孫策には言わないで欲しい。
 の希望を汲んで、孫策には『訃報』が届けられないことになった。
「でもさ、若殿が戻られたら、どっちみちバレちゃうんじゃないの」
 の護衛の任に着いているわけでもないのに、暇があればの室に訪れるようになった凌統が軽口を叩く。
 そのたび、星彩の眉がぴくりと微動するのだが、凌統は気付いてない風だ。
 気付いてない振りをしているのかもしれなかったが、にはどちらでもいいことだった。
「バレたらバレたで。つか、戦の最中にあんまり変な話聞かせたくないから」
 孫策を気遣う言葉に、凌統の目がわずかに揺れる。
 けれどは気付いてない風だった。
 きっと気付いてないだろう、と星彩も凌統も考えていた。自分のこととなると途端に鈍くなるのは、の短所の一つだ。
 の重度の鈍さを甘受してくれたのは、結局凌統だけだった。他の者は皆、単純にの無関心さに不快感を感じるか、流産した悲しみを押し殺し、健気に振舞っているといいように取るかのどちらかだった。
 だからこそは凌統の訪問を喜び、その様が凌統をの室へと呼び寄せていた。
 二人が親しくなるにつれ、星彩の機嫌は斜めに傾いでいった。孫策の時だって折れられたのだから、凌統如きが何ほどのものかと思うのだが、それでも自分の居場所が奪われるような寂しさを打ち消すことは出来なかった。
「星彩」
 が星彩を手招きし、お茶の仕度を始める。
 最初の頃は星彩に淹れさせていただったが、連日の渋茶攻勢にとうとう音を上げて自分で淹れるようになった。
 それでも、茶を淹れる時は必ず星彩を呼び寄せ、共に仕度をする。
 上官と部下と言うよりは、姉と妹といった風情だ。
 凌統は、卓に肘を着いて二人の様子を見守る。
 普段はつんと澄ました星彩の顔が、と向き合うと途端に柔らかく緩む。
 美人のいい顔を見られるのは男子としても本望で、内心役得とほくそ笑んでいた。
 それにしても、星彩と並ぶとはどうしても『落ち』る。愛嬌のある顔立ちではあるが、美しいとはとても言い難い。
 何故この女に孫策だの趙雲だのが夢中になるのかがわからない。自分だとて人のことは言えないかもしれないが、別に惚れた腫れたの次元で気に入ったわけではないから、彼らとは一線画しているというのが凌統の主張だ。
 背後から気配を感じ、ふと振り返れば扉の外から護衛兵の呼びかけがあった。
 周泰が訪ねて来たという。
 当たり前のように自らほいほいと出迎えに出るの背中を、凌統は呆れ顔で見詰めた。
 星彩が睨んでいるのに気付き、大仰に振り返るが視線に変わりはない。逆に凌統が肩をすくめて視線を避ける羽目に陥る。本当に、なしでは愛想の欠片もない娘だ。何がどうなって仲良くなったのか、一度に訊いてみたい。
 扉を開けたが、驚きの声を上げた。
 はっとして扉の外を見遣るが、そこに立つ周泰の姿に凌統も星彩も唖然とした。
 周泰は2mの長身を誇る武人だ。細身に見えるがそれは背が高いからで、近付いてみればその身の無骨さが良くわかる。
 そのごつい周泰が、この季節によくぞこれだけと思うほどの花を抱えて立っていれば、それは確かに驚きの声の一つも上げたくなるに違いない。
「……孫権様からだ……」
 問われもしない内に告げると、周泰はに花を渡しかけて止まった。
 それはそうだろう、周泰の長い腕で目一杯に近い状態で抱え込んだ花束だ。の手では持ちきれないに違いない。
 は慌てて花瓶を探しに室の奥に向かった。星彩も手伝い、幾つかの花瓶(というか壷)を抱えて戻ってきた。護衛兵に水を持って来させると、各花瓶に注いでまわる。
 花瓶の用意は出来たが今度は花瓶に移し変えねばならず、やはり周泰は花を持ったままその場に立たされ、と星彩が周泰の手から花を受け取り順々に花瓶に生けていく。
 何とも奇妙な光景を、凌統は黙って見ていた。
 ようやくすべての花を生け終わると、は周泰に礼を述べ茶を勧めた。
「……いや……」
 届けに来ただけで、これから練兵に出なければならない、とぼそぼそ呟くと、周泰は引き止める間もなく背を向けた。
「俺ももう行くよ」
「え、凌統殿も?」
 の頭を軽く叩き、凌統は笑って出て行った。
 星彩はそんな凌統に不機嫌そうな目を向けていたが、が笑みを浮かべて振り返ると最近の常である苦笑に表情を転じた。
「星彩の室にも、幾つか飾ろうよ」
「いえ、私は……だって」
 それは、がもらったものだろう。
 孫権のへ向けての気持ちが篭っているようで、何となく手元に置いておきたくなかった。
 にはそれが伝わらないのだろうか。
「だって、こんなたくさんあるよ。いい匂いだよ。ほら、水仙もある」
 星彩に良く似合うと無邪気に笑うに、星彩は胸の奥底がむず痒くなるのを感じていた。
 流産なんて、この中原では珍しい話ではない。
 けれど、他ならぬが流産したのだ。順調に腹が膨らんでいけばいくでやはり複雑な気持ちになっただろうが、生まれたばかりの赤子を優しく見詰めるの姿は、想像するだけで暖かい幸せに満ちることができた。
 失われてしまったものがあまりにも大き過ぎて、星彩にはどう埋め合わせていいかわからない。当のが気にしていないのだから、自分が気にしてはいけないのだと自分を叱咤するが、どうしてもどうしてもの気持ちがわからない。
 孫策との『事後』に乗り込んでいったこともあるから、が既に男に肌を許しているのもわかっている。春花が以前喚いていたのを聞き及ぶ限り、趙雲や馬超、姜維とも関係しているかもしれない。
 父親が誰かわからない不安が、をここまで無頓着にするのだろうか。
 たぶん、そう、私は、と星彩は目を伏せた。
 自分こそがの子供を得たかったのだと思った。が生んだ子なら、父親が誰であろうと、否、居なければ自分が父親代わりになったのにと思うと胸が苦しくなる。
 まるで自分が流産してしまったかのような悲しみがあるのに、が悲しまないから悲しめない。渦巻く感情が出口を与えられずにどんどん鬱積していくのだ。
「星彩」
 が呼ぶ声に動揺して顔を上げると、は星彩を手招いて卓に着いた。
 向かい合わせで掛けると、が突然話し始める。
「……あのね、水仙にはこういう話があるの。とっても綺麗な男の子がいてね、色んな女性から恋されるんだけど、みんな振ってしまうのね。で、振られた女の子が復讐の女神に頼んで、その男の子が自分以外愛せない呪いを掛けちゃうのね」
 唐突な話の内容に、星彩は面食らっている。
「で、男の子が泉を覗き込むとね、その水面に自分の顔が映ってたのね。で、何て美しいんだろうってずっと見詰め続けて、ご飯も食べなくなって、遂には衰弱して死んじゃったって話」
「何ですか、それは」
 救いようのない話だと思った。水仙がどこに関係するかもよくわからない。
「あー、それでね、その泉の岸辺に、水仙が咲いたんだって。それが水仙の花の始まりだって」
 星彩は渋面を作る。よく似合うと言われた花の始まりが、そんなどうしようもない話では気分を害する。
 にも伝わったのか、微かに笑った。
「受け止め方だよね、要するに」
 見方を変えれば、自分の意に適わぬ相手を振っただけで復讐されてしまう恐ろしい話となり、美しいだけでは幸せになれないのだという教訓にもなろう。
「花に生まれ変われたんだから、いいよねって考え方もあるよね。もちろん、下んない、どーしょーもない話って考え方もさ」
 はぁ、とおざなりな相槌を打つ。この話の落ちはどこにあるのだろう。
「色んな考え方があるんだから、色んな考え方してもいいよね」
 は笑って星彩を見据えた。
「だから、星彩は悲しければ泣けばいいんだよ。私に遠慮なんてしないで、さ」
 星彩は唇を引き結んだ。
 気付かれていると思わなかった。気付くわけがないという驕りがあった。
「でも」
「いいんだって、だから。……悪いけど、私はやっぱり実感ないし、正直みんなが私が可哀想っていうのも迷惑。重たくて、腫れ物触るみたいにおずおず触られて、本当にそう思うんだったらほっといてくれたらいいのにって思う」
 責められているみたいだ、とは憤懣やる方ない思いを吐露した。
 星彩は、申し訳なさから肩をすくめた。の気分がいいわけがないのも良くわかる。好意からにせよ、見世物にされているのと早々変わらない。
「けどね、でも、死んじゃった子のこと、悲しんでくれる人が居てもいいとも思うから。私はどうしても実感わかなくて駄目だから、星彩が代わりに悲しんでくれるなら、それはそれで嬉しいかな」
 やっぱり実感ないけどね、と付け足し、は苦笑した。
「……お姉さま」
 絶句する星彩の目から見る間に涙が溢れ、ぽろぽろと涙が零れた。
 が手を伸ばし、星彩の涙に触れた。その手を掴み、ぎゅっと握り締めて、星彩はただ泣き続けた。

 周泰の背中を見つけ、凌統は早足で追いかけた。
 足音は忍ばせたはずだが、気配で察したのか周泰が振り返る。
 何か用かと言わんばかりの態度に、凌統は皮肉な笑みを浮かべた。
「さっきのアレ、本当に孫権様からかい?」
 前置きもなく切り出した言葉に、周泰から返答はない。
 それを是と受け止め、凌統は踵を返した。背中にわずかな殺気を感じる。
「誰にも言わないって。あの女にもね」
 殺気が消えた。
 信用している証かもしれないが、現金な話だと思った。
 周泰の間合いから離れ、凌統は天を仰ぐ。何を見るでなく、ぼんやりと考えた。
 いったい、どう受け止めればいいのだろうか。主たる孫権の為に周泰が気を利かせたと取るべきか、それとも。
 考えるだに空恐ろしい気がした。周泰は見かけに寄らず熱血漢だということも、よって直向に一途なところがあることも凌統は薄々察している。
 前者なら良し、後者なら、少し話が面倒になりそうだった。
 医者は母に負担も掛けずに去った良い子だと言っていたが、母親似で妙に人の気を惹く悪い癖もあったようだ。当人はもうこの世を去っているから、後始末はすべて母親に一任されてしまった。
 けれども、が上手く捌けるとは到底思えない。
 騒ぎの間合いから離れるなら、今なのだが。
 体術に秀でた凌統ではあったが、この間合いを見切るにはまだ修行が足らなそうだった。

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