宴に出るのは久方振りだった。
 凌統が共に居てくれるとは言え、緊張は解しようもない。
 星彩が帰って以来になるだろうか。短いようでいて、長い間が空いたような気がする。
 劉備に同行してきた時は宴続きだったからか、感覚が掴めなかった。
 装束は、女主人に見繕ってもらったものをそのまま着てきた。『ちゃんと着飾れ』とは春花からも言われていたことだったが、『お母さん』から言いつけられると受け止め方がだいぶ違う。
 その『お母さん』に似合うと断言された服だし、宴に着ていってもおかしくはなかろうと凌統に助言を受け、は覚悟を決めた。
 凌統はやや呆れているようだったが、にとっては重大なことだ。色気がないのは百も承知していたし、自分の売りは容姿じゃない、と開き直るようにしていた。
 けれど、今宵はその容姿を敢えて飾ることにしたのだ。これが重大でなくて何が重大か。
「そんなもんかね」
「だってさ、いつも小汚くしてるのに、急にお洒落して綺麗な服着てって、結構恥ずかしいんだよ!」
 素を見られているだけに、急な心境の変化をどう思われるかと考えると落ち着かない。にとって着飾ることは、スッピンで通してきた女が突然フルメイクしだすのと変わらないのだ。
 色気付いたか、惚れた相手でも出来たかなどと、浮ついて見られるのは非常に恥ずかしかった。そういうわけではなく、ただちゃんとしたいだけなのに、等と考えれば余計だろう。
 男にはない感覚なのだろうか。
 恨みがましく凌統を見上げるが、気にした様子もない。
「……じゃあ、胸張って堂々としてろよ。卑屈になって恥ずかしがってるようじゃ、尚更みっともないっつの」
 本人が気にする程、周囲は気にしていないものだ。本人が気にしなければ、周囲の関心はぐんと落ちる。
「訊かれたら、ちゃんと言えよ。口篭ったりしてると、あんたが言うところの『浮ついた』理由があるんだろうって勘繰られるぞ」
 うんうんと頷くは、不意にぷっと吹き出した。
 凌統が首を傾げると、さも可笑しそうに笑っている。
「公績、お兄ちゃんっていうよりは、お姉ちゃんだよねぇ」
 無礼な物言いに、凌統は罰としてでこピンを食らわせた。

 が広間に参上すると、予想以上に大きくざわめきが起こった。
 空気のように気にも留められないというのがの理想だったが、の職務を顧みれば、むしろ有難い反応と言うべきだろう。
 凌統に言い含められたことを反芻して、ぐっと胸を張る。
 堂々としていなければ、余計に恥ずかしいと自分に言い聞かせた。
 孫堅に向かいお辞儀をすると、さも面白げに口元を歪められた。
 からかう気だ、と気付き、の口元も微妙に引き攣る。だが、やはり胸の内で平常心、平常心と己に言い聞かせて落ち着きを取り戻した。
 孫堅の隣に腰を下ろすと、上座だけあって広間全体が一望できる。皆の注目が集まっていることに、正直怯んだ。
 の背後で、ゆらりと空気が揺れる。
 そこに凌統が居る、と分かった途端、不思議と落ち着いた。
 お兄ちゃんだもん。
 武将の居並ぶ席に目を向ければ、列の中に甘寧の姿を見出せる。の『衣替え』に少しばかり戸惑っていたようだったが、にこりと笑いかければ、にっと笑い返してくる。
 一人ではない、と安堵した。安堵はに余裕を与え、力の入っていた肩もすとんと落ちる。
 孫堅が横目で見ているのにも、笑みでもって返すことができた。
 ただ。
 孫権の姿を認めた時、は自分の表情が強張るのを感じた。どんな顔をしていいか逡巡した結果だった。孫権もややぎこちなくを見る。
 一瞬絡んだ視線を、先に外したのは孫権の方だった。
 ああ、やっぱり。
 周泰は色々言っていたが、孫権はもうと決着をつけたつもりで居るのだろう。
 非常識な孫家にあって唯一の良心と目される孫権の判断は、至極当然のものと言えた。
 兄弟で一人の女を相手にするなど、本来あってはならないことだ。まして、には他に体を許す男が居る。ふしだらな女として、むしろ率先して切り捨てられるべきだろう。
 なかったことに、しよう。
 他ならぬ孫権が、それを許してくれている。向こうにとっては許すも許さないもないのかもしれないが、は孫権の態度を『温情』と取ることにして、その厚意に図々しくも甘えようと思った。
 ホントに斬り捨てられても、文句言えないとこだもんね。
 この世界の『良識』がどうなのかは、未だに分からない。情報社会たる現代と違い、情報は全て己の目と耳で得るしかない。広大な中原の中では、良識一つとっても各々で判断が分かれてしまうように感じている。
 酷く大雑把だからこそ、もまた受け入れてもらえるのかもしれない。
 そう言えば、呉は海にも程近く、南方との交易も盛んなはずだ。この国で自分のような得体の知れない女が好まれるのも、その辺りが所以と言えなくもないだろう。
 諸葛亮は、の気質は呉の諸将の好みにそぐうものだと言っていた。予想外に好かれ過ぎていて、恐ろしいとも言っていた。わざと面白おかしく言ってはいたが、周泰から聞いた娼婦の話もある。
 愛されるが故に、命を落とす。
 その可能性を、はほとんど考えていなかった。自分がそんな目に遭うはずがないと思っていた。ニュースでよく聞くようになったストーカー被害も、自分に重ねて考えたことなど一度もない。実際のところ、未だに実感することもなかった。
 一応、用心するだけして、でも考え込まないようにしよう。
 凌統が居る。甘寧も居る。頼れと言ってくれる、心強い存在だ。
 一人じゃない。守ってくれる人が居る。
 安心できる分、自分の仕事を頑張ろうと思った。やれることがあるのなら、やるべきだ。体を使って垂らし込むのは、少し、かなり無理そうだったが、歌えと言われれば歌おうし、踊れと言われるなら踊ってやろうと思った。
 虎、お母さん頑張るからね!
 生まれてこなかった子が居る。辛い目に遭いこそしなかったが、嬉しいことも楽しいことも知らずに逝ってしまった子だ。
 はまた、命を託されてもいる。
 魏の暗躍により襲撃を受けた時、己の身を守るよりもを守ることを選び、命を落とした錦帆賊の男達を思い返した。
 うじうじぐだぐだしている暇はなかった。何でも一生懸命やらなくては、罰が当たる。
 密かに拳を握るの思考を読み取れたならば、凌統辺りは『気負い過ぎだ』と呆れたかもしれない。そうやって思い詰める性質を直すのが先決と、説教の一つもしてくれたかもしれないが、生憎そうはならなかった。

 宴が始まると、すぐに孫堅に酌を求められた。
 も、嫌がる素振りもなく立ち上がり、孫堅の杯を満たす。
 酌を返され、有難く受けた。
「……それは?」
 新しい装束について問われているのだろうと察して、正直にもらったものだと答えた。
 凌統が聞き付け、問われもしないのに補足するのを、孫堅はやや難渋な表情で聞いていた。
 まずかったろうかと思うものの、言い訳しようもないし、下手に嘘を吐くよりはいいだろうと開き直る。ちら、と目配せを送って寄越した凌統も、に同意してくれているようで表情に曇りはない。
 孫堅が不意に溜息を吐いた。
 わざとらしいものではなく、本気で吐いたらしい溜息で、は思わず我が目を疑った。
 いつも余裕綽々で、人を翻弄するのが常の孫堅が、こんな風に憂鬱そうな溜息を吐くことがあるとは思わなかった。
 何かまずかったろうか、と先程までの落ち着きが嘘のようにうろたえるに、孫堅は苦く笑った。
「いや、どうも間が悪いと思ったまでだ」
 孫堅もまた、の為に装束の手配をしたところだったという。
 びっくりして目を丸くするを見て、ようやく気が晴れたらしい孫堅は、常の魅了的な笑みを浮かべた。
「遅きに失するが、受け取ってもらえようか」
「……あの、それは、えと……」
 救いを求めるように凌統を振り仰ぐと、凌統は小さく頷いた。
 は首をすくめ、申し訳なさそうに俯いた。
「……孫堅様が、よろしければ……」
「いいも悪いも、返されては困る。俺に女物を着せようとてか」
 そういう意味ではない。分かって言ったのだろうが、うっかりツボにはまってしまった。
 笑い出したに、孫堅は満足げに目を細める。
 身構えずに対面しているのは、ひょっとしたら初めてかもしれない。はっと我に返り、同時に笑みも消えた。
 孫堅は残念そうに苦笑したが、すぐに気持ちを切り替えたものか、酌を強請ってきた。
 慌てて酒瓶を抱えると、注意しいしい杯を満たす。
 無警戒なの顔から、常の強張りが消えていた。
 ようやく、ここまで。
 孫堅の意味ありげな笑みはの目に留まることはなく、ただその背後に居た凌統のみが戦々恐々として受け止めていた。

 孫堅の元を辞するとすぐ、甘寧が迎えに出てきた。
 甘寧相手ではのこのこ着いて行く気になれないらしく、凌統は文官達の席に行ってしまった。
 あ、と無意識に凌統の後を追おうとしたは、甘寧に手を引かれる。
「馬鹿お前ぇ、こんなとこで護衛なんざ居るか」
 呆れた風な口振りに、も口を閉ざして素直に着いて行った。
 の隣に甘寧が、その反対側にはちゃっかりと陸遜が席を占めている。いつもの席順だ。
「どうしたよ」
 気安げに結った髪に触れる甘寧に、陸遜が失礼だと噛み付く。
 が笑いながら人にもらったのだと告げると、陸遜の表情が曇った。身に纏うものを贈るなど、ずいぶん親しげだと気にした風だ。
 そんなら孫堅はどうなるのだろうかと思いつつ、女の人からもらったのだと付け足すと、途端に表情が明るくなった。
 あっという間に機嫌が直った陸遜に、やはりまだまだ子供なのだと感じて可笑しくなる。
「そう言えば、あれはお気に召していただけましたか」
 気が緩んだせいか、恐る恐る、しかし秘めた期待を隠さず、陸遜が問いかけてきた。
 あれ、と言われては首を傾げた。
 陸遜から何かもらった覚えはなかった。
 話を聞いていた甘寧も、何のことだと耳をそばだてている。
「当家に出入りの商人が、体が温まるからと持ち込んだものなのですよ。少し癖があったので、お気に召さないかもしれないと心配していたのですが」
 癖がある。
 何か、引っかかった。
 え、と眉を顰めたに、陸遜は慌てふためいた。
「やはり、お気に召しませんでしたか」
「……いえ、あの。話が見えないんですけど……私、何をいただいたんでしょう……」
 困り果てたに、陸遜もまた困惑し、しばし悩んだ挙句に小さく声を上げた。
「そうでした、気にされるといけないと思って、私の名は伏せさせていたのを忘れておりました」
 耳まで赤くして恥ずかしがる陸遜の様は、陸遜ファンなら垂涎もののナイスショットなのだが、は陸遜が『贈った』と言う物の正体が気に掛かってそれどころではない。
 問い詰めると、勢いに気圧されながらもようやく教えてくれた。
「……粉茶、ですが……?」
「「アンタかっ!!」」
 それが何かと言いたげな陸遜に、ニ方向から怒鳴り声が向けられた。一方は、一方は盗み聞きしていたと思しき凌統だった。
 予想だにしていなかった反応に、陸遜は目を点にして固まってしまった。
 事情を一通り聞いていた甘寧は、腹を抱えて爆笑している。
 は、陸遜の問いたげな視線を受けて一度は口を開いたが、再び口を閉ざした。
 何と言って説明したらいいのか、その端緒も見出せなかった。

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