが好きだ。
 柔らかで温かく瑞々しい唇の感触も好きだし、不思議と通じ合っている感覚になる。
 内臓に通じる部位と言う意味では、これ以上はない急所に属する部分を重ねあうのだから、信頼と言うか身を委ねるという意味では肌を触れ合わせるよりも深い意味があると思う。
 埒もない考えだが、はそう考えている。
 だからかもしれないが、口付けられると肌がざわめく。委ねてしまいたくなる。好きだという気持ちが強くなって、どうしようもなくなる。
 周泰は、わかってやったのではあるまいかと疑いたくなった。
 一度目の口付けが済んだ瞬間、まだ辛うじて残っていた理性を振り絞って仰け反ったが、周泰の手であっさりと引き戻され二度目の口付けに突入した。
 二度目の口付けが済んだ時、今度は反射で顔を背け手で庇ったが、周泰はやはり易々と引き戻し三度目の口付けを施す。
 足がもつれて倒れ掛かるのを、両手で抱きかかえるようにして四度目の口付けが落とされた。
 ようやく許されたのは五度目の口付けが済んだ後で、その頃にはの体からはすっかり力が抜け落ちていた。
 淫乱と評される体は、既に周泰という雄の個体に反応して色付いている。周泰さえその気なら、すぐに事に及べるような有様だった。
 引き止めたのは、でも周泰でもなく、大きく咳払いしながら現れた女主人だった。
「……その辺になさいましよ。小娘どもの悋気を煽って如何なさいます。ただでさえこの昼日中から、人目もはばからずにしていいことではありませんでしょ」
 周泰は、腕の中のを見遣る。
 その視線を嫌うようにが目を背け、周泰は唇を噛む。
 を抱き上げ、庭に通じる階段に腰掛けさせると、周泰はそのまま立ち去っていった。
 ぐったりというよりはがっくりと項垂れているの隣に、女主人は肥えた体を重そうに下ろした。
「まぁね、災難だぁね、あんたみたいな娘は」
 ぐっと砕けた調子に、は顔を赤らめて詫びの言葉を返した。
「謝るこたぁないさ、あんたみたいな娘が、昔あたしの知り合いにも居たよ。あの頃は訳もなく反発したもんだけど、この年になっちまうとね、何となぁくそういうもんだって納得しちまうもんさ」
 自分のような娘、と聞いて、は興味を引かれた。
 周泰が言っていた、『お前のような女』という言葉に重なったのだ。
「そのひと、娼婦だったりしませんか?」
「おやま、大当たりだよ。何だね、旦那様から聞いていたのかね。まぁともかく、娼婦って仕事が天職みたいなひとだったね。旦那様は、男を抱くために居る女って言ってたっけね」
 男を抱く為に居る女。
 ずいぶんと言えばずいぶんなひとと重ねられたもんだと、は我知らず眉を顰めた。
「怒ったかい。怒るかもしれないね、あんたぐらいの年はまだまだ潔癖と言うかね、汚いものは汚いとしか見られないもんさ。けれど、あんたがあのひとと同じ口だと言うのは覚えておいた方がいい」
 とても優しい人だったのに、最期は可哀想なもんさと吐き捨てた女主人の目に、わずかに光るものがある。
 が見上げていると、女主人は乱暴に目元を拭った。
「第一ね、あたしゃ公績坊っちゃんの味方だからね。周将軍がそうだとわかった以上は、もうこの店の敷地は跨がせちゃやんないよ。あんたも、そんなナリじゃもう試着は無理だろう。聡い小娘どもに悟られては面倒だから、このまま宿に送ってあげようね」
 そこで何で凌統が引き合いに出されるのかわからない。
 何か勘違いしているのではないかと諌めようとするが、女主人は眼を潤わせたのが恥ずかしかったのか、の言うことには耳も貸さずに支度をさせると言って立ち去ってしまった。

 女主人に付き添われて宿に帰ると、凌統はまだ戻っていないということだった。
 疲れているから構わないでやるといい、と女主人が気を配ってくれて、茶の支度だけして宿の人間も下がっていった。
 服に関しては、女主人がいいのを選んで幾つか寄越すから、その中から好きなものを選べばいい、ということになった。
 最初からそうしてくれたら良かったのに、と顔に出てしまったものか、を見ていた女主人はくすくすと笑った。
「だってあんた、それは言ったろう、やっかみもあったんだよ。あの公績ぼっちゃんが、たかだか女一人の護衛をやらされているなんて、あたしだって気持ちのいいもんじゃなかったのさ」
 女主人はすっかり気を許したようで、それが本来の口調なのだろうさばさばとした物言いでの髪を梳き始めた。
「しかも、いいとこのお姫様ならともかく、幾ら他所のとこの文官たって平で身分も高かないんだし、見たら見たでみっともない娘だと思ってさぁ。ちょっとばかり意地悪したって訳さね」
 みっともなかったろうか。
 恥ずかしくなって俯くと、女主人は小さくごめんよ、と詫びてきた。
「言ったろう、やっかみだって。どんな綺麗な娘を連れてたって、多分あたしゃ文句をつけていただろう。やれあの衣の染めはどうだ、飾りは何だとね。その程度の底の浅い妬みだ、気にしないどくれ」
 お詫びに、あんたに特別似合う衣をたんと仕立ててあげようね。
 女主人の乱雑な言葉遣いとは打って変わり、その手付きは滑らかで優しい。心地良さから眠くなって、欠伸を噛み殺すのも辛くなってきた。
「……あんた、ずいぶんとくたびれている。お城ん中には男がわんさか居るだろうから、よっぽど苦労しているんじゃないのかい」
 しみじみと言い当てられ、は頬を染めた。
「そんな風に、見えますか」
「見えるとも。第一あの周将軍が、あんなことを仕出かすとは思わなかった。あのお人をしてああなら、他の男なんてもっと厚かましいに違いないだろうよ」
 周泰は、あの店ではずいぶん馴染みのようだ。組み合わせ的には不釣合いな気もするが、周泰のように飾らない人間なら尚更商人任せになってしまうのかもしれないと納得もする。
「あんた、もっとちゃんと着飾った方がいい。ちゃんと綺麗にしてた方が、無理に言い寄ってくる男も減るってもんさ」
 春花と同じようなことを言うな、と口元が緩んだ。
「笑ったね。けど、本当のことさ。着飾るってことには男を呼び寄せる目的と、お前なんかにゃ手が届かないんだよと見せ付ける目的とふたぁつあるんだからね。辛い目に遭いたくないなら、早目に改めることさ」
 女主人はの髪を器用に編みこみ、何処から取り出したのか小さな櫛で簡単に留めた。
「さぁ出来た、これでずいぶん良くなった。お城に戻る前に解けてしまったら、あんた、お店にもう一度おいで。直してあげるから」
 備え付けの鏡を差し出され、覗き込むと確かに印象が違う。
 見慣れない自分に戸惑っていると、女主人は目を細めてを見下ろす。
 礼も言ってないことに気がつき、慌てて頭を下げると、女主人は豪快に笑った。
「いいんだよいいんだよ、あたしだって、何も無料でやった訳じゃない。これを機会にあんたと親しくさせてもらって、蜀の名産蜀錦を上手いこと安く仕入れようなんて考えてるのさ」
 ざっくばらんな物言いは、には却って心地良い。
「私、取引とかは扱ってないんですけど、でも、機会があればお手伝いしたいと思います」
 が申し出ると、女主人は目を瞬かせ、再び豪快に笑った。
「何て素直な文官様だろうね、そんなでやっていけるのかね。ああ、でも、あんたみたいのはあたしはだいぶ、いいや、かなり好きさ」
 一しきりけたけた笑い、満足すると、女主人はの顔を覗き込むように顔を近付けてきた。
 思わず怯んで後退るのを押さえられ、まじまじと顔を見詰められる。
「ああ、うん、悪かあないね、うん、思ったよりは悪かない。ちっとばかり体が弱そうなのが気になるけど、うん、悪かないよあんた」
 何の話だと思っていると、女主人は腰に手をやり、胸を張って宣言した。
「あんた、公績坊っちゃんの嫁においで」
 仰天して、凌統の意志はとか私も仕事がとか、通り一遍の懸念を並べ立てはしたのだが、女主人は引き下がるどころかますます意欲を盛んにした。
 主家、つまり孫家の男から求愛されていることを打ち明けても、女主人はまったく引かない。
 のような女は、主家の男の妻などと仰々しいところに収まるよりは、配下の、気が利くんだか利かないんだかわからない平々凡々とした男の下に嫁ぐのが一番いいといってきかない。
「それに、坊っちゃんとこにくれば、あたし達市井の女がたんと面倒見て上げられるしさ。気取った女共に恭しくかしずかれるよりは、あんただってよっぽど気が楽だろうよ」
 が庶民の出自で根っからの庶民だと見抜いているのは目が高いが、凌統に対する評価は今一つ高いとは言い難い。本当に仕えているのではないからそんな口をきくのだろうが、には冷や汗ものだ。
「いいじゃないか、坊っちゃんもあの年でまだ女っ気もなし、浮気する甲斐性があるタマでなし、あれはなかなかいい条件の男だよ」
 まるで大安売りの口上だ。
 が目を白黒させていると、何時戻っていたのか戸口のところに立っていた凌統が大仰に溜息を吐いた。
「あらいやだ、坊ちゃま帰ってらしたんですか」
「帰ってらしたっつの、人が居ない間に何を吹き込んでるんだよ」
「坊ちゃまこそ、他所で鬱憤晴らすくらいならこの娘を口説いてみせる甲斐性はないもんですかね」
 不機嫌を露にじろりと睨まれ、女主人は軽く肩をすくませた。
「そんなだから、周将軍に先越されちまうんですよ」
 の顔色が変わる。
 睨む矛先を変えた凌統から何とも言えぬ圧力を感じて、今度はが肩をすくめた。
「この娘に当たるのはお門違いってもんですよ。花も盛りの娘に我慢しろと言うのが酷だ、折角宿も一緒なんだから、精々励んでお上げなさいまし」
 明け透けなのは土地柄なのだろうか、顔を赤くするに、釣られるように凌統も顔を赤らめた。
「下らないこと言ってないで、店に戻れってんだよ」
 はいはい、と女主人は腰を浮かし、服は明日届けさせると告げた。
 鈍足の台風のような女主人が去った後、何とも言えない沈黙が落ちた。
「……すまなかったな」
 何となく詫びる凌統に、は首を振った。
 悪い人ではないとわかったし、の『悪癖』を仕方ないと言って認めてくれたのは正直嬉しかった。やはり後ろめたさが消せなかったし、それでいいわけがないとどうしても自分を追い込んでしまう。
 自分ではどうにもならない悩みであるが故に、他人の何気ない言葉は爽然と心を軽くしてくれた。
 それにしても、『男を抱く女』とはいったいどんなひとなのだろう。もう亡くなっているという話だったから直接会うのは叶わぬだろうが、周泰にも女主人にも強く影響したひとには違いなかった。
 物思いに耽るの髪が、いつもの下ろしたままではなく綺麗に結い上げられているのに、凌統はこの時初めて気が付いた。
 細かく編みこまれた髪は、複雑に光を孕んで美しい玉のように輝いている。
 何故だか照れ臭くなり、慌てて視線を逸らした。
「……周将軍て、周泰殿のことだろ」
 ふと思い出し口に出すと、の肩がぎくりと揺れた。
 それを契機に、常の二人に戻っていく。
 まだ、もう少しという願いのような思いが凌統の内に根強くはびこっている。
 何が『まだもう少し』なのかもわからぬまま、それでも『箱』を開けずに済んだことにほっとしている凌統が居た。

← 戻る ・ 進む →

Arrange INDEXへ →
TAROTシリーズ分岐へ →