着せ替えごっこに付き合わされて、凌統は徐々に疲弊してきている自分を自覚した。全部見終わる頃には、最初の方に見たのがどんなだったか思い出せなくなってしまっている。たかだか十五着と言えど、侮ってはならなかったのだ。
 女達がかしましく、ああでもないこうでもないと選んでいるのを横目に見たことはあるが、いざ自分が巻き込まれてみると、凄まじく体力を浪費するのだと驚かされていた。
 それはも同じらしく、心持ちかやつれている。
 何となく安心するが、一人元気な女主人は、飾りが気に入らないの色が今一つのと未だに服を弄り回している。
「坊ちゃんはどれが良いと思いました」
 本当に俺の意見など必要だろうかと疑問に思いつつ、凌統は広げられた衣装を見渡し、適当な組み合わせを一つ選んだ。
 一番地味ではあったが、下手にひらひらしているよりはに良かろうと思われたのだ。
 何せ、あっちこっちをうろちょろするから、このひとは。
 そう思ったが、口には出さずに置いた。
「あぁ、やっぱりそれですかねぇ。少ぉしばかり地味だけど、合わせ易いと言えば合わせ易いから、最初の一枚としちゃ悪かない。ねぇ、どうだね」
「うん、おか……」
 茫洋と辺りを見ていたが、慌てて口元を押さえる。
 恥ずかしそうに赤面するのを凌統は何事かと見ているだけだったが、しばらく不思議そうにを見詰めていた女主人は、不意ににっこりと笑った。
「いいよいいよ、あたしのことは『おっ母さん』とお呼びな。いいんだよ、そうおし」
 があわあわとしているのを、無理矢理に言いくるめてそう定めてしまう。
 最初は、でも、だのあの、だのと、女主人の立て板に水を流すような物言いに口を挟もうと頑張っていたも、仕舞いには諦めたように肩を落とした。
「あたしはあんたの、呉のおっ母さん!」
 堂々たる宣言には呆然とし、次いで困ったように俯き、そろそろと上げた顔には照れ臭そうな笑みが浮かんでいた。
「……お母さん……」
「何だい?」
 恥ずかしそうでいて何処か嬉しそうなに、凌統は何となく笑い出したいような、けれど寂しい心持ちにさせられた。
 家族が居なくなる寂しさは、凌統も味わっている。その辛さ、苦さは今でも胸を焦がす。
 も自分と同じ立場なのだと、改めて実感した。
 この戦乱では特別な話ではなかったが、それでも相通じるものを感じずには居れなかった。
「じゃあ、畳み方を教えてあげるからね。あたしの真似をしてご覧」
 が女主人を真似て装束を畳むのを、凌統は手持ち無沙汰に見下ろす。
「……じゃあ、他のも畳んでご覧。後でちゃんと見るから、手抜きしちゃいけないよ。みっともない皺が付いてしまうからね。……坊ちゃん、ちょっと」
 女主人は凌統の腕を引くと、すぐに戻ると言い残して室を出た。
 後に残されたは、周りに広げられた装束をぐるりと見回して冷や汗をかきつつ、しかし何とか綺麗に畳もうと悪戦苦闘を始めた。

 部屋から連れ出された凌統は、隣の、自分に宛がわれた室に押し込まれた。
「……何だっつの、支払いならちゃんと俺が払うって」
「誰がそんなこと言いましたか、馬鹿ですね」
 年はずいぶん下とは言え、敬われるべき立場に向かって『馬鹿』呼ばわりか。
 気色ばむより先に呆れてしまって、凌統は言葉もない。
「ねぇ坊ちゃん、坊ちゃんはあの子のこと、本気で落としたいと思っておられます?」
 唐突に、女主人はにやりと笑った。
 妙にいやらしい、えげつない女主人の笑みに、凌統は不快を露にした。
「何だい、薮から棒に」
「いいから、いいから。そんな建前とかは結構ですよ。ねぇ、あの子を落としたいと思いませんか? あんなおぼこい子、あたしの手にかかりゃ何てことない。さっきだって、見たでしょう、すぐにあたしなんかを信用してさぁ」
 くつくつと笑う女主人に、凌統はますます不快なものを感じる。
「……やめろっつの、そんな言い方」
 は、確かに騙され易そうだ。すぐに人を信じるから、手玉に取るのは苦でもないだろう。
 だが、だからこそ面と向かって『どうにでもなる』と言われるのは不愉快だった。
 しかし女主人は、そんな凌統の様子に気付きもしないように話を続ける。
「笑っちゃいますよ、お母さんだなんて、娼館の女将にでもなった心持ちですよ。そう、生まれ付き娼婦の素質がある子は居りますものねぇ、あの子なんかが正にそれだ。ホントにねぇ、お天道さまは不公平だったりゃありゃしない、あの子は文官様々なんて偉そうにしているより、娼館の薄暗い室の一つで、男の機嫌取ってる方がなんぼか合ってる。そういう、妙に男好きのする女ですよ、あれは」
 がん。
 鈍く低い音が女主人の口を塞いだ。
 凌統の拳が、宿の丈夫な柱を殴りつけていた。これが壁だったら、ひびの一つも入っていたかもしれない。
 口は固く引き結んだまま、凌統は怒りで燃え盛る眼を女主人にひたと向ける。
 それ以上は、許さない。
 言葉にするより雄弁な態度に、女主人の顔からいやらしい笑みが消え失せ、泣き出しそうな顔に変わった。
 がらりと変じた表情に、凌統は気抜けしたように殺気を解いた。
「……坊ちゃん、ごめんなさい。本心じゃぁありませんよぅ」
 女主人は凌統の脇をするりと抜け、扉を少しだけ開けて顔を出した。
「何でもないよ、坊ちゃんが蹴つまづいたのさ。続きをおやり。ちゃんとできてるかい? ……そうかい、じゃあ、頑張っておやり」
 そうして扉をきっちり閉めると、再び凌統の元に戻って頭を下げた。
「……誰が、蹴つまづいたって」
 女主人は苦笑いしながら、何度も頭を下げる。それこそ凌統が止めるまで頭を下げ続けた。
 ようやく顔を上げ、胸苦しさを訴えるかのように胸を押さえた女主人を見遣りつつ、凌統は手近にあった椅子を引き腰を下ろした。
「どうしてそんなふざけたことを言い出したんだか、有体に伺おうか」
 ろくでもない理由だったらただではおかない。
 険しい顔付きの凌統に、しかし年季の入り方が違う女主人は笑みで応えた。
「坊ちゃん、あの子は、とってもしち面倒臭い子ですよ」
「……分かってるっつの」
 の周りの人間模様を見るだけで、げんなりとするくらいだ。ここ最近では生活のほとんどを共にしていると言っても過言ではなく、明らかに中華の人間とは異なるの物の見方や考え方に、呆れるやら感心するやらだった。
 今更、他人様にどうこう言われずとも骨身に染みている。
 女主人は凌統の言葉に、困ったように首を傾げた。
「本当に、お分かりでしょうかねぇ。あの子は、あたしが知っているひとに本当に瓜二つだ。けど、あのひとは自分のことはちゃあんと弁えてましたよ。あの子はそうじゃない。幾らか若いからかもしれないけど、お姐さんとは全然違う。覚悟も承知もしちゃいない、きっともみくちゃにされちまう、あたしは、それが嫌なんだ。あの子がさっき、あたしのことをお母さんって呼んでくれたの、坊ちゃんだって聞いてくれたでしょう。あたし、あの時心の底から思いましたよ、ああ、あたし、この子のおっ母さんになってやろう、血は繋がっちゃいないけど、ホントの本気でおっ母さんになってやろうって、それがあたしに出来る償いだって、そう思いましたのさ」
 女主人は、己の指が真っ白になるほどぐねぐねと強く揉みしだいている。
「償いって」
 どうにも大袈裟な言い回しだ。
 一人で興奮している女主人に、凌統は置いてけぼりを食らっている気がして仕方ない。
 構った風でもなく一人こくこくと頷いている女主人に、もっとちゃんと分かるように話せと続けると、女主人もようやく我に返ったか深く息を吸い込んで吐き出した。
「……あたしはね、坊ちゃん。昔は、娼館で下働きしていましたのさ。下働きって言ったっておかしな話、客はちゃんと取っておりましたよ。ただね、こんな商売でも何やかやと立ち働く者が要る。あたしはだから、他の娘よりはそれ程客を取ることもなくて、だからか虐められたりもしましたけどね。そン時、よく庇ってくれたのがお姐さんでした。贔屓目なしで見ても、あの子よりかは綺麗なひとでしたね。お化粧も徒っぽくて、辛いことってあるんだろうかって思うぐらい、いつものんびり笑ってましたけどね」
 その呑気さが、庇ってもらっている身ながら小憎たらしくて仕方がなかった。
 その娼館の中でも、その『姐さん』は誰よりもたくさんの客を抱えていた。
 顔の作りが飛びぬけて綺麗と言うわけではない、だが一度『姐さん』を抱いた男は、次からは必ず『姐さん』のところに通うのだ。
 アレがいいんだとか、男を骨抜きにする薬を持っているんだとか色々言われていたが、実際のところはよくわからなかった。
 とにかく、愛されていた。
 もて囃されていると言うのとは少しばかり次元が違うように思えたのは、その『姐さん』が男に愛想を売ったりおべっかを使っているのを見たことがなかったからかもしれない。
 戦前の景気付けにやってきた男に、馬鹿だ、と涙目で叱り付けているのを見たことさえある。
 ここに来たからには、ちゃんと帰っておいでなさいまし。あたしのところになんか来ないでもいいけど、ちゃんと帰ってこないと駄目だ。
 男は、会わなかったらちゃんと帰ってきたか分かりゃしないだろうと笑っていたが、『姐さん』は頑として聞き入れなかった。
 焦れた客が、いいからやらせてくれよ、その為に戦に行くことにしたのだからと袖を引いていくのを見送った時、ちらっと見えた『姐さん』の顔は酷く悲しそうだった。
 そういうひとだった。
 その『姐さん』が、娼館から買いだされることが決まった。相手は何処だかの立派な身分の人だという。
 一人の男がそれを知り、怒り狂っているのを女主人は知っていた。
 市場で細々と魚を売っている男だった。
 女主人は賄いも手掛けていたから男の存在を知ることが出来たのだが、一度も客として上がったことのない、通りすがりに恋に落ちたという男を『姐さん』が知る由もない。
 うっかり喋ったのは、他ならぬ女主人だ。
 たいしたことはない、と思って世間話に話して聞かせたところ、男の形相は瞬時に変わった。それで知ったのだ。
 横恋慕にも程がある、と思いつつ、その男の強烈に殺気の篭った目を恐ろしいと思った。
 思いながら、何もしなかった。勿論、忠告の一つもしなかった。
 いいところへ行ける『姐さん』にやっかみの気持ちもあったし、客になったこともない男に何が出来ようかという驕りもあった。
 その頃の『姐さん』は主の信用も厚く、また既に受け出しの金も支払われた後だったから、外に出ることを許されていた。
 外に出られるのは、嬉しいわね。
 時折付き合わされて聞く『姐さん』の言葉は、女主人には嫌味にしか聞こえなかった。室の中で香を煙らせて、のんびり寝そべっていられる方が全然いいじゃないかと思った。その時は、そうとしか思えなかったのだ。
 あの日はたまたま、女主人が挿していた簪を落として壊してしまい、その場に居合わせた『姐さん』が、あたしのを上げようか、と申し出てくれたのがきっかけで外に出た。
 女主人は、お古なんかいらない、と突っぱねたのだ。酷く生意気な態度に、しかし『姐さん』は怒ることもなく、じゃあ市場に買いに行こうか、と誘ってくれた。
 外に行くのも連れが居たらもっと楽しいから、付き合ってくれるお礼にあたしが買って上げようね、と『姐さん』が笑い、女主人は厚かましくもその申し出に乗った。
 いいところに行くのだから、これぐらいのお恵みは当たり前だと思った。
 それが間違いの元とは、思ってもみなかったのだ。
 魚売りの、魚の鱗と泥で汚れた小刀で、『姐さん』は刺された。
 何度も何度も刺された。
 怒号と悲鳴が飛び交って、男は小刀を振り回して逃げた。逃げるぐらいなら何でこんな惨いことをしてのけるのか。後で役人にとっ捕まって首を斬られて死んだそうだが、そんなことは何の足しにもならない。
 苦しそうに、それこそ陸に打ち上げられた魚のようにぱくぱくと口を開く『姐さん』の体から、人の体にはこれ程血が詰まっているのかと思うほどたくさんの血が流れた。
 真っ赤な血が大きく広がっていく様は、真っ白い『姐さん』の肌と相まってまるで大きな花が開いたようだった。
 近付けもせず呆然と立ちすくんでいた女主人に、突然『姐さん』はことんと首を傾げて目を合わせてきた。
 責められる。
 恐怖に駆られ、青ざめた女主人の前で、『姐さん』はふわりと微笑んだ。
 それまで苦しげだった様子が嘘のように、柔らかで美しい笑みだった。
――いいのよ。
 聞こえないはずの声が聞こえた気がした。
 え、と驚いた瞬間、『姐さん』の胸がふぅっと微かに膨らんだ。
 それが『姐さん』の最期だった。
「……あたしはね、坊ちゃん。あの時の自分のいじましい根性が、あんな優しくて綺麗な人を葬ってしまったのだと、ずっとずっと悔やんでいたんですよ。あのひとみたいに振舞えやしない、やってみようと思ったことは何度もある、けどね、無理でした。どうしてあのひとがあんなに優しかったのか知れやしない、だからあのひとが、これから優しくしてあげるはずだった分の穴埋めなんて出来やしない、でもね、何とかして償いが出来ないか、何度も何度も思い悩んだものです。あたしにあのひとと同じ真似はとっても無理だ、だから、他の手を考えよう……思えば、あたしの考えはなんて傲慢なことだろう! けど、ああ、きっとお姐さんが引き合わせてくれたんだ。あたしの前に、あの子が現れたんですものねぇ」
 あの子、つまりに女主人は『姐さん』を重ねているのだ。
 凌統は、その神がかった妄信に眉を顰めた。
 は『姐さん』ではない。
 その極当たり前のところを見失えば、それはそのままの負担になるに違いない。
 不安げな凌統に、女主人は寂しげに笑った。
「……分かっておりますよ、あの子はお姐さんじゃない。でもね、あたしはあの子に良くしてあげることこそが償いになるって思っちまったんですよ。あたしには子供が居ない。そのこともね、ああ、きっとこの子があたしの子になる為だったんだって、そう思っちまったんですよ」
 頑なに言い募る女主人に、凌統はこれ以上何を言っても無駄と見切りを付けた。
 ずっと一緒には居ない、と強調したのも、本当の理由が自分の贖罪だったからかもしれない。思い詰めて混同しないよう、女主人なりに自分を抑えたように思えたのだ。
 いざとなれば自分が割って入ればいい。
 そんな凌統の胸の内を見透かすように、女主人は不意に笑みを浮かべた。
「だからね、坊ちゃん。生半なスケベ心を坊ちゃんに持たれると、あたしが困っちまうんです。坊ちゃんと大喧嘩なんてことになったら、うちの旦那様もいい加減口を挟んでくるでしょうしね」
「……何だよ、生半なすけべ心ってな」
 だから、と女主人はつい、と指を立てた。
「あの子はしち面倒と、こう申し上げているじゃないですか」
 言いたいことがさっぱり分からない。
 間の抜けた顔で女主人を凝視している凌統に、女主人は如何にも仕方ないといった風に溜息を吐いた。
「だからね、あの子は、ちょっと好みの男が難しいんですよ」
 あたしが気に入ったあの子を幸せにしてやりたい、だから坊ちゃんの協力が必要不可欠で、それには坊ちゃんに変な気を起こされると困るのだと回りくどく言い募る女主人に、凌統は渋い表情を浮かべる。
 とにかく、女主人が何を言おうとしているのかがまったく分からないのだ。
「あの子が好きになる男はね、まず第一に本気で自分を想ってくれる男だってこと。これはまぁ、坊ちゃんはいいですわね」
 凌統は、ちょっと待てと押し留めたいのを堪えた。
 いつ、自分がをどうこうしたいと言ったかと問いただしたくなったのだが、今はとにかく女主人の言葉の先を知りたかった。
「もう一つはね」
 あの子を、抱こうとしない男ですよ。
 我慢に我慢を重ねてようやく耳にした理由は、凌統の理解外のものだった。
 好きになった女を抱こうとしない男。
 そんな男が居るのなら、お目にかかってみたい。
 けれど、頭から否定も出来ない説得力があって、凌統は低く唸り声を上げた。

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