灯りを入れ、竹簡に集中しようと目を凝らす。
 駄目だった。
 本を読むのは好きだった。
 文章を目で追い、様々な思想や表現を楽しむのは得意だったはずだ。
 だから同人をやっていた訳で、それこそ辞書や歴史書の類も読むのに苦はなかった。
 それなのに、ここのところの集中力はがたがたと落ち込んでいっている。
 理由は大体見当が付く。
 楽しくないのだ。
 いかんなぁ、とは頭を抱えた。
 学生時分によくある、試験前には掃除をしたくなるというあの理屈に似ている。
 蜀に居た時は、正直こんなことはなかった。
 覚えるところまではさすがにいけなかったが、読むのを苦痛に思ったことはない。
 期待されていなかったからだと思う。
 諸葛亮は、確かに『できたら覚えて下さい』とは言っていたが、あれも今にして思えば『どうせ無理だと思いますが』と言うような諦感が漂っていた。
 天邪鬼ゆえにやる気を出して読み漁っていたようにも思う。
 万事、の扱いには(恐らくそれ以外も)長けている人なのだ。
 呂蒙に書簡を借り受けて、数をこなせば読み解けるようになるのではないかと考えていたが、それも考えが甘かった。
 呂蒙の書簡の方が余程分かりにくいのだ。
 まず、注釈がほとんどない。分かっているだろうという前提で文章が進んでいく。
 人名にしても、孔子はまだ聞いたことがある名だが、荘子墨子荀子と来ると誰ですかそれの世界になる。辞書があれば載っていそうな気もするが、当たり前だが辞書などない。
 改めて読み直してみると、諸葛亮がに与えた竹簡は全て同じ手からなるものだと筆跡から想像できた。
 が分かり易いよう、諸葛亮が誰かに書き起こさせたのかもしれない。
 あるいは、ひょっとしたらだが、諸葛亮自身が忙中の間隙を縫って書き起こしてくれたのかもしれない。
 如何にもありそうな話だ。水面の白鳥の如く、無様にあがいている様などちらとも見せない人だったから、それぐらいはやってくれそうだ。
 だったら、尚更何とかしてみせなければと気が焦る。
 星彩がいる間だったら、もう少し何とかなったかもしれない。
 まだ他の人よりは聞きやすいし、星彩なら飽きることなく教えてくれそうな気がした。
 呂蒙の困惑した顔が思い出される。
 申し訳なくて、自分が情けない。
 溜息を吐いて単語の一つも覚えられるなら、いくらでも吐き続けよう。だが、現実にはそんなことは有り得ないのだから、とは竹簡に目を戻した。
「まだやってたのか」
 半ば呆れたような声が頭上から降ってくる。
 断りもなしに対面に腰掛けたのは、凌統だった。
 時間的には『まだ』なのだろうが、進歩的には『まだまだ』なのだ。少なくとも、今日中に何とか読み解こうと決めた部分までは、まだだいぶ先がある。ここらで止めようとは思えなかった。
 凌統の指が伸びてきて、の髪を掬い上げる。
 そわっと肌が軽く粟立ち、首をすくめるのに凌統が声もなく笑う。
「髪、結わないのか」
「……暇ないもん」
 結わこうと思って何度か挑戦してみたが、スプレーやフォームの類もないとあってにはなかなか至難の業だ。あちらを立てればこちらが立たず、ではないが、当面は仕事の為にも中身を磨く方にかまけようと決めた。
「お母さん、まだ来られない?」
 女主人の名を知らない為、凌統との間ではもっぱら『お母さん』で通していた。
 の問いかけに、凌統が申し訳なさそうに表情を曇らせる。
「元々出入りの商人達が、いい顔をしないらしくてね。あんたは曲がりなりにも蜀の文官様ってことになってるもんで、それを個人的に紹介したっつって俺もやいのやいのと言われるもんだからさ」
 呉は尚武の国だが、同時に流通の発達した商業の国でもある。
 実権はなくとも、商人達の力はそれなりに強い。
 頭から押さえつけるのは簡単だが、危急の際に惜しむことなく投資させる為には、普段の飴と鞭の使い分けが難しい。
 など訳もなく取り込めると舌なめずりしかねない連中も紛れていようから、凌統としてはそれならと気安く紹介も出来ない。
 女主人は商売抜きでと考えていても、軽口で蜀錦の話が出るぐらいだ。他の商人達にしてみれば、儲け話の匂いに殊更気が気でないに違いない。
 武官文官のみならず、この上商人達からを守るとなると気が重い。
 それで、なかなか女主人を城に上げる許可が取れずに居るのだった。
「……何か……ごめんね」
 俯くの頭を軽く叩く。
 最近では、気にするなと言う合図として定着しつつあった。
 も苦笑いながら笑みを浮かべる。
「疲れてんなら、一日くらい休んだらいいんじゃないの」
 の顔には疲労の色が濃く映っている。ここ数日の話ではなかったから、凌統も密かに心配しているのだ。
「官僚巡りも、やってんだろう?」
「やってマス」
 凌統が『官僚巡り』と茶化すのは、がかねてより実行に移さねばと懸念していた呉の官僚との交流、簡単に言えばお宅訪問だ。
 先方はを臥龍の珠として恭しく迎えてくれるものだから、の気が休まる暇がない。
 中には、親切から呂蒙の手の空かない時には自分が看て差し上げても、と申し出てくれる文官が居たりもした。だが、その時点で自分の無知を自覚していたは、恥をかくのを恐れて慌てて誤魔化し辞退した。
 船頭多くして船山を登るの例えもありますし、と知ったかぶりしたのだが、言葉の意味を問われて説明すると、逆に感心されてしまった。却って評判を高めることとなり、にとっては頭が痛い。
 見栄っ張りのつもりはないが、自ら絞首台の階段を登っていく心境だ。
 歌を歌いに、とあらかじめ約定して行ったこともある。下手な論争になったらぼろが出ると先読みして、敢えて先に約定を取り付けたのだ。
 春になれば見事に咲き誇るという自慢の梅の木がある庭を案内されて、梅を題材にした歌を請われて困ってしまった。思いつく限りで、梅を扱った歌を思い出すことが出来なかったのだ。
 こんな美しい花なのに歌がないなんて、と首を傾げられ、うっかり桜の歌なら幾つもと口を滑らせたのがケチのつき始めだった。
 中原では、桜はそれ程愛されていない。美意識の違いなのか、色も薄く香りもないに等しい桜は、梅より格段下の扱いのようだ。
 が、自分の国では桜はとても愛されている、例えば淡い桜の花は花霞に霞んで雲集が如く、桜の木の下に立てば花嵐に揉まれて視界を失い、あたかも天上に居る心持ち等々、歌を交えて熱弁を振るったものだから、が我に返った時には主一同揃ってぽかんと口を開けていた。
 約定しても何にもならない。自分で墓穴を掘るのだから世話はない。
 梅の木自慢の主は、庭の片隅を桜の木に植え替えてしまったそうだ。春になったらを招き、『一風変わった』花見を楽しみつつ(こちらでは花見といえば梅だそうだ)酒宴を開き、夜は篝火を焚いて夜桜と洒落込む趣向を計画しているという。
 一部噂では桜を求めて財貨をつぎ込む輩が現れたの現れないので、は非常に気まずく苦々しい思いに駆られた。
 普通に扱ってもらえないのはどうしてだろう。
 こうなると、以前孫策の件で揉めた頃が懐かしくさえ思える。
 刺々しい視線は辛かったが、嫡子を惑わす相手に対してのものとすれば正当だ。
 行き過ぎた歓待は虐めと変わらない。
 それが分かっているのは、残念ながら凌統を始めとしたわずかな数の人々に過ぎなかった。疲れるわけである。
 改めて、凌統が護衛を務め傍に居てくれる有難みが身に染みた。
「公績、勉強会来ない?」
 凌統が居てくれれば気が楽になりそうだった。凌統はが馬鹿だということを知っているし、今更腹を立てたり幻滅したりはしない。そんなところはとっくに通り過ぎているだろうから、にとっては心強いことこの上なかった。
 むしろ、凌統が教えてくれれば一番いい。呂蒙が教えるまでのところに至っていないのだから、凌統が教えても何の問題はなかろう。
 滅茶苦茶な考えだったが、は半ば藁をも掴む思いで凌統に切り出してみた。
 しかし、やはり凌統は困った顔をして首を横に振った。
「俺で教えてやれることなら、そりゃ教えてやるさ。けど、呂蒙殿のとこには行ってもらわなきゃいけなくなってるんだっつの」
 周瑜の指示で、呂蒙のところに出向いている時間、凌統は自軍の練兵に勤しまなくてはならない。これは厳然とした命令であって、凌統を気遣っての好意ではない。従わなくてはいけないのだ。
 『お母さん』の件もあり、凌統も凌統なりに懸命に手を回しているのだが、最近の護衛にばかりかまけていた(つもりはないが)せいで、執務が滞っていた。
 なかなか思うように事が進まないというのが、今の現状だった。
「……小喬殿辺りは?」
「やーだ!」
 釣り合いが取れそうな気がして軽い気持ちで言ってみたが、断固として拒否されてしまった。
 あれほど仲が良いのだから、そんなに嫌がらずとも良かろうと思う。
「恥ずかしいもん、やだぁ」
 顔を赤くして眉を吊り上げている。頬を膨らませているから、可愛くもなんともない。
 指で突付くと、ぷしゅっと音がして空気が抜けた。
 爆笑する凌統に、が盛大に文句を垂れる。
 ひとしきり騒いで場が静まると、はぶつぶつ言いながら読みかけの竹簡を広げ直した。
「……何処が分からないって」
 目尻に浮いた涙を拭いつつ、凌統が身を乗り出してくる。
 うー、と唸っていたが、竹簡を戻して単語の一つを指差す。
「倉廩実ちて……あー、米倉のことだっつの」
 斉の国の管仲が、と凌統が説明を続けようとすると、は慌てて脇にあった竹簡を広げ筆を手にする。
 これでは時間がかかるだろう。
 凌統は素知らぬ振りで、もう一度言葉を繰り返した。
「……管仲って、鮑叔牙の友達の人だよね。管鮑の交わりの人だよね」
「そうそう」
 取り立てて褒めもしないし、知ってるじゃないかと呆れもしない。
「衣食足りて礼節を知るっていうのと、同じ意味?」
「そうそう」
 頷くだけの凌統に、の強張っていた表情もだいぶ落ち着いた。
 何とはなしに、にとって居心地がいいやり口が分かるようになってきている。ずっと傍に居るからかもしれないが、の凌統に対する信頼は日を追うにつれ深まっている気がした。
 恐らく、気のせいではない。
「茶でも飲もうか」
 凌統が立ち上がろうとするのを、が慌てて留めた。
「私、私が淹れる。それ、私の仕事」
 やけに必死になって留めるもので、凌統は呆気に取られつつも腰を椅子に戻した。
 茶を淹れるの後姿を眺めながら、呂蒙は固いから、の教師には向かないかもしれないとぼんやり考えた。上手く教えてやろうと必死になり過ぎて、を萎縮させてしまっているのではないかと、何となくだがそう思う。
 助言した方がいいだろうか。それでなければ、一時的にでもやはり自分が代わってやった方がいいかもしれない。
 周瑜に進言してみようか。だが、そも何故急に練兵がどうこう言い出したのだろう。
 固いといえば呂蒙を遥かに上回る固さを誇る周瑜だから、進言しての説得は少しどころでなく厄介そうだった。
 茶を淹れたが、そろそろとすり足で戻ってくる。
 零さないように細心の注意をしているらしいの様が、幼子じみて可愛く思えた。

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