後ろ手に扉を閉めた途端、凌統の顔は歪に歪められた。
 苦々しい思いが抑えきれず、立てる足音も荒々しくなってしまう。
 恐らく、室の中で竹簡を広げているだろう周瑜にも聞こえていることだろう。
 だが、それぐらいは流してもらわねば困る。否、当然の権利だと思う。
 凌統は己の室には戻らず、かといって練兵予定の訓練場にも向かわず、裏庭の奥を目指した。
 このどうしようもない憤りを吐き出さずには、何も手につかず誰と会うこともかなわない。
 特に、と冷静な顔をして会うことは出来そうになかった。

 は、足取りも重く呂蒙の室に向かっていた。
 復習するのがやっとで、とても予習まで手が回らない。
 また呂蒙を失望させるのかと思うと、とても明るい気分にはなれそうもなかった。
 しかし、やると決めたのは自分だ。
 頬をばしばし叩いて気合を入れると、背筋に力を入れて前を見据える。
 と、廊下の向こうに見覚えのある人影を見つけた。
「お母さん!」
 思わず大きな声を上げると、向こうもこちらに気が付いたようだ。
 ただし、『お母さん』は一人で居るのではなかった。文官然とした男に案内され、何かの荷を運んでいるところだったようだ。
 雰囲気から、どうも自分に会いに来てくれたのではないと察しがつく。
 いかん、と脂汗が滲んだ。仕事の邪魔をしてしまったのではないかと思ったのだ。
 文官はの姿を見て、『お母さん』に何やら話しかけている。
 『お母さん』がこちらに向かって小走りに走り出したのを見て、も慌てて駆け出した。

 呼び捨てにされ、何処かくすぐったい。嫌な感じではなかった。
「お、お母さん……」
 恐る恐る呼びかけたが、『お母さん』は何事もなかったように後ろを振り返り、の手を取って自分の傍に引き寄せた。
「まぁ、髪も結わずに、あんた。ちゃんと綺麗にしなさいと言っておいただろうに」
「だ、だって」
 だってじゃないと軽く叱咤され、は首をすくめた。
「だって、自分じゃ上手く出来ないから……」
 三つ編やアップにする程度なら、確かに何とかなる。だが、すぐにはらはらと後れ毛が落ちてきてしまい、にはそれが酷くみっともなく感じられて恥ずかしい。
 『お母さん』がやってくれた時は、水をつけて撫でるだけで三日持った。何かコツがあるのだろうが、には分からない。
 の言い分に、『お母さん』は少し悲しげな顔をした。
「あたしもねぇ、早くあんたの髪を結いに来てあげたいのだけど。なかなか、難しいみたいでね」
 蜀では、春花の登城許可はすんなりと通った。
 だからこそ『お母さん』もすぐに来てもらえるものだと思っていたは、やや肩透かしを食わされた気がしている。
 『お母さん』も、はぁ、と大きな溜息を吐いた。
「偶々入った仕事が悪かった。つい考えなしに引き受けちまったけど、こんなことになるならお断りすれば良かったよ」
 そう言えば、何かの仕事で来たようだった。
 が廊下の向こうで待っている気な文官達に目を遣ると、『お母さん』も釣られたように振り返る。
「ああ、孫堅様のお声掛かりで、衣装を何着かお持ちしたのさ」
「え、すごい」
 何の気なしに零れた言葉に、『お母さん』は苦笑いを浮かべた。
「あんたのだよ」
 意味が分からず、きょとんとして『お母さん』を見つめるに、『お母さん』は如何にも困ったという顔をしてみせた。
「贈り物として女物を選びたいと仰っておられてね。勿論、御使者の口上だが、まさかあんたに贈るものだとは思わなかったもんでね、いい儲け話だって、うっかりお引き受けしちまったのさ。それがどうも話が前後しちまって、坊ちゃんがあたしをあんたに引き合わせたのが始まりだって、そんな噂が流れちまってる」
 今までは、凌家の引き立てがあるとはいえ、君主たる孫家に品を納める程の伝があったわけではない。
 元々出入りの商人達が騒いでいるのは、実は新顔たる女主人がとの親密さを利用して、特上の取引先を食い荒らそうとしているかもしれないと警戒してのことなのだ。
「一部の馬鹿共の間じゃ、あんたは孫家の誰かの嫁になることが決まってるって、そんな話になっているらしい。だから、顔馴染みのあたしを、無理に孫堅様に引き合わせようとしているのだってさ」
 とんでもないことだ。
 がぶるぶると首を振ると、『お母さん』の顔もやや和らいだ。
「そりゃあ、そうだろう。あたしはちゃんと分かってるよ。だって、あんたは」
 何事か言いかけた時、痺れを切らしたらしい文官が『お母さん』を呼びつけた。
「当帰殿、もうよろしいか」
 『お母さん』は、文官ににっこり微笑んで見せたが、そちらに背を向けると同時に舌打ちせんばかりの怒りの形相を見せた。
 商魂のたくましさを垣間見た気がして、は目を白黒とさせる。
「まぁ、また今度。絶対お城に上がって、あんたの髪を結ってあげるからね。それまで、もう少しお待ちな」
 ね、と笑いかけた『お母さん』に、も和んだ笑みを浮かべる。
 よしよし、と髪をすいて直され、『お母さん』は文官の案内の下、しずしずと城の奥に進んでいった。
 その姿が角を曲がって見えなくなるまで見送り、は慌てて呂蒙の室に向かった。
 『お母さん』が来てくれるなら大丈夫。
 改めて交わされた約束に、の鬱積もやや晴れる。
 人前では、お母さんとは呼ばずに当帰殿と呼んだ方がいいかもしれない、とは考えた。まさか、商売人のしがらみが関係してくるとは思いも寄らなかったのだ。
 今はまだ凌統や当帰が助言して色々と教えてくれるから事なきを得ているが、自分自身も相応に気をつけなくてはいけない。改めて気を引き締めようと思った。

 入ってきた時は少し元気になったようだと思っただったが、勉強が始まるとあっという間に萎れていった。
 わずかとは言え、日々の進歩は確実に見られる。
 単語の意味が分からないだけで、類似の事柄や意味は抑えられている。単純に所作を覚えなければならない礼儀作法も、生地は出来ているのだからそれ程苦労もなく覚えられるのではないだろうか。
 だから、がこれ程萎れる必要はないのだ。
 だが、呂蒙が褒めてもは何ともいえない微妙な笑みを浮かべるのみだ。世辞だと思っているのかもしれない。
 どうしたものだと呂蒙は悩み続けているのだが、未だに答えは出なかった。
 と、外から入室の許可を求める声がした。
「あれ?」
 も気付いたようで、筆を持つ手が止まる。
 凌統の声だった。
 しかも、廊下側ではなく窓の外から聞こえてきた。
 呂蒙が急ぎ窓から顔を出すと、その下に凌統が立っている。
「構いませんかね」
 無作法に過ぎるが、呂蒙は気にしなかった。恐らく窓の外に居る凌統を思い浮かべているだろうの目が、何かを期待しているのが露骨に分かる。
 呂蒙が体をずらすと、空いた場所に身軽く凌統が飛び込んできた。
「練兵の時間だったのではないのか」
「今日は、変更になったんですよ」
 それならば問題ないが、気のせいか凌統の横顔が強張っている気がする。
 呂蒙の注視に気が付いたのか、凌統は苦笑を浮かべ肩をすくめた。
「あの、文官様のご勉学の調子は如何ですか」
 本人を前にして『文官様』呼ばわり、しかも『あの』に妙に力が篭もっている。
 あからさまに嫌味っぽい言葉に、は顔を顰め呂蒙は慌てた。
「……休憩にしよう。茶を……」
 溜息を吐きつつ茶の仕度に掛かろうとする呂蒙に、が慌てて席を立つ。
「私が」
「いや、殿は気にせず、掛けていてくれ」
 呂蒙が断りを入れると、横合いから凌統が割り込んできた。
「やらせときゃいいんですよ」
 勝手に自分の分の椅子を引っ張ってきて、卓に並べると、凌統は行儀悪く足を組んだ。
「ここじゃ呂蒙殿がこの文官様の師匠なんだ、やらせてやるのが筋ってもんじゃないですか」
「しかし」
 尚も言い募る呂蒙に、凌統は気安く手を振った。
 力を得たようなが呂蒙の傍らに来て、おずおずと手を差し伸べる。
「やります、やらせて下さい」
 強張った声音が必死に己を奮い立たせているように見え、呂蒙が折れた。
 笑みを浮かべていそいそと茶の仕度を始めたに、そういえば久し振りに自然に笑った顔を見たと、訳もなく感慨を覚える。
 席に戻ると、凌統の様子がやはりおかしい。
「何かあったのか」
 小声で問いかけると、凌統はの方をちらりと見遣り、やはり小声で呟いた。
「後程」
 聞かせたくないと言うことか。
 呂蒙は何も知らずに茶を淹れているに目を向け、に関することではないといいが、と半ば祈る気持ちでいた。
 だが、十中八九はが関係しているのだろう。
 茶を淹れて戻ってきたは、まず呂蒙に、次いで凌統、最後に自分の前に茶碗を置いた。
 呂蒙が口を付けるのを、じっと見守っている。
「美味い」
 ぽつりと呟くと、の顔が輝いた。
「茶ばっか飲んでるんですよ、この人。そりゃ、上手くもなるっつの」
 凌統が投槍に言い出し、たしなめようとする呂蒙を差し置いてと口論が始まってしまった。
「……つか、あんた勉強進んでんのかよ」
 の泣き所をあっさり踏みにじる凌統に、呂蒙の顔が青褪める。
 気に病んでいることは誰よりも良く知っていたから、が俯く様が痛いほど辛い。
 呂蒙が口を開きかけると、凌統はさっと目配せをしてきた。
 いいから見ていろといわんばかりの態度に、何かあるのかと呂蒙も思わず黙り込んだ。
「呂蒙殿に訊かないからだろ、俺よりかちゃんと教えてくれるっつの」
「う、だって」
「だってじゃない、あんた馬鹿なんだから、遠慮する程余裕かましてられないだろうよ」
 がむっつりと黙りこくると、凌統はの頭をぺしぺしと軽く叩きだした。
 幾ら何でも気安い。
 止めようとした呂蒙だったが、凌統の視線に取り押さえられる。
「あんたが遠慮してると、呂蒙殿も余計に教え辛いっつの。わかんないことがあったら、すぐ訊く」
「……うん」
「で、何処がわかんないって」
 凌統が問いかけると、は茶碗を脇に退かして竹簡を広げる。
「……ここ」
「俺に訊いてどうすんだっつの」
 う、と詰まるが、ちら、と呂蒙に目を向ける。
 何となく凌統の意図が読めてきた。
 腰を浮かそうとすると、卓の下で足を突付かれる。慌てて腰を戻し、咳払いして誤魔化した。
 が竹簡を手に回り込んできて、呂蒙の傍らに立つ。
「あの、ここの言葉の意味が……」
 力ない声に、呂蒙の苦笑が漏れた。が怯み、顔が歪む。
 その体を、呂蒙の手が引き寄せた。
「金鼓旌旗とは、鉦や太鼓、旗や幟など、行軍や戦においての伝達手段に使うものの総称だ。これといって意味はないが、軍略においてはしばしば出てくる言葉でもあるから、覚えて置かれるが良かろう」
 は、突然引き寄せられたのに驚いたのか、言葉もない。
「……分かったのか?」
 凌統が白い目でを見遣る。
 我に返ったは、慌てて一つ頷き、思い直したように言葉に直した。
「わ、分かり、ました」
「他には?」
 呂蒙に促され、はうろたえつつも次の言葉を指差す。
「ああ、火鼓か。これも金鼓旌旗と同じようなもので、火と太鼓のことだ。こちらに旌旗とあるだろう。夜は視界が利かぬから火と太鼓を多く使い、昼は旗や幟を多く使う、ということだ」
「敵方に、威圧するためですか?」
 今までとは毛色の違う質問に、呂蒙は一瞬面食らった。
 しかし、敢えて顔には出さぬようにして、一瞬空いた間を思考の間として取り繕う。
「……うむ、だが、火は逆に敵の存在がそこに在るという印にもなる。多くの旗や幟は、それだけ多くの味方が居るものとして、士気の高揚にも繋がろう。ここに記してあるのは事実に過ぎない。そこから状況に応じた軍略を練るのが、生きた軍略と言うことになる」
「いいんですか、そんなことまで教えちゃって」
 凌統が茶々を入れるが、呂蒙は笑って答えた。
「何、蜀と呉は同盟を結んだ仲だ。それに、殿ならば構うまい」
「あんまり、才能もなさそうですしねぇ」
 凌統が呂蒙の後を引継ぎ、に含み笑いしてみせる。
 そんなつもりではなかったが、凌統に食って掛かるが宴席と同じように伸びやかに感じられて、呂蒙は差し出がましい口を閉ざした。

 が退室した後、呂蒙はほっとしたように溜息を吐いた。
「お前が来てくれて、助かった」
 謝辞を述べると、凌統は苦々しい笑みを浮かべている。
「……呂蒙殿は、謙虚過ぎるんですよ。もっと厚かましくならにゃ」
 あの馬鹿見てれば分かるでしょうに、と、さりげなく甘寧を罵る凌統に、しかしやはり常にはない陰鬱さを感じる。
 呂蒙が黙って凌統を促すと、凌統はこめかみを軽く掻き、ふ、と重苦しい息を吐き出した。
「孫策殿が帰ってきます」
「何」
 呂蒙の顔に喜色が浮かぶ。だが、それでは凌統が陰鬱にする理由が分からない。
「代わりに、俺が討伐に出ます」
 凌統の言葉に、呂蒙は一瞬呆気に取られた。
 どういうことなのか。
 詳細を求めて口やかましく催促する呂蒙に、凌統は最早隠す気もなく陰気な表情を露にした。

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