凌統軍の出征式は極々簡素なものだった。
出征と言っても国の存亡を賭けた類のものではないから、と凌統は笑った。
問い掛けずとも素早く察してくれる凌統が居なくなってしまうのは、にとっては心細い限りだった。こんなにも支えてもらっていたのだと、今更実感せしめられている。
現代と違い、自分が積み重ねてきたスキルは何の役にも立たない。検定で得た資格も、ここではほとんど役に立たない。
積み重ねてきたほとんどが無駄だと言う事実は、の自信を呆気なく砕く。一挙手一投足が不安を招いた。
スバラシイと褒められるのが何故かが分からない。
オモシロイと笑われるのは如何してか分からない。
凌統は違った。
の拙い言葉に耳を傾ける。まず、考えてくれる。そして同意なり否定なりをして、何故そう思うかを説明する。
気質によるものかもしれないが、それはの不安を充分に打ち消してくれるものだった。
呉でも、蜀でも、凌統のように接してくれる人は居なかった。
知らなければ望まずに済んだのに、とまで後ろ向きにはなりたくないが、寒さに打ち震えていた人間に与えられた毛布を剥ぎ取るかのようなこの出征に、は誰を恨んだものか本気で悩んでいた。
「すぐ帰るっつの」
考え込んでいるところを、軽く頭を叩かれる。
無条件に甘やかしてくれる笑みに、は涙を滲ませた。
出立を待つわずかな間、家族や知人との惜別を惜しむ小さな群れがあちこちに出来ていた。
正月が近いので、尚更名残惜しいのだろうと凌統が付け加えてくれる。
一人でぼんやり立ち尽くしている兵達は、では身寄りも知人もない者達だろうか。
が見ていると、その内の一人と目が合った。
慌てて頭を下げると、何か物言いたげにこちらを見ている。
ひょこひょこと足を進めると、背後から襟首を掴まれた。
「……あんたな」
呆れ顔の凌統に、は首をすくめた。油断し過ぎだと言いたいのだろう。
凌統が兵士を呼びつけ、呼ばれた兵士は独り者仲間に何事か声がけられつつ、恐縮して駆けてきた。
「何か御用ですか?」
話し掛けられる前に、話し掛ける。
の丁寧な言葉遣いに目を白黒とさせながら、兵士は凌統の顔を伺った。
凌統も、一兵士にさえ敬語を使うの先行きに不安を覚えつつ、目線で兵士に許可を与える。
「……あの、蜀の文官殿は歌がお上手だと、聞いていたもんですから」
歌ってもらえないだろうか。
兵士の申し出に、は口をぽかんと開いた。
「あっ、駄目ッスよね、そうスよね。も、申し訳……」
体を小さくして慌てて逃げ出そうとする兵士の手を、は思わず握り締めた。
驚いたのは兵士の方で、凌統は止める間もないの行動に天を仰ぐ。
「駄目じゃなくて、そんな話が出回ってるって、知らなくて」
上手いのではなくて珍しいだけ、そんな変な歌でも良ければ、とが続けると、驚きに顔を歪ませていた兵士はうろたえつつも頷いた。
「何、歌いましょうか。あ、私、中原の歌は知らないから、どんな感じの歌をって指定してもらってるんです。楽しいのとか、勇壮なのとか」
「あの、まず、手を」
言われて、まだ兵士の手を握ったままだったと気が付いた。
ぱっと離すと、兵士は顔を赤らめてが握った辺りをそっと撫で付けている。
それ程強く握り締めたつもりはなかったが、痛かったのだろうか。
疑問を顔にまんま出すに、凌統は苦笑しつつ小声で教えてやる。
「身分の高い女官が一兵士の手を握るなんざ、普通はないんだよ」
馴染まない身分制度に、は未だに戸惑っている。これだけはどうしても慣れそうにない。
今度は不満を露にしたに、凌統は軽く首をすくめ、いいけどね、と流した。
こういうことが、他の人には出来ない。
笑い飛ばすでなく、遵守すべき規則だと眉を顰めるでも困った奴だと困惑するでもない。これはこういうもの、けれどが馴染まないのであればそれも仕方ないだろう、と流してくれるのは凌統だけの反応だった。
それでいて、では己もと追従しない凌統の態度は、現代における『個の尊重』に通ずるものがある気がした。だから、心地よい。
傷付けあわずとも理解を示してくれるのは、しようと努めてくれるのは凌統だけだった。
そうか、だからか。
改めて理解して、は凌統の存在の希少さにやはり不安を感じた。
凌統が居ないで上手くやっていけるだろうか。
一度の傍を離れた兵が、仲間を連れて戻ってきた。
を取り囲む集団に、他の集団も気が付いて注目が集まる。だが、幸いなことにの視界は背の高い兵士達に遮られ、周囲の視線に気が付かずに居た。
「何か、楽しい感じの」
話し合って決めたらしい、な、と仲間を振り返り、仲間達も一斉に頷く様子がには微笑ましい。
この兵士達にも、凌統は大切な存在だろう。自分一人の我がままで、凌統を縛り付けては申し訳ない。
ちゃんとすると決めた。頑張ると決めた。いつまでもうじうじしていては、駄目だ。
では、と一礼すると、は大きく息を吸い込んだ。
凌統を見送って数日が経った。
は日々それなり忙しく過ごしている。
交流目的の面会は三四日に一度は必ずあって、そのたびに緊張して出向いていたが、相手はが来てくれるだけで充分満足してくれるものらしく、いつも和やかに過ごして帰る。
当初は、諸葛亮の珠ということで舌戦を仕掛けてくる者がないではなかったが、中原に来てまだ日が浅いをやり込めることに何の意義もない。却って心無い仕打ちと蔑まれるようになり、が何もしない内に自粛の空気が出来ていた。
何事も素直に振舞うは、美しいものは美しいと言い、立派なものは立派だと誉めそやす。
しかし、そんなの基準が何処にあるのか呉の人々には今一つ不明瞭だった。高価な壺や書画には見向きもしないくせに、古いばかりの埃を被った欄干が綺麗だと言ったりするもので、を驚かせたり感心させる『遊び』が密かに流行りだしていた。
基本、呉の人々はに甘過ぎる程甘かった。
順風満帆、何事もなく穏やかに時は過ぎていく。
今日は呂蒙の元へ勉強しに訪れていたは、いつものように隣に座る呂蒙に質問をし、その答えと解説を書き記している。
の横顔に、当初の緊張はない。
今でも少し遠慮がちなところが見られるが、それは呂蒙もそうなのでお互い様だろう。
甘寧も、あれから一度だけ顔を出した。
と肘が付くくらいの近さで腰掛ける呂蒙を見て、ぎょっとしていたものだ。だが、甘寧の顔を見た呂蒙が、やっと来たか、と甘寧用に竹簡を取り出そうとした瞬間、とっとと逃げ出してしまった。
やる気がないと嘆く呂蒙に、は屈託なく笑った。
それぐらいには気を許すようになっている。
凌統が居なくなってどうなることかと思ったが、は以前と何ら変わらない。
呂蒙は、ほっとすると同時に物足りなさも感じている。期間限定とは言え託されたことに変わりはなく、ならば凌統と同等に頼ってくれてもいいと思う。
もっとも、が異様に頑なな女だと言うことはとっくに露見している。
如何にして凌統がの心を解したのかは知る由もないが、凌統と同じようにしてくれ、と口で言っても詮無いだろう。言われて何とかできるような女ではないこともとっくに承知なのだ。
凌統が兄なら、己はせいぜい学問の師の一人といったところだろう。尊敬はされても、頼られることはないに違いない。
小さく溜息を吐いた呂蒙に、が心配そうな視線を向けてきた。
変なところが目敏い。
呂蒙は苦笑して、少し疲れたから休憩しようと持ちかけた。
「疲れた時は、甘いものがいいんですよ」
蜜漬けの果物を持ってきた、とおずおずと勧めてくるに、呂蒙は笑みを浮かべた。
「そうか、それは有り難い」
「甘いもの、平気ですか」
茶の仕度をしながら他愛無い会話を楽しむ。
以前はこんなことさえなかったのだから、これ以上を望むのは贅沢だろう。
呂蒙が苦笑すると、がさっと覗き込んでくる。
これだけ気にかけられていて、何が不服か。
何でもない、との持つ盆に手を伸ばし、茶や果物を並べるのを手伝う。
茶を啜りながら、呂蒙は穏やかで貴重な時を楽しんだ。
が卓で勉強の復習に励んでいると、傍らに立つ気配を感じ、顔を上げた。
凌統だった。
討伐は、と尋ねると、もう済ませてきた、と答えが返る。
すぐ戻るっつったろ、と呆れられて、は頬を染めた。
お帰りなさい、無事で良かったよ、と話し掛けると、突然凌統が顔を寄せてきた。
ふわりと浮く感覚に、何事かと凌統を見つめる。
見下ろす高さにある凌統の顔に、抱き上げられたと知った。
どさ、と音がして、自分の牀に横倒しに倒されていた。
宙に浮いた足が頼りなく揺れている。
すぐ目の前にはやはり凌統の顔があって、押し倒されていることに気が付いた。
不思議と動揺はない。
寂しかったか、と問われ、うん、と頷いた。
みんな良くしてくれるけど、公績が居なくて寂しかったよ。
口にすると尚更寂しさが込み上げてきた。
寂しかったよ、としがみつくと、凌統の腕がを抱きかかえる。
そっか、と囁く声が、耳をくすぐる。
ぞくんとした。
凌統の顔が目の前にある。
目を閉じた。
濡れた感触が、唇の薄い皮膚を通して伝わってきた。
そこで目が覚めた。
辺りはまだ薄暗かったが、寝惚けたまま起き上がる。
体に感じた重みが残っているようだ。体中、汗をかいていた。
「……お?」
夢と現がごっちゃになって、きょろきょろと辺りを伺う。
凌統の姿を求めて室をうろつくが、人の気配はなかった。
警備が付いていてくれているらしいが、凌統やその配下達のように室にべったり付いているわけではないらしい。扉の外にも、人影はなかった。
肌寒さに徐々に意識がはっきりしてくる。
途端、顔が焼けるように熱くなった。
馬鹿な夢を見た。
恥ずかしさに居た堪れない。
牀に戻って上掛けを頭から被るものの、二度寝することも出来ずに牀の中でジタバタともがいた。
変な夢を見た。でも、本当に夢なんだろうか。
しっとりとした心地よい感触が、唇に染み込むように残っている。ひょっとして、凌統でないにせよ誰かが忍び込んで、などと埒もないことを考えかけ、止めた。
人の気配も痕跡もないのは、今しがた確認してきたばかりだ。
それでも、一応念の為と上掛けを被って室内をうろついてみる。
やはり、誰も居ないしその形跡もない。寝る前と同じ寒々しさがあるだけだった。
長椅子に腰掛ける。
上掛けを通してひんやりとした感触が伝わってきた。
「……寂しいな」
声に出してみるが、誰の応えもない。
そのまま長椅子に身を横たえる。
人の温もりがあるはずもなく、冷たいだけで寝心地も良くはない。
けれど、は凌統が使っていたその長椅子から離れることもなく、再び眠りに就いた。