凌統の物言いたげな視線に、はずっと眉根を寄せている。
 何、と問うているのは分かっているのだが、凌統は目を逸らすこともなく、またその疑問に答えてやるつもりにもなれずに居た。
 馬を引き、街を背にしつつも、思い返すのは女主人との遣り取りのことばかりだった。
 好かれた男に抱かれるのが嫌だ。
 そんな女が居るものだろうか。
 凌統をして、もし惚れた女が居るなら、そして許されるなら触れたくなって当たり前と考えている。
 男の悲しい性で、それこそ生理的に『溜まった』と思えば発散するのが普通で、天から与えられた宿命と言ってもいい。
 子を生すことこそ、人の最たる課題と儒学などでも嘯いている。
 儒学に限らず、産めよ増やせよは連綿と続く人の世の謳い文句なのだ。
 天子並びに王たる者や、名のある将や学者達などでも、身分貧富の差を問わずこぞって妻や妾を抱え込もうとする。
 女とて、より良く強い男の種を求め選択するのが常だ。本人を差し置き、親を始め親族近隣の者が娶わせる二人を選ぶことも少なくない。
 親の言いなりに添い遂げる者も居れば、己が血の求めるまま、恋しい男、恋しい女と添い遂げることもまた、ありきたりのことだ。
 女から男に近付くことも、それほど稀有なことではない。
 だからこそ、恋しい相手と思うなら触れたくなって当たり前だと凌統も考えるのだ。
 女主人は言った。
 坊ちゃん、恋って奴は所詮駆け引きなんですよ。
 は、追いかけられることにくたびれてしまっている。情の濃い、優しい子だから、言い方を変えればぐずぐずしてはっきり嫌とは言えない子だから、流されるまま流されてしまっている。
 だから、追われる相手ではなく追いかける相手こそが必要なのだ。
 それに『なれ』と凌統は命じられた。
 情の濃さゆえ、芯さえ通れば強い子になれる。だがその芯は、求められることでは作れない。
 が心底恋い慕う相手を作るのが一番いい。その男の為と一途に想うことで、己の身の振り方も考えられよう、周りも見渡そう。
 そうして初めて、は強くなれるに違いない。
 理屈は分かるのだが、では何故自分が任命されなくてはならないのかが分からない。
 凌統が愚図ると、女主人はしゃあしゃあと言ってのけた。
 だって坊ちゃんは、あの子を手に入れようとか思っちゃないんでしょ。
 追えば逃げる子なのだから、逃げて追わせればいいのだ。けれど、そんな据え膳食わずに済ませられるような器用な真似が出来る男に、心当たりは一人もない。
 凌統がに興味がない、嫁にもらう気もない、でも大切にしているというなら、これより他に適任はない。
 よろしくお願いしますよ、とにっこり笑った女主人の顔が脳裏を過ぎり、凌統はむっと顔を顰めた。
 結婚相手にどうとか言っていたくせに、実に勝手なものだ。
 どうも、あの女主人は凌統がを血の繋がらない姉か妹のようなものとして考えている、と思ってしまっているようだ。
 以前、もそんなようなことを言っていたが、実際はそうではない。巻き込まれたら面倒だから、意識して自制しているだけだ。聖人君子扱いされても困る。
 凌統が『発散』しに街に降りて来たことを知っているはずなのに、『あの子のお兄様になって下さいましね』とはよく言えた。
 そんな柄かと吐き捨てたくなる。
 は家族を欲しがっている。何の見返りも要求しない、無償であの子を大切にして、叱り付けてくれる人を欲しがっている。本人に自覚がなくとも、絶対にそうだ。
 あの子の郷里は焼けてなくなってしまっているんでしょう、だから、ねぇ、坊ちゃん。
 優しくしてあげて下さいましねぇ、と押し付けがましい甘ったるい声が、耳に焼き付いて離れない。事情も理屈も理解できるだけに承服しかねて、腹の虫が収まらなかった。
 一方的に好かれるだけで手出ししない男と言えば、確かに家族になるのが手っ取り早い。近親での婚姻は一応固く禁じられていることだし、かと言って婚姻からではなく結ばれる義理の家族と言うのは、暗に性的な意味を揶揄するところでもあり……と凌統の思考は千々に乱れてまとまる気配もない。
 苛々としている凌統に、は袖を摘み上げて心細そうに凌統を見上げる。
「やっぱり、何処かおかしい……?」
 だいぶ慣れてきたとは言え、にとってこの世界の服はコスプレのそれに近く、にとっては似合っているかどうかの判断がはなはだ付き難い。
 これが現代のスカートなりパンツなりであればもう少しまともに考えられるのだろうが、女主人の手によって呉流に仕立てられた装束も化粧も、にとっては座り心地の悪い違和感しかないのだ。
 おろおろと凌統を伺うに、凌統は鼻白んだような顔を見せ、かったるそうに首を回した。
「……いや、似合ってるって」
「何、その間」
 がむっとするのも道理だが、凌統としてはそれを褒めたいとは思えないから仕方ない。
 さすがと言うのも悔しいが、女主人の見立てはかなりのものだった。が恥ずかしがらぬ程度に露出した襟元や足元は女らしい装飾が施されているが、全体的にはこれも本人の好みに合わせ機能的にすっきりとしていて、動きを妨げることもない。
 見慣れないという点を除けば、に実に良く似合っていた。
 少しばかり女を意識させられて、それも凌統には面白くない。
 我慢しろと言い含めておいて当の本人には色気付いた格好をさせる辺り、悪意があるとしか思えなかった。
「ホントに似合ってるって。ちょっと、いやかなり見直したね」
 の表情がやや緩み、同時に何処か不安げに見えてしまう。
 女主人が吹き込んだせいではないかと思うと、頭が痛い。
「あんたも女だったなぁって思い出したよ」
 軽口を叩くと、は盛大にむくれた。そしてやはり、何処かほっと安堵したように見える。
 こりゃ、重症だ。
 今まで以上に神経を使わなくてはならない予感に、凌統は溜息を吐く。
「何」
 事情を知らないは、不貞腐れた顔をして凌統に詰め寄ってくる。
 そんなを見下ろし、凌統は軽く肩をすくめた。
「……覚悟、決めるか」
「だから、何」
 解けにくいように編み直された髪の一房に指を絡め、凌統は苦笑を浮かべた。
「あんたの、お兄様になってやろうって話さ」
 がきょとんと凌統を見上げ、どういうことかと伺っている。
 凌統は笑いながら、ゆっくりと足を進めた。
「おっ母さんができたんだから、お兄様も欲しかろうってね。あんたの『おっ母さん』が、そんなことを言うもんだからさ」
「……あ、さっきの、それで?」
 の頬が染まり、妙に恥ずかしそうにもじもじし出した。
「別に……何かそういうの、おかしくない? 無理矢理やらされるの」
「無理矢理でもない」
 ただ、もう少し婦女子の嗜みって奴は弁えといて欲しいけど、と凌統が付け足すと、は一人でかしましく騒ぎ出した。
「た、たしなんでるもん、一応、たしなむようにはしてるもん!」
「素っ裸でぐうぐう高いびきかいてたのは誰だよ」
 ぎゃあ、と甲高い悲鳴が響き渡る。
 何故か話が逸れ、いびきをかいたかかかないかというどうでもいい言い争いが続いた。
「私の方が年上なんだから、そもそも私がお姉さんで公績が弟のはずだよ!」
「おっ母さんには俺のが年上に見えたんじゃないの。こんな落ち着きのないお姉様、他所じゃあんまり見掛けやしない」
 きーきーと喚きたてるをひょいと抱え上げ、馬に乗せる。
 意表を突かれたが思わず口を噤んだ隙に、凌統も馬に乗った。
 いつもはを背中にしているが、今日は勢いで前に乗せてしまった。膝の上にが横抱きにされる形になり、凌統よりもの方が意識しているように思える。
 口を噤んだまま所在無げに手の置き所を探すを、凌統は軽く引き寄せその腰を抱く。
「……しっかり掴まってろよ」
「う、うん」
 おずおずと身を寄せるに、再び女主人の言葉が蘇ってきた。
 安心をしたいんですよ、体目当てじゃなく、とにかくきっと、大切にしてくれるだけの朴念仁が欲しいんです。そりゃ、あの子は娼婦じゃありませんよ、でも、男達に振り回されてきたという意味では、娼婦と変わりゃしないんです。
 屁理屈だ。
 に惚れた男達、例えば孫策や趙雲、孫権に至るまで、のことを真剣に大切にしようと思っているだろうことを、同性である凌統は何とはなしに感じている。それがを惑わすというなら、むしろの方に問題があるとしか思えない。
 もっとも、それこそ男の理屈かもしれなかった。女の立場や物の見方など、男の凌統には想像し難い。まして、相手はなのだ。
 おんなじ人間だって言うのに、男と女ってだけでややこしい話だな。
 巻き込まれざるを得ないなら、いっそお兄様の立場に甘んじた方が楽かもしれない。
 不謹慎なことを考えつつ、凌統は馬を疾く走らせた。

 城に戻ると、孫堅からの使者が二人を出迎えた。
「今晩?」
 宴を開くから、に出席するようにという『命令』だった。
 急な話に戸惑う凌統とは裏腹に、は喜んでと笑みまで浮かべて応じた。
 室に戻りがてら、いいのかと念押しする凌統をいぶかしげに振り返る。
「いいも何も。今度こそ、ちゃんと外交のお仕事する!」
 頑張る、と気合を入れている様に、凌統は却って不安を拭えない。
 街に降りて上手く気分転換し、お遊びに近い形とは言え『母親』という『家族』を得たが、妙に張り切るのも分からないでもない。
 だが、周泰のことがあり、動きを見せなくなった孫権のことも何とはなしに気に掛かる。何より、孫堅が一度口に出したことを早々撤回させる人物でないことが、凌統の気をずんと重くしていた。
 他にも、まだまだたんとある。
 改めて考えると、内外に関わらず非常に面倒ごとの多い女だと気が付かされた。
 考えなしに勢いだけで『お兄様』を引き受けてしまったことを、凌統は早速に後悔しつつあった。

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