が目を覚ますと、室の中は暗く視界もあまり利かぬような状態だった。
 まだ夜が明けていないのかと寝直そうとして、はっと我に返り飛び起きる。
 窓の木枠の縁がわずかに白く滲んでいた。
 錠を外して開け放つと、案の定日は既に昇り切っている。冬だから、時間としてはかなり遅い方だろう。
 あちゃあ、と頭を抱える。ここまで遅く起き出したのは久し振りのことだった。
 呉の城の中であれば、城付きの家人が身支度用の水やら湯やらを運び入れてくれるので、どうしても寝たままではいられない。夜着を脱ぎ捨て、身なりを整える頃には朝餉が運び込まれてくるので、寝惚ける暇もないのだ。
 宿の者が気を使ってくれたらしい。
 それにつけても、蜀の文官としてはみっともない限りだ。は自己嫌悪に陥った。
 こんなことで蜀の文官達のイメージを悪くしないといいが、と不安を覚えていると、扉の外からを呼ぶ声がする。
 閂を外して顔を覗かせると、そこに凌統が立っていた。既に身支度も整え、すっきりとした面持ちでを見下ろしている。
「あんた、まだ寝てたのかよ」
「……すいません」
 呆れたような口振りにも反抗もできず、素直に謝ると、凌統は軽く肩をすくめた。
「いいけどね。その様子じゃ、飯、まだ食ってないだろ。今、湯なり運ばせるから、身支度が済んだら一緒に済ませ……」
 済ませよう、と言い掛けた凌統が、突然口篭る。
 何事かと見上げるの頭を軽く叩くと、「食おう」と言い直して下に降りていってしまった。
 凌統の不機嫌に心当たりがなく、けれど寝坊したことに気が急いてしまって、は悩むのもそこそこに切り上げ朝の仕度をしようと室の奥に引っ込んだ。

 朝から温かい食事にありつけるのは有り難いことなのだと、はこの世界に来てから知った。
 大抵は昨日の残り物で済ませるのが常だ。朝はあまり時間がないし、燃料も貴重品の類に入るからだ。
 目の前の朝食からは、如何にも温かそうな湯気が立っている。
 自分が(凌統が、かもしれないが、そのお零れに預かっているとしても)歓待されていることを身に染みて感じ、思わず手を合わせて拝んでしまった。
「……何してんだ、あんた」
 両手を合わせて目を閉じてしまったに、凌統は不思議そうな目を向ける。
「感謝の気持ちを篭めて、まず心でいただいているのでいす」
 ナムナム、と呟くと、凌統は嫌そうに眉を顰めた。
「何だそりゃ、何かの呪いかっつの」
「呪いは呪いだけど、別に何かあるって訳じゃないよ。強いて言えば、有難うございますって意味かなぁ」
「……手を合わせるぐらいはいいけどさ。薄気味悪いこと言うなよ、飯がまずくなる」
 凌統が護衛についてから、特にの室に泊り込むようになってからは食事も共に取ることが多い。食事前にが必ず手を合わせるのを、凌統はいつも不思議そうに見ていた。
 そんなに気にするほどのことでもないとは思うが、聞き慣れていない凌統には『南無阿弥陀仏』の類の言葉も薄気味悪いのかもしれない。
 中国で当初仏教がなかなか広まらなかったのは、超が付くほど現実主義なせいだとも聞くが、まったく新しい考えを定着させることの難しさを指し示しているのかもしれない。
 とは言え、も別に熱心に仏教を広めたいとは思わないから、ここは逆らわずに黙って頷いた。
 だのに、凌統は胡散臭げにを見遣る。
「あんたが素直だと、何か薄気味悪いな」
 どうしろと。
 が憮然とすると、凌統はくすくすと笑い出した。
「そうそう、その顔。あんたらしい」
「失礼だなぁ」
 一瞬むっとするが、すぐに釣られて笑ってしまった。
 素直と言われれば素直かもしれない。
 わがまま極まりないの話を黙って聞いてくれた上、すべて肯定してくれた。
 可笑しな話、凌統は男なのだから、普通は同性の肩を持ちたいものではないかとは思った。けれど、凌統は詳しく問い詰めもせずにの味方になってくれた。
 適当に応対したと言う感じではない。が思わず言い訳がましいことを口にするほど、本気で怒ってくれたように思う。
 前もそうだった。子供を亡くし、けれど実感できずに戸惑っていたを、凌統だけが認めてくれた。
 凌統の優しさを改めて実感する。
 動きを止めてしまったに、凌統はいぶかしげな視線を向ける。
「……昨日、ごめんね」
「何が」
 素知らぬ顔で汁物を啜る凌統に、は何故か泣き出したくなった。
「公績が弱音吐きたい時は、私が聞くからね!」
 拳を握って力説するを、凌統は横目でちらりと見遣ったのみだった。
「ホントに……つか、聞くぐらいしか出来ないけど……でも、ちゃんと聞くし! 誰にも言わないし!」
 吐き出すことが出来るだけで、気持ちの持ちようはまったく変わる。
 凌統に何か返してあげたいとは思うのだが、が持っているものなど大概ろくでもなく、出来ることもたかが知れている。
 ならば、せめて凌統が弱音を吐きたい時は聞くだけでもしてあげたい。胡乱な説教をされるのでなく、ただ聞いてもらいたいだけの時もあるだろう。
 そういう時があれば、と思ったのだが、よくよく考えるとが役に立とうとするには凌統が何かなりに苦悩しなくてはならないことに気付く。
「……あの、そういう時がもしあったらってことで、別に吐き出すこと作ってくれって言ってるんじゃないからね?」
「何、一人で百面相してるんだっつの」
 空いた手で軽く叩かれて、は頭を押さえる。大した痛みもなく、条件反射で手をやってしまったのだが、数瞬の間を空けて大袈裟に痛みを訴える。
「あんたなぁ」
 が笑うと、凌統も笑った。
 トモダチ。
 そんな四文字が頭に浮かんだ。
 響きが照れ臭く、片言めいたカタカナに、はひっそりと笑った。

 食事が済むとすぐ、女主人がやってきた。
 七八人の男達が、手に手に大荷物を携えてどやどやと後に従ってきたものだから、の室は足の踏み場もなくなってしまった。男達はすぐ去っていったが、手にしていた荷物は置き去りにしていったので室の狭さは変わらない。
「何だよ、これ」
 窮屈な有様に、凌統が文句を垂れる。空いた皿を下げたばかりの卓にも、椅子にも、牀の上にも荷物が載せられてしまって座る場所がない。
「何って、昨日申し上げましたでしょ、この子の装束ですよ」
 上から下まで一式ずつ揃っていると言われ、荷の数を数えてみると十五もある。
 昨日の着せ替えごっこの再現かと渋い顔をすると、女主人は目敏くそれを見咎めて、からからと笑った。
「大丈夫さね、これは全部あんたのだから」
「……は?」
 いくら何でもそれは、と口を開きかけるに、女主人は素早く先回りして口を開いた。
「この内の一つは、本来の約束の品だよ。旦那様がお贈り差し上げろと仰っておいでだからね。残りはね、これは袖の下さ」
 売り飛ばそうと人に回そうと構わない、と胸を張られるが、袖の下と言うのはもう少し穏便と言うか、こっそり贈られて然るべきものではないだろうか。
 何とも言えず複雑そうな顔をしたに、女主人は手を叩いて喜んだ。
「面白い、面白い。何て嫌そうな顔をするんだろうね、ああ可笑しい」
「……いや、別にあんまり可笑しくないと思うんですよ……?」
 二人の遣り取りを黙って見ていた凌統は、ふと思い出したように女主人に話し掛けた。
「髪結いとか、化粧とかが上手い子に伝はないか。このひとに付けるんだけどさ、こういう面倒臭い女の世話をきっちり焼いてくれる親切かつ丁重で気のいい子が願わしいんだけどね」
 ぐぎゃー、と謎の奇声を上げて凌統を睨むを無視し、凌統は顎に手を当てて考え込む女主人の返答を待った。
「髪結いと化粧の腕が良くて、この娘の面倒を嫌がらずにきっちり看れる親切で気立てのいい、それでいて気さくで仕事の手も抜かない、元気で明るく気の利いた子となると早々は居りませんけどね」
 勝手に条件を上乗せして悩んでいた女主人だったが、ふと思いついたように良かったねぇ、とを振り返る。
「当てがあったかい?」
「ありますとも。有るも大有り、ちょうどぴったりなのが居るじゃあないですかね」
 女主人の口振りからして、凌統も見知り置きの娘かと考えてはみるが、どうにも思い当たらない。
「……そんな娘が居たかな」
 凌統が困惑していると、女主人は下唇を突き出し、『んっ』と自分を指差した。
 目が点になる。
「ちょ、ちょっと待った、あんたは店があるんだろう」
「あんなものは、うちの小娘どもに任せておけばいいんですよ。なぁに、あたしが居なくったって、すぐに屋台骨がきしむような躾はしちゃあおりませんもの。大丈夫、大丈夫」
 それとも、あたし以上に適任が居りますか、居らないでしょうと一人勝手に話を進めていく。
「いや、って言うか」
「何です」
 俺は、『子』って言ったんだし、あんたもそう言ったろう。
 凌統は、後に続く言葉を飲み込んだ。
 言わずに済ませたことがいいことも、この世にはある。
「……旦那には、了承取ったのかい」
「そんなもの」
 鼻でせせら笑う女主人に、どうやら嬶天下らしいと凌統は肩をすくめた。
 宿の主と衣装屋の女主人は、傍目に釣り合いは取れておらずとも、とても仲のいいおしどり夫婦と評判なのだが、実際は噂と違って幾分か世知辛いらしい。
「そりゃあ、毎日とはいかないけどさ。あんた、赤の他人と年柄年中一緒に居たいって風でもないし、そうしたらあたしが一番ちょうどいいだろう。ね、そうおし。そうおしな」
 ごり押しに近い女主人の申し出に、はしばし悩んでいるようだった。
「……私、文官と言っても平ですし。ちゃんとしたお給金いただいている訳でもないんで、お支払いできるものはあんまりないんですけど」
「いいさ、別に」
 商いする者にとって、何よりの対価は人脈だ。まして布を商う者にとって、蜀錦は人気の高い商品となる。蜀錦に連なりそうな者との繋がりは、大抵喉から手が出るほど欲しくて堪らないものなのだ。
 大袈裟な身振り手振りを交えて注釈を付ける女主人に、は小さく笑った。
「やってもらうっていうか、できたら先生として教えてもらいたいんですけど。私でも、ちゃんと化粧とか髪を結うのが上手く出来るようにとか、流行とか」
「ああ、いいとも。何、あたしは別に三度も訪ねてくれなくったって構やしないさ」
 女主人の言葉が劉備と諸葛亮の『三顧の礼』を差しているのだと分かり、は思わずぷっと吹き出した。
「ああ、良かった、怒られるかと思ったよ。……あんたならあたしは大丈夫、あんたが怒ったってむくれたって、上手にあんたの機嫌を取ってあげる。あたしはね、嫌いな人間は嫌いさ。つんと取り澄ましているような女は分けても嫌いだね。と言って、顔ではへらへら笑って、腹の底では何考えてるか分かんないような女もね」
 何でも教えてあげる、と言うなり、女主人は手当たり次第に荷物を引っ張り出し始めた。
「まあ、細かいことは置いといてだよ、とにかくさっさと合わせるだけ合わせちまおう。どれもこれも、絶対あんたに似合うと思うけどね、着てみると意外にあれの方が良かったなぁってことがあるもんさ」
 女主人は、凌統が居るにも関わらずの装束を剥ぎに掛かり、またも素直に帯を解き始めるもので、凌統自身が慌てて外に飛び出さねばならなかった。
「……あ、いけない。坊ちゃんが居るの忘れてたよ」
 扉の閉まる音に、今思い出したというようにぽつりと呟く。
「……私も」
 女主人の言葉に合わせるように、もぽつりと呟いた。
 二人で顔を合わせ、声を立てて大いに笑った。

 扉の向こうから、大きな笑い声が聞こえてくる。閉めているのにも関わらずこの音量だから、よっぽど馬鹿笑いをしているに違いない。
 凌統は、冷や汗を拭いながら深い溜息を吐いた。
 まったく、とんでもない女達だ。
「坊ちゃん!」
 突然呼びかけられて、凌統は軽く飛び上がった。
「そこに居て下さいよ。この子じゃどれがいいのか決められやしない、坊ちゃんに決めてもらうんですからね!」
 あんたが決めりゃいいじゃないか、そも全部が全部そいつのもんなんだろうと反論しかけたが、その何十倍反論の反論をされるか知れたものではない。
 不貞腐れつつも分かったよと投槍に返事をして、凌統は扉の横に背中を預けてもたれ掛かった。
 当初の目的である繕い物は、先程自分が届けてきて何とかなりそうだと請け負ってもらってきている。用事は済ませてあるけれど、果たして今日中に城に帰れるだろうかと段々不安になってきた。昼には発たなければ、城に行き着くのが遅くなってしまい門限に間に合わなくなるかもしれない。
 扉の中から、何か騒いでいるのが聞こえてくる。
 明るくはしゃいでいるの声に、凌統は、まぁいいかと肩の力を抜いた。

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