執拗に事情を聞きたがる陸遜を凌統に託し、はうんざりとした面持ちで杯を受けていた。
「……んだお前ぇ、も少しマシな面しろよ」
「これが素の顔なんですよ悪うございました」
 甘寧とやり合うのも慣れたものだが、隣に居る呂蒙はどうもはらはらしながらこちらを伺っている。
 それと気付いたは、少し苦笑いして、甘寧に向けていた顔を呂蒙に向けた。
「呂蒙殿、ちょっと伺いたいことがあるんですけどよろしいですか」
 から頼みごとなど珍しい、いや呂蒙にとっては初めての出来事で、だから呂蒙は訳もなく緊張して姿勢を正した。
 しゃちほこばる呂蒙に、もまた慌てて言い訳を取り繕う。
「いやその、そんなにたいしたことじゃなくて……呂蒙殿、どんな書物読んで勉強されたのかなぁ、と、そんな話なんですけど」
 あわあわと言い繕うに、呂蒙は不思議そうに問い返した。何故そんなことをという問いは、当然と言って良い。
 だが、は何の気なしに口を開きかけ、次いではっとしたように目を丸くし、申し訳なさそうに俯いてしまった。
「……何か。どうぞ気にせず言ってもらいたい」
 再三に渡り促されたは、頭をかきながら、自分も勉強したいのでその参考に、と白状した。
 拍子抜けする返答に、呂蒙はが何故素直に言わなかったのかが解せない。別に言い難いことでもないはずだ。
「……いやあの、呂蒙殿、呉に仕官……してから学業を積まれたって聞いて、だからその……」
 ようやく気が付いた。
 呂蒙は気にした様子もなく、笑みを浮かべる。
「俺でも分かるような、分かり易い書簡だ。何であれば、お貸しするが」
 恥ずかしそうに肩をすくめて俯くに、呂蒙はなるべく気にさせぬようにと笑みを絶やさずにいる。
「何、俺の学がないのは周知の事実、気にされることもなかろう」
「でも」
 たくさん勉強したはずだ。
 子供の頃から学ぶより、大人になってからの学ぶ方がずっと大変に違いない。経験やプライドが邪魔をして、更には脳細胞の具合まで、学業を修める妨げになる要因は様々だ。
 それをこなしたのは呂蒙の努力の賜物であって、手に入れた書簡の質の良さのせいでは決してない。
 考えなしに呂蒙を侮辱するが如き発言をしてしまったことを、は深く恥じた。
 けれど、呂蒙は気にしてくれるなとからから笑う。
「気にされるくらいなら、書簡を借り受けて下さらんか。それで、殿が難しくて到底修められぬと泣き言を仰るなら、その時に初めて怒らせていただこう」
 理屈に合わない気がしたが、呂蒙の心遣いを無下にはできない。
 は恥ずかしさを堪えながら、きっちりと背筋を伸ばして頭を下げた。
「お借りします、有難うございます」
 柔らかな目でを見る呂蒙に、甘寧は面白くなさげに杯を煽る。
「何でお前ぇ、そんな。書簡なら、蜀の方から何だか持ち込んでたろうが」
「うん、一応目は通したんだけど……ですけど、もっとたくさん読みたいと思って」
 文官の任を拝した時、諸葛亮から書簡の山を預かっている。一通りといわず何度も目は通しているが、なるべくなら覚えてしまってくれと命じられている。一月で、という期限はとっくに破ってしまっていたが、諸葛亮も千変万化するの立場を汲んでか、何も言ってこないでいる。
 言われなければそれでいいかと言われれば、良くないに決まっているのでの苦悩は深かった。
 責任感は強い方だが目の前の些事に振り回されがちで、図に乗っているということもないだろうが、周囲もこれ見よがしにを振り回してくれる。忘れる時はすっぽり綺麗に忘れて去ってしまう。思い出しては青褪めて、というのがの日常だ。
 この時も、たまたま呂蒙の顔を見てそうだと思い出したに過ぎなかった。
 諸葛亮の書簡があるのに更に呂蒙から借り受けてと思われるかもしれないが、そも諸葛亮が与えた書簡の中身自体、では分からぬことが幾つかあるのだ。
 当初は姜維がサポートしてくれるはずだったから、これは諸葛亮にも目論見違いだったということになる。
 という訳で、自身が奮闘し、諸葛亮の目論見違いの穴を埋めなければならない状態だった。
 なるべく簡単なものから読み解いていけば、基礎問題から発展問題に移るのと同じで、独学でも何とかなるのではないかと考えた次第だ。
「何だお前ぇ、軍師にでもなるつもりか」
「なれるわけがないよ」
 そんな簡単になれるものではないだろう。
 しかし甘寧は退屈そうに、じゃあ無駄だから止めておけと素っ気なく言い放った。
「何で」
 がむっとすると、甘寧は含み笑いを浮かべた。
「おっさんは、だいたいが軍師の仕事もこなせるように、ってなことで学を積んだんだぜ。文官のお前とは、そもそもやることが違わぁ」
「そんなことはない」
 言い返そうとしたより早く、他ならぬ呂蒙が反論していた。
「軍師の仕事は瑣末に及ぶ。俺とて、軍略をのみ学んだわけではない。それを生かす素地として、様々な物事を学んできた。殿にも、多少なりとも学ぶべきものが見出せるはずだ」
「でもよ」
 俄然面白くない甘寧は、眉をきりっと引き上げて更に反論を返す。
「おっさんだって、えれぇ大変な思いしてやってたじゃねぇか。いつもの仕事放り出してやる訳にはいかねぇからって、寝る間も惜しんでやってたの、俺ぁ知ってるんだぜ」
 そこまで言われると、は迂闊に口を挟めない。
 今のは割に暇だが、実際は仕事をしていないからであって、本来の職務たる呉の武官文官と交流を深めるともなれば、かなりの時間を割くことになるのは明々白々だった。きちんとこなした上で学を積むというのは、口では軽く言えても行動に移すのは難しい。
 自身も先に考えたことだが、成人してから学を積むのは容易いことではないのだ。
「俺が教えよう」
 意外な申し出に、甘寧は元よりも驚き顔を上げる。
「毎日とはいかんが、五日に一度、いや三日に一度程度なら、時間を作ってみせる。如何か、殿」
 笑みを浮かべた呂蒙とは裏腹に、は困惑しておろおろとうろたえていた。
「え、でも、そんな……」
 呂蒙は多忙な人だ。いつも書簡を携え、忙しく立ち働いている姿をも何度か見ている。錦帆賊の制裁を目の当たりにし、衝撃に傷付き泣き喚いた時とて、稟議の書簡に追われていた。
 その上と言う不出来な生徒(自分で言うのも何だと思いつつ)の面倒まで見させられたら、誇張でなく倒れてしまうのではないだろうか。
 けれど呂蒙は、の不安を打ち消そうとばかりに優しく微笑む。
「俺とて、見てくれる方が居られなければ続かなかったやも知れぬ。学を修めたいという気持ちに嘘偽りはなくとも、正直大変ではあったからな」
 呂蒙がちらりと見遣った先に、静かに杯を傾ける周瑜の姿があった。
「……返すことは叶わぬが、受け継ぐことは出来よう」
 それが人の世の理というものだと締められてしまえば、も断る理由がない。
 うろたえながらも思案してみるが、好意に甘えてしまうのが一番良さそうだった。
「……できる限り頑張りますので、よろしくお願いします」
 だがしかし、果たして呂蒙の好意に応えられるだろうかと考えただけで腹が痛い。胸の辺りもきりきりとして、緊張から手のひらにじっとりと汗をかいていた。
 強張った肩に、とん、と温かな手が乗せられた。
 びくりと跳ね上がる肩に苦笑しつつも、呂蒙は敢えて微笑んだ。
「それほど思い悩まれることもなかろう。その、先日の宴で確か、我々呉の者と親交を深めるようにと申し付けられた、ということを聞き及んだと思ったが」
 嘘だ。
 二喬がから直接聞いたという話を、伝え聞いただけだ。
 についての情報を得ようとしていたから知ったことで、事実を知る者がこの場に居れば、呂蒙の言葉を聞き怪しんだだろう。
 幸いにしてそういう者は居合わせなかった。
 文官達がを誘い出そうとした事実に間違いはなかったから、記憶が混じって指摘しきれないだけかもしれない。
 ともかく、呂蒙にそれは違うと言い出す者は居なかった。
「そう、でしたっけ」
 自身も記憶があやふやらしく、どうだったかを思い出そうと首を傾げている。
 呂蒙が慌ててそうだった、と念を押すと、もそうかと頷いた。
「……ならば、俺と会うのもまた、親交を深める……その、手伝いくらいにはなろうかと思うのだが」
 同盟国の絆を強固にせんと願うばかり、といった態は、しかし呂蒙が気にするようにあまりに露骨過ぎた。甘寧は疑わしげに呂蒙を見ているし、他の者も大なり小なりいぶかしみ、呂蒙の珍しい強弁にそれとなく耳を傾けている風だ。
「そう、仰っていただけるのなら」
 一人が呂蒙の言葉を素直に呑んだ。
 呂蒙にとっては幸いだろうし、実際のところ下心らしい下心もない。
 ただ、ともう少し親しく出来れば有り難いとは思っていた。どう有り難いかは、呂蒙自身にも定かでない。が警戒心もなく承諾したのはそのせいだ。強引に過ぎる申し出も、相手が呂蒙だから気にならない。純粋な好意と信じ切っている。
「じゃあ、俺も」
 突然、甘寧が割り込んできた。目の前でこれ見よがしに除け者にされ、さすがに面白くなかったのだろう。
 明らかな横槍に、周囲の者は密かにざわめいた。呂蒙が腹を立て、申し出にごねるか蹴り飛ばすかするに違いないと思われたのだ。
 が。
「おお、お前もついにやる気になったか!」
 呂蒙は朗らかに笑い、甘寧の申し出を快く引き受けた。甘寧自身、呂蒙の反応が意外で、突いていた肘を上げておたついている。
「いや、おっさん、俺は」
「俺は構わんぞ。殿も、共に学ぶ相手が居た方がやる気も出ることだろう。如何だろうか、殿」
「わ、私は、呂蒙殿さえ良ければそれで」
 決まりだ、とさも嬉しげに笑い、美味そうに酒を煽る呂蒙に、甘寧の恨みがましい目が向けられる。呂蒙は気にした様子もない。むしろ、まったく気が付いていないようだ。
 は呂蒙に請われて席を立った。呂蒙の前に立ち、久し振りにその歌を披露する。
 歌いながらも、は密かに甘寧に視線を送った。
 本当にいいのかと問いかけるような視線が癪に障り、甘寧は不機嫌そうにそっぽを向いた。

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