が帰った後、呂蒙の元に再び凌統がやって来た。
 『内密に』と言われた孫策の帰還を打ち明けて気が緩んでいるのか、呂蒙には明け透けに愚痴を垂れる。
「……明日、出征することになりましたよ」
「早いな」
 やさぐれたようにふてぶてしい表情で肘を突いている。
 呂蒙相手とは言え、あまりに気安かろう。
 だが呂蒙自身、多少は凌統に同情するゆとりはあった。
 主君の跡継ぎたる孫策の想い人を護衛してきた挙句、戻ってくるからお払い箱、どころか身代わりで出征では、やり切れぬものもあろう。
 しかし、凌統に関しては何処かそれだけではないと匂わせるものを嗅ぎ取っていたから、呂蒙も敢えて慰めの言葉を掛けようとはしない。それに、今の凌統には却って煩わしいだけだろう。
 黙って茶を淹れ、凌統が漏らす言葉に相槌を打つ。
 これが、凌統が来た時の恒例かつ最大の歓待となっていた。
 冷めてしまった茶を煽る凌統は、何か踏ん切りの付かない顔をしていた。
「……まだ、言ってないんですよねぇ」
 の様子から、それは察していた。
 凌統が出征すると聞いていたら、あんな風に呑気に(呑気と言うか、真面目に勉学に励んでいる訳だが)してはいられないだろうと思う。
 二人の信頼関係は、部外者たる呂蒙にもはっきり察しを付けられる程だ。周瑜が孫策を気遣うのも、分からぬではない。
 このまま行けばあるいは、と思わせる絆があった。その先を口にするゆとりまでは、呂蒙にない。
 別にが誰の元に納まろうが、気にしたことではない。
 そのはずだが、だが今隣りに座しているのは凌統一人ではない。
 馬鹿なことを、と考えて、そこで思考を打ち切った。
 妙に浮かされているように思えた。
 皆が追い掛け回すもので、釣られているようにも思う。
 の隣に居て改めて分かったのは、やはりこれだけ騒がれるような女には見えないことと、騒がれているのが哀れに思える程、地味な気質だということだった。
 気質と才質がこれ程そぐわない女も珍しい。
 いわく、の才質は地元では極々平々凡々としたものだという話で、何故これ程騒がれるのか本人もいぶかしんでいるようだ。
 騒がれたくないのに騒がれる。
 それは、想像するだに不幸な気がした。
 呂蒙自身も、決して華々しい性質ではない。だから、の気苦労が理解できるような気がした。
 等身大で扱われる気楽さを凌統から得ていたとしたら、凌統の出征はにとって甚大な痛手となるに違いない。
 幾度となく繰り返し出してきた結論は、だが何故か呂蒙を気鬱にさせる。
「呂蒙殿」
 不意に名を呼ばれ、我に返る。凌統が、不審気にこちらを見つめていた。
 詫びる代わりに咳払いして、話を聞く姿勢を整えた。
「呂蒙殿は、あの女のこと、どうお考えですか」
「どう、とは」
 質問の意図が読めず困惑する呂蒙を、凌統は探る目付きで遠慮もなく見回した。
 咎められずに甘んじて視線を浴びていると、凌統は何事か考え込み、噛んだ唇を解いた。
「俺じゃなくて、俺の知っている商人が言った言葉なんですけどね」
 凌統は、当帰から依頼された『仮の家族』の話を、次いで『の好みの男』の話をぶちまけた。
「……正直、俺には理解できないんですよ。惚れた女に手を出さない男ってのは、何なんです。本気で思っているなら、当然手を出して然るべしでしょう、それを、何だって手を出さないでいられるっていうんです」
 確かに、理解できない。
 本気で想ってくれる男に惚れると言うなら、男と女の仲なら次に何が来るかは子供でも分かりそうなものだ。手を出さないと怒る女の話は聞いたことがあっても、惚れた男が手を出すと言って怒る話など聞いたことがない。
「その、つまりお前は」
 けれども呂蒙は、下世話だと思いつつも違う点が気になってしまう。
 凌統は面倒だというように大きく首を振った。
「やめて下さいよ、そういう勘繰りが嫌で護衛を拝命した訳ですから」
「しかし」
 尚も言い募る呂蒙に、凌統は嫌気が差したようにだらりと足を投げ出した。
 無作法を叱るより、やはり凌統の真意が気になる。度し難い病にでもかかってしまったかと、呂蒙も内心自嘲していた。
 知って、何になる。
「……気にはしてますよ、正直。色々、ありましたし、主君一族が目の色変えて追い掛け回す女ですからね……と、これは聞かなかったことにして下さい」
 自分でも言い過ぎだと感じたか、凌統は自ら言葉を濁した。
 とは言え、事実は事実である。呂蒙も、孫権のことは詳しく知らなくとも、最近のを見る目が熱っぽいことには気が付いていた。孫堅、孫策においては言わずもがなだ。
「同情、と、それに付随する興味本位……こんなとこですかね、俺の場合」
 恋慕ではない、とはっきり言い切った凌統は、自分の言葉を咀嚼するように虚空を見ていた。
 はっきりと言い表せない感情の多様さを、呂蒙もまた痛感する。
「ついでで申し訳ありませんが、正直、呂蒙殿があの女をどう思っているか、俺も確証が持てないんですよ」
 ならば何故、を託す等と言ったのか。
「他には、思いつかなかったまでで」
 愚昧にも『約定』を守り、の兄に徹してきたつもりの凌統は、その『約定』等端から目にないだろう孫策の帰還に、忠臣に恥ずべき危惧を抱いている。
 なければいいと思いつつ、どうしても打ち消せない『事件』の予感に、保険を掛けずには居られなかった。
「……本当は、呂蒙殿にこんな負担をお掛けするのは心苦しいところなんですが」
 言葉を切った凌統に、呂蒙は首を傾げた。
 酷く苦い顔をしている。
「奴、に頼む訳にも、いきませんでね」
 不承不承繋いだ言葉に、ああ、と思い当たる。
 つくづく不器用な性分だ。
 呂蒙は、自分はさておきそんなことを思った。

 凌統がの室に戻ると、はまだ帰っていないようだった。
 練兵するのに自分の副官をの護衛に付ける訳にもいかず、しかしの外出は外交の為の正式なものなので、止め立てするわけにもいかない。
 結果的に、訪問相手が迎えを寄越すことになっていた。道案内も兼ねるからちょうど良い。
 招待したの身に何事かあれば、責は招待した側に下る。送り迎えは護衛を兼ねて丁重になるし、凌統はその分職務に集中できる。そんな次第で、傍目には一石二鳥を兼ねていた。
 けれど凌統にとっては、いつもが傍に居ることが当たり前になりつつある。
 だからか、凌統はの不在に違和感を覚えてしまうのだ。
 がらんとして火の気もない室に、居るはずのないの姿を求める。居るはずがないのに、目が勝手に探してしまう。
 阿呆か、と自棄気味に肩を揺すり、廊下の灯りから火を借り受けた。
 灯りを点し、室の中が明るくなると、最後に回しておいた行李の整理を始める。入用なものを選別し、取り出した。の前でやるのはどうしても気が進まず、延び延びにしていたのだ。
 それ程長い日数が与えられた訳でもなかったから、余計に取り掛かれなかった。
 次々に物を取り出していく内に、行李ごと運び出した方が良いかもしれない、と今更気が付く。
 それ程大きい訳でもなし、第一自分が居ない間もの室に置いておくのは可笑しな話だ。
 どうして気が付かなかったか、と自分に呆れて、とりあえず取り出したものを戻しに掛かる。行李はほとんど空になっていた。の室に来る際に、良く使うから取りに行かずに済むように、と運び込んだのだから、さもありなんという態だ。
「公績、何してんの」
 仰天して振り返ると、いつの間にかそこにが立っていた。
「行李、どうするの」
 驚いているのはも同じなのか、目を思い切り見開いている。
 行き当たりばったりだが、いい機会かもしれない。
「明日から、ちょっと賊討伐に行ってくることになったから」
 努めて明るく答えながらも、顔が強張った気がして、作業に没頭する振りをして背を向ける。
 から返答は、ない。
 聞こえなかったのかと横目で見遣ると、は同じ場所で同じ表情で突っ立っていた。
 蝋燭の灯りの加減か、その顔色が白かった。微かに震えているのは、寒さのせいかもしれない。
「……えー」
 が漏らした小さな声は、確かに震えていた。
 胸の奥底がざわめく。まるで、悪事を働いていたことが露見したかのような心持ちになった。
「……わ……て……あの……急、だね……」
 何をどう言っていいのか分からないらしく、は何事か口にしかけては閉ざし、結局当たり障りのない言葉を選んだ。
 聞いてない、とか、何故言わなかった、とか、言いたいことは恐らく山のようにあるのだろう。
 けれど、それらがいわゆる『内政干渉』にあたることを、はこれまでの経験で嫌と言う程思い知らされたに違いない。
 その聞き分けの良さが、逆に凌統には腹立たしい。
 もっとぞんざいで、我がままに、後先考えずに喚き散らすのがの美点だと思う。
 それでこそであり、そういう気質がが呉で持て囃される理由だったはずだ。
 聞き分けが良いからと言って詰る訳にもいかないから、凌統は黙って作業を再開させた。
 その隣にがしゃがみ込み、やはり黙って凌統の作業を見守る。
 仕舞うだけだから、作業は程なく終わった。
 行李の蓋を閉めると、誇りっぽい風が凌統の顔をばふんと叩く。が小さく咽込んで、埃を吸い込んでしまったのだと知れた。
 けふけふと咳き込むの背を、凌統は投槍に摩る。
 咳が止まると、は涙目で笑った。
「有難う」
 礼を言われる程のことではない。
 凌統は、おざなりに手をひらひらとさせ、行李を運び出そうと手を掛ける。
「……持ってっちゃうの?」
 たまらず、と言った態で吐き出された声に、凌統は元よりもまた驚いていた。
「あ、う、そうだよね、公績のだもんね……」
 在ったことは、知っていたらしい。長椅子の脇に目立たず置いておいたものだけに、がその存在を知っていたことは少なからず意外だった。
 咽て出たと思っていた目尻の涙が、粒を大きくして転がり落ちた。
 唇を噛んで俯くの頭を、凌統は軽く叩いた。
「……すぐ、戻ってくるって」
「……うん……」
 笑おうとしているのか涙を堪えようとしているのか、複雑怪奇な表情で、ただ凌統の為すがままに任せている。
 無性に堪らない心地で、凌統は早口で話し続ける。
「当帰……あの女将だけどさ、まだ、ちょっと時間が掛かる、けど、代わりに外出許可くれるってさ、周瑜殿が」
「うん」
「呂蒙殿に、あんたのこと頼んでおいたから……その、勉強、頑張れよ、結構進歩してきたって思うしね、あんたなりに、さ」
「うん」
「あの……俺が居なくても、ちゃんとしてろよ……無茶とかしないでさ……」
「うん」
 孫策もすぐに戻ってくる、と言いかけて、口を閉ざした。軍務上の、内密のことだからだ、と何故か言い訳がましく考えていた。
 しかし、それで凌統の持ち玉は途切れてしまった。後は、何も話すことがない。
 空白になった頭は、舌が馬鹿な質問を紡ぐのを押し留められなかった。
「……俺が居ないと、寂しい、とか?」
 何の繋がりもない、突拍子もない問いだ。
 自分が発したと理解するのに時間は要らず、凌統は我が事ながら面食らって泡を食った。
「うん」
 は、素直に頷いた。
「うん、公績が居ないと、心細い」
 は小さな子供のように膝を抱える。伏せた睫の影が、蝋燭の灯りを弾いて酷く寂しげだった。
「……っ……」
 耐え難い衝動が凌統を突き動かした。
 顔に露になった不安と醸し出される頼りなさに、凌統は思わずを抱き寄せていたのだ。
 だが、手の中で瞬時に強張る体に、凌統ははっとして我に返る。
 よろしくお願いしますよ、と笑い、けれど気がかりを滲ませていた当帰の顔が、凌統を痛烈に叱咤した。
「……だ、か、ら。俺が、ちゃぁんと、呂蒙殿に頼んでやったっつの。七面倒な馬鹿女ですけど、お願いしますってね」
 抱き寄せたまま、その背をぽんぽんと軽く叩く。
 幼子をあやすかのような仕草に、の緊張も緩み、強張っていた体から力が抜けた。
「……うん、でもさ、やっぱりさ」
「でもはナシだっつの」
 恐る恐る、しかし勢いを付けて体を離し、顔を見られるのを恐れて、また勢いで、の髪をぐしゃぐしゃにかき回す。も悲鳴を上げて文句を垂れながら、楽しそうにはしゃいで笑った。
 ひとしきり騒いで、笑って、『いつも通り』を装う。凌統が元通りに修復できた、と密かに人心地付いた時、が口を開いた。
「……気を付けて行って来て、ね、公績」
 ひたと向けられる眼差しは、心の底から凌統を案じていた。
 改めて安堵する。本当にぎりぎりのところでしのげたのだ、と思うと、冷や汗が出た。
「……うん」
 冷え切った室に二人並んで床に腰を下ろしている。寒さが身に染みるが、ほんのりと温かさも感じていた。
 そして、胸の何処かが冷たく凝っているのを持て余した。

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