「あの」
 呼び掛けられて、呂蒙は我に返ったようだった。
 何を考えていたのだろう。呆れてしまっていたのだろうか。
 たぶん、そんなところだろう。
「……いえ、何でもないです」
 すぐに読みかけの書簡に目を戻しただったが、文字が記号の羅列にしか見えなくなってきた。
 呂蒙に教えを請う、と口で言うのは簡単だったが、はそもそもの基礎知識が足らない。文字の読み書きは何とかなっても、世情すらろくに分からない有様だ。
 だいたい、中原の文化レベルの見当がつかない。農作物は何が採れて、何が売られて幾らぐらいなのか、ということすら分からないのだ。
 例えば、麻はあるが綿はない。紙はあるが、書付に使われることはほとんどない。時計はある。灌漑施設など、近代のそれと見劣りしないくらいだ。
 第一、太陽暦で暮らしてきたにとって太陰暦を理解することが最初の難関だ。
 今までは知らずともあまり問題なかった。だが、これからはそうは行かない。
 日々の暮らしに追われる(というと随分大袈裟な感じだが)ように生きてきたは、取り立てて何も考えぬまま『明日』とか『明後日』の約束を交わしてきた。
 呉の官職に付いている者、というだけなら、それこそ何十人何百人いるか知れない。『仕事』として会うからには予定を組む必要があり、組むとなれば月単位以上になるだろう。相手は仕事を持っていて、その余暇にと会う時間を当ててくれるのだ。一週間先二週間先になると見て間違いない。
 そも、知己でもないが、今会いたいからと尋ねて行って会ってもらえるとは到底思えない。
 カレンダーの読み方から教えてくれと言う相手を、呂蒙がどう思っているか。
 改めて呂蒙の置かれた状況に深く同情した。

 遠くから、夕暮れを告げる鐘の音が鳴り響く。
「本日は、ここまでとしよう」
 呂蒙の言葉に、は小さく溜息を吐いた。
「……何か、分からないことでも?」
「あ、いえ、そんなことは」
 無意識に漏れてしまった溜息に、は慌てて言い訳しようとするのだが、結局何も思い浮かばないまま俯いた。
 呂蒙はの様に苦笑いを浮かべる。
 には、その笑みが辛い。
「あの……あんまり進めなくて、すみません……」
 恐らく、呂蒙が予定していたペースよりかなり遅いはずだ。呂蒙の脇には、本日分として見繕われただろう竹簡が三本、手付かずのままで置かれていた。
「何、構わん。気にせんでもらいたい」
 呂蒙は竹簡を抱え、棚に戻す。
 一番高いところにある、一番端の位置だ。呂蒙もまず読まなくなったような、基礎の基礎を記してあるのだろう。
 は、如何に自分が無知なのかを改めて知らしめられた気がした。
 手元の竹簡ですら、まだ最後まで行っていない。分からない言葉を呂蒙に尋ね、それを別の竹簡に書き記すので手間と時間が掛かるのだ。
 尚香に物語を書いて送っていたから、筆自体には何とか慣れてきた。
 だが、墨は乾くのに時間が掛かる上、迂闊に扱うと擦って台無しにしてしまう。
 ノートとシャーペンを使うべきだろうか、とも考えたが、補充しようのない品を使うのは勇気がいる。呂蒙にそれらを見せるのも、何となくはばかられた。
 これ以上、『特別な存在』として扱われたくなかった。
 何にせよ、呂蒙に掛けているだろう負担は計り知れない。
 呂蒙は竹簡を仕舞い終えると、今度は茶器を携えて戻ってきた。
「あ、私が」
「気にせんでもらいたい、と申し上げたはずだが」
 呂蒙は笑いながら、手馴れた仕草で茶の仕度を整える。
 こんなことも出来ないと思われているのか、と思うと、少し情けなくなった。
 ふさいでいるに、呂蒙は気遣わしげに目を細める。
「俺の教え方は、どうも下手でいかんな。申し訳ない」
 は慌てて否定するが、呂蒙は笑っていなしてしまう。
「……周瑜殿の教え方は、実に的確で分かり易い。俺もああできれば、殿も楽なのだろうが」
「そんな」
 からすれば、呂蒙にそんなことを言わせてしまう自分が情けない。もっときちんと勉強しておけば良かったのに、足の怪我だ何だとサボっていたのが悔やまれた。
「呂蒙殿が折角教えてくれているのに、私の方こそすみません」
 誤解されてきたのはのせいだけでないにしても、呂蒙はのことを『諸葛亮の懐刀』として見ている風だった。高嶺の花だと思っていたろうに、その幻想をぶち壊してしまったのだ。
 ショックだったろうな、と考えると申し訳なくて仕方ない。
 茶を勧められるが、胸がいっぱいで手を付ける気にもなれなかった。湯気が白く浮き上がるのが、うっかり涙を誘いそうになる。
「甘寧が、逃げてしまわなければ、なぁ」
 思い出したように呂蒙が呟き、後で説教しなければ、と笑う。
 はしかし、甘寧が来ていたとしてもこれでは何も学べないだろうと思った。甘寧ですら(失礼だとは思うが)知っていることさえ、は知らないのだ。勉強しようがない。
 しばらくの間、呂蒙が茶を啜る音のみが聞こえていた。
「……その、次だが」
「あの」
 呂蒙が切り出したのに併せて、も思い切って口を開いた。
「しばらく、あの……もう少し、自分で勉強してから……」
 暗に勉強会の中止を請うと、呂蒙は困惑したように眉を顰めた。
「……俺の申し出は、迷惑だったろうか」
「そんな」
 呂蒙の申し出は本当に嬉しかったし、有り難かった。
 問題は、の学力が呂蒙の、そして自身の想定よりも遥かに下だったということだ。
 このままでは迷惑にしかならない。それが、心苦しい。
 黙ってしまったの耳に、呂蒙の吐く溜息が痛みを伴って響いた。
「……もしご迷惑でないのなら、もう少し続けてもらえぬだろうか。俺も、もう少し違うやり方を考えてみよう」
「そ」
 そんな、と言いかけただったが、呂蒙の苦々しい笑みに言葉を呑んだ。
「……すみません」
「……それは、ご了承いただけたと取って良いのだろうか」
 はい、というの呟きは、室の空気をぴくりとも揺らさない程、微かで小さかった。

 が退室するのを見送って、呂蒙は遠慮会釈なく盛大に溜息を吐いた。
 空気の重さで凝ってしまった首を回すと、ごきりと嫌な音が鳴る。
 廊下から入室を請う声がした。陸遜だった。
「構わん、入ってくれ」
 が気を散らすといけないと、衛兵も副官も下がらせてある。陸遜が不思議そうに室内を見回しているのはそのせいだろう。
 いちいち話して聞かせるのも面倒で、呂蒙は椅子に腰を下ろした。
「お疲れのご様子ですね」
「……甘寧の奴が、逃げてしまうものでな」
 折角やる気になったかと喜んだのに、と呂蒙が愚痴ると、陸遜はくすくす笑った。
「大方、呂蒙殿に殿を取られたとでも思ったのでしょう。それで、如何ですか」
 呂蒙は薄く目を開いて陸遜を見遣ると、憮然として目を閉じた。
「なかなか、難しい。中原の作法を知らぬと言うことは、先に聞いていたのだが」
 の師を買って出た呂蒙だったが、実のところそれ程役には立てぬだろうと踏んでいた。『あの』諸葛亮が自らの珠と称する女だ。何のかんの言っても、呂蒙が知り及ぶことなどたかが知れている。
 ところが、いざ始めてみるとの知識があまりにも浅いことが分かった。
 浅いどころの騒ぎではない。
 無知と言って良かった。
 読み書きはある程度こなすものの、一般常識的な知識すら覚束ない。
 これは、南方にある小さな村の中で育ったというから仕方ない。学ぶ暇も与えずに来させたのは、他ならぬ主君・孫堅だ。配下たる呂蒙に文句を言えた義理はない。
 けれど、礼儀作法すらほとんど知らずにいたのは如何なものか。
 一度は蜀に戻ったのだから、正式に使者として送り出す前に多少なりとも教える余裕はなかったのだろうか。
 呂蒙は、時折が見せる、不安そうな表情の原因を覚ったような気がした。これでは、不安にならぬ方がどうかしている。何も知らないという自覚だけあって、自分がいつ粗相をしでかすか、粗相をしたと気付くことが出来るかどうかも分からないのだ。
 責は、送り出した諸葛亮にこそあって、にはない。
 けれど、何か事あらば責められるのは当人なのだ。
 割に合わな過ぎる。
 呂蒙の言いたいところをすぐに察し、陸遜も深く同意する。
「……そうでしょうね、習う暇もないまま呉においでになったのでしょうから」
 呂蒙は眉間に指を当てた。深く皺が刻み込まれているのを今更覚り、溜息と共に解す。
 こんな表情をしていたとしたら、もさぞ不安に違いない。
「陸遜。お前、良ければ同席してくれんか」
 常ならば飛び上がって喜ぶだろう陸遜は、しかし顔を赤らめて俯く。
 宴の席から凌統に呼び出されて以降、陸遜はを避けている節があった。
 興味がなくなった、嫌になったという訳ではないらしい。現に、こうしてわざわざの様子を伺いに出向いてきている。
 呂蒙は、陸遜が知らなかったとは言えに媚薬を盛っていたことを知らない。
 知っていたらそれなりに助け舟を出したろうが、陸遜自身が恥じ入ってしまい口を割ろうとしないので、為しようがなかった。
 無言を守る陸遜に、諦めるより他なさそうだと見切りを付ける。
「ではせめて、甘寧を連れて来ることはできんか?」
「……無理だと思います。ここのところ、国境の警備と称して城に戻っていないようですから」
 何故甘寧殿を、と首を傾げる陸遜に、呂蒙は渋い顔をしてみせた。
「俺一人だと、殿が痛々しくていかん」
 の無知の責はにはない。
 諸葛亮にこそあると言えば陸遜辺りは騒ぎそうだが、少なくともにないということには同意するだろう。呂蒙にを責めるつもりは欠片もない。
 ないが、にも関わらずは怯え戸惑い困惑する。無知だと己を責め立て、呂蒙に要らぬ気遣いをしてどんどんと自信を失くしていくのだ。
 軽口を叩いても、気にするなと励ましても、はただ萎縮するのみだった。
 身の置き所がないと言わんばかりに縮こまる姿に、宴の席で見せる伸びやかさはない。
 己では駄目なのだ。
 気鬱に溜息を吐く呂蒙に、陸遜も申し訳なさそうに肩をすくめる。
 陸遜は陸遜で、自分が同席してもきっとは落ち着かぬに違いないと考えてしまう。
 凌統からは、わざとでないなら気にしないでいいと言われていたが、がどう思ったかと考えると恐ろしくて顔も合わせらない。
「そうだ、凌統殿がいるじゃありませんか」
 護衛なのだから、凌統が同席すればいい。
 陸遜の閃きに、だが呂蒙は首を振った。
「護衛職に時間を取られて、溜めてしまった仕事がある。周瑜殿からも、ちょうどいいからやらせておけと命が下っていてな。俺が殿の面倒を見るよりないのだ」
 副官などで代理が利くこともあるが、練兵などはそうもいかない。自軍がどうなっているかすら知らず、戦えるはずがないからだ。
 面倒を見るとは言っても、面倒だと感じているわけでは無論ない。
 ただ、あんなを見るのは辛い。
 分からないものは分からないのだから、いっそ開き直って尋ねてくれたら良いと思うのだが、こちらがちやほやしてきた分、も気が引けてしまうのかもしれない。
 だが、ちやほやしたのはこちらの勝手だ。何故がそこまで引け目に感じなくてはならないのか。
 結局のところ、呂蒙は自分の未熟さが悔しいだけなのかもしれない。
 甘寧のようにの気を緩めることも出来なければ、凌統のように気負わせもせず面倒を見てやることも出来ない。が頼ってくれるだけの度量がないのだと、しみじみ感じた。
「どうしたものだ」
 あるいは、孫策が居てくれたらとも思う。
 孫策ならばの引け目など、軽々と吹き飛ばしてくれそうだった。
 だが、孫策は未だに戻って居ないのだった。

← 戻る ・ 進む →

Arrange INDEXへ →
TAROTシリーズ分岐へ →