を送り出した後、凌統は練兵に向かおうと仕度を整えていた。
半ば同居生活と化していた為、の室で大概の仕度は整う。室の隅に凌統用の行李が置かれていて、その中に凌統の私物が仕舞われているのだ。
よくよく考えれば、えらい状態だと思う。
通常の護衛であれば、護衛対象の傍に付き従って居ても、こんな風に私物を持ち込むことは有り得ない。
いちいち移動が面倒だということで持ち込んだ行李だが、は気にした様子もない。そも、行李の存在に気付いているのかさえはなはだ怪しい状態だ。
付きの召使がいないせいもあるが、凌統は護衛と言うより側近の立場に近くなっていた。
それも傍から見ればであって、実際のところはもっと親しい。
何といっても『兄』と呼び慕われているのだ。義兄弟などと言う仰々しいものではなかった(第一、男と女の間で義兄弟の契りを結ぶという話もあまり聞かない)が、単なる知人同士と言うような間柄でないことは確かだった。
そんなことを考えていたからではあるまいが、突然周瑜から呼び出しが掛かった。急ぎ執務室まで来るように、とだけ告げられ、凌統は首を傾げた。
練兵に当たれと命じてきたのは周瑜だ。練兵場の使用予定を周瑜が知らぬとは思えなかったが、ともかく何か急用なのだろうと、取り急ぎ周瑜の室に向かった。
凌統が尋ねると、周瑜はいつものように台に積まれた竹簡を次々にと片付けているところだった。
相変わらず忙しい。
呉軍の軍師は、直接軍を指揮することも多く、呂蒙や陸遜も兼任の武人という色合いが濃い。
周瑜はまさにその筆頭で、だから人が足りぬというよりは、才のきらめきを取り揃えた、質、量ともに兼ね備えられている感が強かった。
天は二物を与えずと言うが、こと周瑜に関しては当てはまらぬようだ。
「お呼びだそうで」
ぼうっと突っ立っているのも何だと、頃合を見計らって呼びかける。
と、周瑜の筆がわずかにぶれたように見えた。
珍しいこともあるものだと見ていると、周瑜は溜息を吐いて筆を置いた。
これもまた珍しい。余程重要な案件なのか、それともそれだけ言い難いことなのか。
言付け程度の用事であれば『ながら』で済ませる周瑜だけに、凌統も肩に力が入りやや身構える。
「そうかしこまるな。……練兵の仕上がりは如何か」
「練兵、ですか」
話の先行きが読めず、凌統は用心して言葉を選ぶ。
「まぁ、いつもの通りといった具合でしょうかね」
「悪くはないのだな」
悪かったらまずいだろう。
とは言え、はいとも言えず凌統は曖昧に頷いた。
「では、お前に賊討伐の任を与える。よろしく頼むぞ」
「は?」
思わず素っ頓狂な声が漏れた。作為があったではないが、周瑜の怒気を煽るには充分だろう。
串刺しにされそうないつもの冷たい視線は、だが凌統に向けられることはなかった。
「……お前には、すまぬとは思う」
予想外に力ない声に、何処か体の具合でも悪いのかとさえ思ってしまう。いつもの周瑜らしからぬしおらしさに、凌統は目を丸くした。
周瑜は目を伏せたまま何事か思い悩んでいるようだったが、不意に虚空に流していた視線を凌統に合わせた。
「これは、内密の話だが」
前置きしつつも、次の言葉がなかなか出てこない。
凌統が辛抱強く、しかし苛付きながら待ちわびていると、周瑜は再び溜息を吐いた。
「……お前には、すまぬと思う」
「それはもう結構ですよ。何のお話か、もったいぶらずにお聞かせ願えませんか」
我慢しきれなくなった凌統が、つんけんと催促にかかる。
周瑜も苦笑しつつ、思い出したように椅子を勧めた。
そこで凌統もやっと気が付いたのだが、常駐しているはずの副官も一人とて居らず、内密だと言う周瑜の言葉を証しているように思えた。
「それで」
前のめりに身を乗り出したいのを堪えつつ、凌統は膝の上に手を置く。
「何だっていうんです」
「孫策が、戻ってくる」
呆気なく漏らされた秘密に、凌統はぽかんと口を開けた。
周瑜の苦笑が深まる。
「……それが、俺の賊討伐と何の関係があるっていうんです」
凌統は、既に『護衛』の任に当たっている。しくじっての機嫌を損ねたということならともかく、無論そんなこともない。
頼りにされていると実感しているところに、降って湧いた賊討伐の命である。生半な理由では引き受けかねた。
「まさか孫策殿ではカタが付かないから、俺にやらせようって訳じゃないでしょう」
孫策で駄目なものが、自分でどうにかできるとは思えない。
卑屈になっているわけでなく、冷静な判断からなる解析の結果だった。武力、武威、武名、いずれ一つとっても凌統が孫策に適うところはない。
「それはない。今朝方、カタが付いた旨伝達が届いた」
ならば、何だと言うのだ。
「孫策が戻ってくれば、また新たな討伐に赴かねばならない。それも、すぐにだ」
ふと思い出した。
軍規違反を犯した孫策は、罰として今の討伐が済んだ後、再度別口の討伐に向かわされることが決まっている。
現在、揚州の更に南方で、呉の主力軍の助力を請わねばならない規模の賊の横行が報告されており、孫策が戻るのならば孫策に、と話が振られることは分かりきっていた。
少しでも休ませてやりたいというのは、断金の友として当然の思いだろう。だからこそ、帰還の報を内密にし、孫策が帰ってくる前に軍を送り出してしまわねばならぬのだ。
しかし。
「何で、俺なんですか。暇に飽かして自分からそこら辺うろついている奴じゃ、手に負えない相手だとでも?」
暗に甘寧で良かろうと当てこするのだが、周瑜は重々しく首を振った。
「お前でなくてはならぬ」
「……何故ですか」
周瑜はわずかに口を閉ざしたが、思い切ったように開いた。
「お前が、親しくし過ぎているからだ」
誰と、等と、分かりきった問いを発することは出来なかった。
孫策が戻ってきて、まず何を求めるかは分かりきったことだ。とて、幾度となく凌統に問いかけてきた。孫策はいつ戻るのか、と。
考えてみれば、確かにに張り付いている己が居ては、孫策もに触れることはままならない。も、凌統が居ては気まずくて孫策を受け入れにくかろう。
ならば、凌統が行くのが適任だ。
だからこそ、周瑜も凌統に練兵をしろと命じてきたのだろう。
周瑜がの存在を認知したと同義だ。
喜ばしいことだ。
だが、何故か凌統は歯軋りしたくなる衝動を堪えていた。
「……分かりました、謹んでその任、就かせていただきますよ。ですが、代わりと言っちゃ何ですか」
「ならぬ」
あっさりと切り捨てられる。
まだ何も言っていない。
かちんと来るものがあって、凌統は勢いのまま椅子を蹴って立ち上がった。
それ以上を止めたのは、周瑜の怜悧な眼差しだった。
「当帰とかいう、女商人のことだろう」
苦々しく、しかし申し訳なさそうに周瑜は俯いた。
「あの女が懐いているそうだな。人伝に聞いた。……だが」
それ故に、周瑜の元に届けられる讒言は枚挙にいとまがない。
「娼婦をしていたとか、有能な将を誑かし商人に身を落とさせたとか。私にとってはどうでもいいことだ。だが」
にとってはそうではないだろう。
凌統すら、当帰が娼婦だったことは知っていても、宿の主との馴れ初めを聞いたことはなかった。娼婦だったと告白されたのですら最近なのだ。
周瑜の言に寄れば、まだ他にも色々とあるらしい。
「あのお人は」
「あの女は気にしないだろうな。だが、悪し様に言う者が居ることは気に病もう。そうは思わぬか」
自分が関わりになったせいで、触れられたくない過去を暴かれる。
なら、馬鹿みたいに気に掛けそうだ、と凌統は思った。
「……外出の許可は出そう。お前の目に適った相手ならば、おかしな振る舞いもすまい。だが、城に上げるのは諦めよ。負ばかりが大きく、為にはなるまい」
そう言われてしまえば返す言葉もない。
俯く凌統は、屈んで蹴り倒した椅子を直した。
「孫策が居れば、不安はなかろう?」
がもっとも気を許し、その身すら委ねているのだ。凌統も、孫策さえ戻ってくるなら何の弄えもなく討伐に赴けるだろう。
正論尽くしの周瑜の言葉に、凌統は何故か素直に頷けない自分を感じていた。
考えても何も穴のない、周瑜としては最大限の譲渡だろうとさえ感じられる提案だ。
周瑜は、気遣わしげに凌統を見ている。
「……私は、お前ほどにはあの女には近しくない。私の考えが、孫策寄りであることも充分承知している、だが」
それの何がいけない。
同情めいた言葉とは裏腹に、周瑜の主張は強硬だ。
は所詮蜀の、他国の人間だ。主君の一族たる孫策が、これ以上ない誠意と愛情をもって望んでいるのだから、それをむげにする不遜など許されるはずがない。
呉の旗下にある以上、周瑜の考えこそが正しい。
凌統もまた呉の家臣であるならば、周瑜に賛同するのが筋だろう。
それでも尚、凌統は快諾できぬままでいた。
周瑜は逆に困惑する。
「何か、あるのか」
に関して言えば、周瑜は未だその人柄を飲み込めていない。単純な性質と見ていれば複雑怪奇な行動を披露し、考えなしと侮れば深遠な思想を垣間見せる。読み切れていないと分かっているだけに、常と同じ判断は危ぶまれた。
周瑜らしい、鋭敏な判断といえよう。
「いえ、……いえ、何も」
けれど凌統自身、自分が何に引っかかっているのか分からぬままで居る。
言わば勘のようなものが働いて、凌統を容易く同意させまいとしているのだ。
それを説明しろといわれてもできるはずがなく、またできないからこそ快諾せざるを得なかった。例えどれ程腹の底に汚濁めいた何かが溜まろうと、説明できない以上はどうしようもない。
たかが他国の文官一人、呉の将たる凌統が入れ込むのがそもおかしいのだ。
それが道理と言うものだった。
「謹んで拝命、します。兵糧が整い次第、発つことにしますよ」
やっと素直に応じた凌統に、周瑜も肩の荷が下りたのか表情にあった強張りが解けた。
「すまんな、正月も近いというのに」
そう言えば、そうだった。
凌統は拱手の礼を取ると、周瑜の執務室を出た。
隣に腰掛け、熱心に竹簡を読み解いているを見つめる。
と、何かわからないところに行き当たったか、その眉が八の字に下がった。
「呂蒙殿、あの」
指差す文字を覗き込み、意味を教えてやる。は脇に置かれた竹簡に、呂蒙の説明を噛み砕いたものを書き記していく。
凌統から事の経緯を聞きだした呂蒙は、凌統と同じく何か納得できないものを感じうろたえた。周瑜の言葉に何らの異論を持てぬというのに、何故か納得しがたい。
凌統は、腹立たしげに口をひん曲げながら、頭を掻いて言った。
呂蒙にを託したい。
孫策が帰るまでの護衛かと思ったのだが、どうもそうではない。
自分の代わりに、自分が帰るまで、と、凌統ははっきり言い切った。
その物言いにも、何処か違和感を感じてしまう。
はまだ孫策が帰ることも、凌統が出征することも知らずに居る。
教えてやった方がいいのかと悩みつつ、しかし呂蒙は未だに告げることが出来ないままだった。