周泰という人は得体が知れない。
 と凌統の共通認識はそれだった。
 そもそも、を孫権のものにと望んでいる割には、自らもおかまいなしに(いや本当におかまいなしかは本人のみぞ知るところだが)に手を出してくるし、執拗とも思える所作は何処か危うくてを怯えさせる。
 根は優しいと分かっているが、何を求めて何を得ようとしているのかがさっぱり分からなかった。
 凌統が周泰とのことを追求してきたことを契機に、二人は自然に周泰のことを話し合っていた。
「……って話なの、ね。だから、周泰殿は私っていうより、その人を私に重ねてるんじゃないかと思うんだよ」
 の聞き及んだ話に、凌統は少なからず驚いていた。
 周泰が言っていた『娼婦』と、宿の主や女主人が言っている『娼婦』は恐らく同一人物だろう。の如き女が早々居られては、天下泰平の為にならぬというのが最たる理由ではあったが、あまりにも似過ぎている。
 に亡きひとの面影を重ねているならば、確かに周泰の『奇行』もそれなり納得ができるような気はした。
 とは言え、やはり『奇行』は『奇行』である。
 これ以上詳しくとあらば、後はもう周泰自身に直接当たるしか手はなさそうだが、凌統が赴いても口を割りそうにないし、かと言ってを赴かせる気は更々ない。
 周泰の行動が読めぬ以上、今の複雑な関係を更にややこしくするだけなのは目に見えていた。
「娼婦、かー……」
 凌統が思い悩んでいると、間抜けた声でしみじみと呟かれ、それが妙に癇に障る。
「何だよ」
 唇を尖らせて追求すると、は軽く首を傾げた。結わずに残した髪が流れ、微香が微かに凌統の鼻をくすぐる。
「いやぁ、今の状態って、変わんないよなぁと思って」
 いっそ、本当に娼婦だったら話は早かったかもしれない。
 埒もない戯言に、凌統の眉が歪む。
 娼婦の現状を目の当たりにしていないから言える甘ったるい考えに、胃の辺りがむかむかとした。
 凌統は、正に今日の昼、その娼婦達に会ってきたのだ。

 綺麗な女達は、確かに濃密な夜を体現するかのような色香に溢れていた。
 が、建物の影には光に生じる闇のように、塵屑のように横たわる痩せさらばえた女達が蹲まっている。
 宿の主に聞けば、あれもまた娼婦だという。
 この商いをしないでは生きてゆくことが出来ない、だからあんな風になっても、夜の闇に紛れるようにして『商売』に精を出すのだという。
 暗くなってしまえば見た目は分からない。安ければいい、『穴』があれば問題ないというような男も居ないではないのだそうだ。
 ああ見えて、まだあの女達は四十を越えては居りませんよ。
 宿屋の主の言葉は、凌統にある意味衝撃を与えた。
 夜では見えなかった現実がここにあった。
 案内されて、やってきた女としばし話し込んでしまったのはそのせいだ。
 面影が何処かに似ているような気がするその女は、声だけはのものとはまったく違って、しゃがれた、男のような声をしていた。
――つい先だって、客に喉輪を締められちまいましてね。
 それがなかなか治らないのだ、とこともなげに笑う女に、背筋が寒くなる。
 身分を明かさずに入店したから、女は凌統のことは知らぬはずだった。また、こうしたところの女が外に出ることなどまずなかろうから、女が凌統のことを知っている由もなかった。
 けれど、女は凌統の身に纏うものや雰囲気などからある程度の身分の高さや出自を嗅ぎ取ったらしい、やんわりと笑って凌統の顔を覗き込んだ。
――こんな商いですけどね、旦那。好きでやっている女も居ないじゃあない。因果な話でしょう、だからね、旦那。
 旦那みたいなお人は、こんなところにあんまり顔出しちゃいけませんよ……。
 掠れた声で笑う女は、そんな風には微塵も見えないはずなのに、何処か悲しくて胸が痛んだ。
 済ませてしまいましょう、という言葉は実際によく即していた。
 けれど、凌統の気持ちに暗い影を落とす。
 その顔を見た女は、客を取ることに慣れて錆びた笑みではなく、腹の底から可笑しいという笑みを浮かべた。
 もうこんなとこに来ちゃあいけませんよ、いいですね……と囁きながら圧し掛かられて、後は『済ませる』ことにのみ専念させられた。

 不機嫌になって黙りこくった凌統に、は常と違う何かを感じて口を閉ざした。
 何気なく言った言葉だったが、それだけに考えなしでもあった。
 凌統の気に障ったとしても不思議はなく、だからは首をすくめて凌統の沙汰を待つより他なくなってしまっていた。
「……そういうこと、言うなっつの」
「……うん、ごめん」
 一気に重くなった場を切り替えるべく、凌統は大きく溜息を吐いた。
「服、いいの見つかったのか」
 明日届けると聞いた。
「ううん、って言うか、いっぱいあり過ぎて選べなかった」
 はそう言って、半ば半裸の状態で次から次に着せ付けられて大変だったこと、あまりの目まぐるしさに本当に眩暈を起こしかけたことなどを話し始めた。
 凌統はそれを時に軽くあしらい、時に笑って聞いていた。
 女主人から身奇麗にしていた方が良いと忠告された話に至って、凌統は眉を寄せる。
「あんた、やっぱりその手の侍女かなんか、御付の女を雇った方がいいんじゃないのか」
「……えぇー」
 がどうしてそんなに嫌がるのかがよく分からないが、何をどう言い繕ったところで、今現在のが政に携わっていることに間違いはない。
 仕事をするしないでなく、その存在そのものが言わば呉と蜀の友好の印なのだ。
 よくよく考えれば高官の血筋という訳でもなく、凌統が当初やたらめったら反発を覚えていたのもそのせいだ。友好の印に値しないではないか、とただ無闇に腹立たしかった。
 寄越されたといっても献上された訳ではないし、人質という訳でもない。無価値であるはずのに、呉の文官将官がこぞって大騒ぎするのが気に入らなかったのだ。
 それが今や、一番近くでの面倒を見ているのが自分だということに、凌統は不思議な縁を感じていた。
「じゃあ、何で春花とかいう、あの娘を連れてこなかったんだっつの。あの娘が居りゃ、何の問題もなかったんだろ?」
 の顔が渋面を作るのを見て、なりに自分の身の上を考えて置いて来たのだろうことを認識する。
 その割に緊張感が欠片もないのには頭が痛いが、何も考えていない訳ではないようだ。
「まぁ、あんたもちゃんと自分の身分考えな。俺だって、護衛は出来てもあんたの身の回りの面倒まで見ちゃいられないっつの」
 何気なくの髪に手を伸ばす。
 結い上げた髪は時間が経つにつれ少し解けてきていた。指で直すように掬い上げる。
「こういうの、自分じゃできないだろ」
「……うん」
 は凌統のさせたいようにさせつつ、何か悩んでいるようだった。
 どうした、と水を向けると、妙に言い出し難そうに上目遣いに凌統を見上げる。
「……あの、さ。私、あんまり、人と話すのとか、上手くなくて、さ」
 だから、知らない人に面倒を見てもらうのは怖いのだと告白した。
 何を今更。
 驚きの余り凌統が固まってしまうと、は尚恥ずかしそうに俯きながら、もじもじと説明を始める。
「う、あの、何ていうか。加減というか。何処まで腹割っていいかとか、何処まで信用したらいいかとか、そこら辺見極めるのが、上手くなくて。だから」
 開けっぴろげなのは加減が出来ないからそうせざるを得ず、馬鹿正直なのは隠し果せるだけの知恵がないから端から諦めているのだ、と知って、凌統は呆気に取られていた。
 信念などというたいした物を持ち合わせているとは露とも思っては居なかったが、こんなことを考えているとは思いも寄らない。
 返答に窮するが、は凌統の言葉をじっと待っている。
 口を開かざるを得なかった。
「……つーか、あんた……そんなのいちいち考えてから付き合ってたんじゃ、身がもたないだろうよ」
 信頼や信用などといったものは、付き合いを続けていく内に得られるものだろう。
 最初から、この人は信用が置けるの置けないのと分かるなら、何も苦労はない。
「でもさ……なるべく、そういうの分かる人と付き合いたいとかって、思わない?」
 信じたいのは信じたい、けれど傷つくのは嫌だし、傷つけるのも嫌だ。
 理屈は分からないでもないが、世の中には人の気持ちを傷つけても平気だという人間も居れば、傷つけたことにすら気付けないで居る人間も居る。
 傷つけられずには理解できない愚かな人間も居るし、結局誰が悪いという訳でもなかろう。
 それこそ十人十色で相性の問題もある。誰からも愛される人間など居ないし、居たら居たで気味が悪いと凌統は思う。
 ままならないのが人生だと誰よりも痛感している凌統だけに、の子供めいた主張には呆れ返るばかりだ。
「そこそこに付き合えばいいだろ。どの道あんたには侍女は必要なんだし、どうしても嫌だったら、暇を出すなり別の仕事与えるなり」
「でも、それでその人が傷ついたりしたら何か」
 挙句、当てにしていた給料が入らなくなって、路頭に迷ったりしたら等とろくでもない想像を働かせている。
「気ぃ回し過ぎだっつの」
「でもさぁ」
 いつまでもぐだぐだと呻いているので、凌統は呆れっ放しだ。
「……俺とか」
 不意に、とん、と自分の胸を指す凌統に、は無言のまま目線を上げる。
「最初、仲悪かったろ? でも、今はこうしてあんたの話聞いたり相談乗ったりしてる。人の付き合いなんて、そんなもんじゃないか」
 の目がぱちくりと瞬かれる。
「……そっかぁ」
「だろ」
 深く納得したようなに、凌統の口元にも笑みが浮かぶ。
 も微笑み、不意に寂しげに目を伏せた。
「……前に、選べないって言ったじゃん?」
 何の話かと記憶を辿っていると、の方から先に説明を入れてくれた。
「ホントにもらってくれるか、分かんないって。アレ」
 凌統がに、誰かのところに嫁に行けば、と投槍に提案してみたことがある。それを思い出し、凌統は話の筋が読めぬままに頷いた。
「……私、さぁ……たぶん、信用して、ないんだと思うのね」
 誰を、と訊くのもおこがましい。当然、孫策らのことだと思い当たった。
 凌統は再び驚かされていた。特に孫策などは、が絶大な信頼を寄せて他の追随を許さぬ存在だと思っていただけに、の告白は意外と言うよりない。
 は重い口をこじ開けるようにして、苦く笑った。
「……あ、の、ね……ヤな、話なんだけど……公績はさ、私が何人かと関係持ってるの、知ってる、よね……?」
 少なくとも、趙雲や孫策、孫権と関係があるのは知っていたし、ちょっかいを出す男が他にいるのも知っている。何故こんなに言い難そうにしているのか、それが分からない。
 口を挟める雰囲気でもなく、凌統はただ頷いた。
「……あ、のー……ヤな話……みんな、ね……いきなり……なんだよね……」
 要領を得ない。
 凌統が首を傾げると、は目に涙を滲ませていて、それを指で拭う。
 それほど言い難いことか。
 心臓が痛いほど打ち始め、凌統は背筋が凝るのを感じた。
「私も、何ていうか、なぁなぁで済ますから、良くないんだな……と思うんだよね……って言うか、あの……打たれたりとか……無理矢理だったり、とか……」
 大体において、を想っているからこその狼藉だと自身も了承はしている。
 しているが、では与えられた恐怖が帳消しになるかと言えば、それはまったく別次元の話だ。
「謝ってくれる、し……反省もしてくれたり、は、してるみたいだけど……やっぱり、怖……い……って言う、か……」
 どう説明したらいいのだろうか。
 自身、自分の考えが様々に変化してしまうことを知っている。言葉に直すにしても、その時々に応じて微妙に変わってしまう。
 だが、『怖い』という気持ちは常に変わらず胸の内にわだかまっていた。
 例えば。
 誰かを選ぶことで、選ばれなかった誰かの恨みを買うのが怖い。
 選ばなかったことで、見限られてしまうのが怖い。
 選んだ相手が、本当にを大事にしてくれるのかさえ分からなくて怖い。
 相手の気持ちなど、分からなくて当然だという凌統の言葉は正しい。の気持ちが様々に変化するように、相手の気持ちも時々に応じて変化するのだと思えば納得もする。
 けれど、ではそれで安心できるかと言ったら、やはりできはしない。
 打たれた痛みも無理矢理犯された記憶も、決して消えていない。時折、心の暗いところから浮き上がってきてはを怯えさせる。
 優しい記憶とあいまって、それらは逆に色を引き立てて鮮明に形を為す。
 そのギャップが怖い。
 信用していない、だからこんなに怖くなるのではないかと思った。
「……私が勝手、なのかなぁって、思うんだけど……」
 おどおどと付け足すと、凌統の手がぐしゃぐしゃと頭を撫で回してきた。折角結い上げた髪をわざと乱すような手付きで、も頭を上げていられなくなるような力の強さだった。
「嫁かないでいい、そんな連中のとこ」
 ぼそり、と不機嫌そうに呟く声に、は怪訝な目を向ける。
「いい、嫁かないで。あんたが嫁きたいって男見つけるまで、何処も嫁かないでいい。何だったら、全部振っちまえ。いい、もう、全員見切り付けちまえっつの」
 おかしいっつの、そんなん。
 好きなら何をしてもいいなんてことは、ない。
 凌統の言葉に、は笑おうとして、失敗した。
 顔を歪めて、堪えようとした先から涙がぼろぼろと零れていく。
 凌統は、今度は優しい手付きで頭を撫でてくれた。
「……嫌いじゃ、ないんだよ。好きなんだよ。でも、でもね」
「嫌いじゃないから、好きだから尚更嫌なんだろ」
 間違っているのを正そうとして傷付けるならばともかく、自分の激情のまま、自分の為だけにを傷付けるというなら、それは許される行為ではない。反省するのは当たり前で、しないというならそれこそ締め上げられて然るべしだ。
 はうん、うんと頷いている。
 ずっと誰にも言えなかったのだろうか。
 言う言わないのところにも達ってなかったのかもしれない。気が付かないように方寸に蓋をしていたというなら、何とも言えず哀れだ。
「私が勝手、なのかなぁ」
 甘えているのが分かる。
 否定して、そうではないと言ってとせがまれているのが分かる。
 鬱陶しいと言って切り捨てるのは簡単なことだ。人一人を支えるのは、存外疲れることなのだとは分かっている。
「勝手じゃないっつの」
 頭を撫でてやると、は顔を上げた。
 涙は止まっていなかったが、笑みを浮かべて凌統を見詰めていた。
 ありがとう、という声は小さかったが、凌統の胸に深く染み込んだ。

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