「帰りたいのだろうか」
「はい?」
 はっとして顔を上げると、すぐ傍に呂蒙の苦笑が在った。
 勉強を教わりながら、いつの間にかぼーっとしていたものらしい。
「す、すいませ……」
 慌てて竹簡に目を落とすが、いったい何処まで読み進めたのかすら分からない有様だった。目で追うだけで、内容は頭にまったく入っていなかったようだ。
 呂蒙が休憩を宣告し、は恥じ入りながら茶の仕度に取り掛かる。
 盆に、見慣れない小さな箱が添えられている。
 何だろうと見ていると、呂蒙がやって来て何の気なしに小箱の蓋を開けた。
 中には月餅が入っていた。
「疲れた時には、甘いものが良い……そうでしたな?」
 にこりと笑う呂蒙に、は赤面しつつ頷いた。
 確かにそのこと自体は間違いない。ないが、もしもが『疲れ』から勉強に集中できないのだと気遣ってくれているなら、間違いだ。
 が集中できないで居るのは、単に一変してしまった生活を寂しく思ってのことだった。
 人一人が傍に居ないだけで、こんなに落ち着かなくなるとは思いもしなかった。
 考えてみれば、短い期間とは言え凌統と同居生活をしてきたのだから当たり前かもしれない。すぐ傍らに話す相手が居ると居ないでは、天と地程の差がある。
 趙雲とも同居生活をしてきた。だが、あの時はの世界で、の家に寝泊りしていた。今のように、誰に何を頼ればいいのか分からない状態ではなかった。
 今更のように、趙雲の鋼の精神力に感嘆する。趙雲が一度でも取り乱したことはなかった。唯一の頼りであるはずのが趙雲に冷たく当たっても、趙雲は静かにそれを受け止めたものだ(あれは趙雲が悪いと今でも思っているけれども)。
 不思議なことに、星彩が帰って以来ほとんど思い出すことも無かった蜀での生活が、異様に恋しくなってきている。
 ふと思い返すと、記憶の淵に沈んでなかなか帰ってこられない。
 先日も、これで訪問先の主に気を使わせてしまった。申し訳ないと頭を下げ、許してもらったものの、主から掛けられた言葉が忘れられない。
――蜀が、恋しくなられたのですかな。
 そうかもしれない。
 少なくとも、あそこではの居場所はここだと定められていた。
 趙雲が、馬超が、姜維が、春花が諸葛亮が劉備が、ここが貴女の居場所だと示してくれていた。
 本当の故郷でこそないが、蜀の地はにとっての第二の故郷と化している。
「……蜀が、懐かしくなられたのか」
 呂蒙の声に再び我に返る。
 非礼を詫びるも、呂蒙は緩く首を振り、同じ問いを口にした。蜀に戻りたくなったのか、と。
 は、茶から沸き立つ白い湯気を見下ろし、しばらく考え込んでから首を振った。
「今は……」
 ぽつりと呟いた声は小さかったが、その分の中に沈んだ澱の深さを表しているかのようだった。
 それはどういう、と問い詰めかけ、呂蒙は口を噤んだ。
 が身篭った子を失ったのは、つい先日のことだ。耳触りの良い話でないだけに、今が蜀に帰ればどうなるかは分かりきったことだ。
 特に、蜀は古い土地柄だ。そういった事柄には、過敏に反応するだろう。
 あまりに変わりなくて、忘れかけていた。
 忘れようとする空気が、呉にはあった。
 呉ならば、誰もを責めはしないだろう。誰もがに優しく、居心地よくするべく努めるはずだ。
 しかし、ぼんやりとするが見つめるのは、常に西方……蜀のある方角だった。
 またぼんやりしだしたに、呂蒙は掛ける言葉が見つからない。
 思いあぐねて、一つ、が喜びそうなことを思い出した。時期柄、もう話しても構うまい。
「孫策殿が、帰ってこられる」
 案の定、ぱっと顔を上げたに、内心複雑なものを感じる。けれど、これでが元気になるのであれば構わない。萎れた花のようだとやきもきしているのは、呂蒙一人ではなかったのだ。
「え、それって」
「心配は無用だ。今度はきちんと討伐を済ませての凱旋となられる。誰はばかることなく戻ってこられるということだ」
 呂蒙の言葉を確かめるように、は呂蒙をじっと見つめてる。苦笑しつつも見つめ返してやると、の頬がわずかに紅潮し、納得したようにこくりと頷いた。
「……でも、またすぐ討伐に行くことになるって」
「今、呉の正規軍が動かねばならぬ程の討伐はない。凌統が行ってくれているのが、恐らく今年最後の討伐となろう」
 軍を多く動かしての討伐は、それだけ民に不安を与えることになる。治安の悪さを物語っているようなものだからだ。だから、早々には動かさないし動かせない。動かす時は俊敏に動き、俊敏に納めなければならないから、自然出向く軍も固定されがちになる。
 凌統の軍が選ばれたのも、その行軍の速さを買われてのことだと説明すると、は感心したようにこくこくと頷いた。
 改めて、近頃流行と聞く『を感心させる』遊びの面白さを知る。
 媚びるでなく、また裏表も無く素直に感嘆するは、くすぐったくなる程己が矜持を囃してくれる。ある意味、快感だった。
「……まぁ、その、そういった次第であるから、もうしばらく待てば孫策殿もお帰りになるだろう」
 このことはくれぐれも内密に、と付け足すと、も肩を怒らせて重々しく頷いた。
 二人同時に笑い出し、冷めたお茶を啜りながら、周瑜から差し入れられた月餅を味わった。

 呂蒙の言葉通り、きっかり四日後、孫策の軍が帰還する旨が先触れの口上によって報告が為された。
「随分と手間取ったものだ」
 孫堅は憎まれ口を聞いたが、やはり心配はしていたらしく、その口調には喜びが滲んでいた。
 明朝の到着に合わせ、慌しく出迎えの仕度が進められる。
 公績の時とは大違いだ。
 は心密かに思ったが、わざわざ口に出して波風を立てようとは思わない。
 孫策の帰還で皆が忙しくなり、予定していた訪問もなくなってしまった。仕方なく竹簡を広げ、勉強に励む。呂蒙の手ほどきのお陰で、簡単なところは何となく分かるようになってきた。難しい単語は幾つもあったが、字面で想像すると意外に合っていたりして、それものやる気を促した。
 外から来客を告げる声がする。
 誰も彼もが忙しい頃だろうに、と首を傾げながら扉を開けると、そこに孫権が立っていた。
 意外な人物の来訪に、は驚き声もない。
「入るぞ」
 了承も得ないままずかずかと上がりこんでくる孫権に、はただうろたえた。
 男女の仲になったのは、もう夢の中の出来事のような気がする。
 宴もなく、結果孫権と顔を合わすことは皆無と言って良かった。孫権は兼ねてより忙しい身だったし、も近頃はようやく始めた外交の仕事に勤しんでいたからだ。
 一夜の過ちだった、と、もう済んだことだと思い込み、それが馴染んでいただけに、孫権の唐突な訪問の意図が見えない。
 孫権は、卓に広げられた竹簡や硯を見て、不快を露にした。
「兄上が戻られると言うのに、何をしているのだお前は」
「な、何と言われましても」
 孫策が戻るからと言って、にやるべきことはない。だからこそこうして、空いてしまった時間を利用して勉強していた。
 特に問題はない気がするが、孫権は渋い顔を更に渋くする。
 髭と、一風代わった目の色のせいか、こういう時の孫権は年に似合わず酷く威厳がある。
 思わずたじろいで尻込みするに、孫権は大きく溜息を吐いた。
「兄上のお戻りに備え、身を清めるなり着飾るなり、やらねばならぬことは五万とあろう。何故、書など読んでいる」
「そう仰られましても」
 孫策の帰還予定は明朝だ。それとて定かでなく、遅くなるかもしれないと聞いていた。
 まだ昼を過ぎたばかりで、身を清めろというのは筋違いではないか。
「……お前は、兄上がお戻りになるのが嬉しくは無いのか」
 呆れ返ったような孫権の声音に、は困り切って頭を掻いた。
「う、嬉しいのは嬉しいですけど」
「けど、何だと言うのだ」
 嬉しいと思う気持ちはある。逆に、それならどうするのが正しいと言うのか、には分からない。
 帰ってきたら出迎えればいい、としか思っていなかった。
 口に出して言うのがはばかられ、えと、を繰り返すの姿が、孫権には不満らしい。口を尖らせて、眉間に皺を寄せている。
「えと、だ、大喬殿は、どうなさっているんです」
 喜ぶとしたら、よりも大喬の方だろう。
 が問い掛けると、孫権は眉間の皺をますます深くした。
「知らぬのか」
「何がです」
 その時、廊下を勢いよく駆けて来た兵が、孫策帰還を告げた。夕暮れには帰るところまで来ているものらしい。
 がぽかんとしていると、孫権は苦々しくを見下ろした。そら見たことか、と言わんばかりだ。それでも、の為に湯浴みの用意を言いつけてくれた。
 家人の忙しさを考え、このままでも構わないと孫権に申し出ただったが、あえなく一蹴された。
 手指に墨が着いており、知らぬ間に袖口にも跳ねていた。
「兄上のご帰還なのだぞ」
 逆に叱咤され、は苦笑して誤魔化した。
「……お前は、本当に兄上のご帰還が嬉しいのか」
「う、嬉しいですよ」
 とは言え、当人を前にしなければ到底実感など湧かない。別れ際も、あまり恋人同士のそれとは言えなかったし、むしろ凌統を見送った時の方が。
 そこまで考えて、顔が赤くなった。夢のことを思い出したのだ。
 の様子にいぶかしそうにしていた孫権も、周泰が迎えに来るに及びの室を後にした。
「いいな、着飾って置け」
 孫権の捨て台詞に、はうろたえ、とりあえず『お母さん』にもらった服を仕舞った行李を引っ張り出した。

 夕日が沈みかける空の向こうから、蠢く影が少しずつ近付いてくる。
 城門を大きく開き、そこかしこに篝火を焚いた露地庭には、城に残っている武将や文官達が孫策の帰りを今や遅しと待ち侘びている。
 は、立場上大っぴらに待っているのもまずいだろうと判断し、庭の隅に身を潜めるようにして立っていた。
 湯浴みして清めた肌に、冬の外気は容赦なく染み込んでくる。
 寒さに身を竦めていると、横合いに立った者が居る。
 太史慈だった。
「何も、このようなところで待たずとも」
 苦笑しながらも無理に押し出そうとしないのは、が孫策の想い人としてではなく、蜀の文官としての立場を上に見たことを慮ってくれてのことだろう。
 太史慈も客将という微妙な立場だったから、の気持ちが分かったのかもしれない。
 影は、近付くにつれ疾風のような速さを呈した。呂蒙の言である『討伐に向かう軍は行軍の速さが要』が本当ならば、孫策の軍程それに相応しい軍はない、とさえ思えた。
 先頭に立つ馬に孫策の姿が確認できるようになると、待ち構えていた楽団が華々しい曲を奏で始める。
 夕暮れの寂しい景色に似合わず、その音は人々の心を大いに賑わした。
 城門を飛び越える勢いで馬が駆け込んでくる。
 白馬は極上の笑みを浮かべる孫策と、照れ臭そうに笑う大喬を乗せていた。
「孫策様、並びに二喬殿のご帰還である!」
 え。
 の周囲が、一瞬にして暗い闇に落ちた。
 人々の声だけが、何処か遠くからわんわんと響いて聞こえてくる。
――さすがは二喬、孫策様が苦難に喘いでいると見るや、即座に戦地に赴かれ
――囮として身を挺し、見事賊の本拠地を調べ上げたとか
――怯え怯むことなく孫策様の軍と呼応し、内からさんざに賊共を薙ぎ倒し
――いや見事な献身ぶり
――特に、大喬様のご活躍は素晴らしかったとか
――正に孫策様の妻として相応しい
殿」
 背中から押し出される感覚に、は思わず飛び退った。
「……殿?」
 太史慈は困惑したように首を傾げる。
 どうかしたかと暗に尋ねられているようだが、も何と答えて言いか分からない。
殿、孫策殿が」
 馬上で忙しく辺りを見回している。を探しているに違いない。
 しかし、の足は前に進もうとはしない。それどころか、じりじりと後ろに下がっていく。
殿」
 よく分からないまま、とにかく孫策の元へ連れて行こうと手を伸ばす。は、弾かれるようにその手を振り払った。
「……殿、悪ふざけは……」
 その時、太史慈はようやくの顔色が悪いことに気が付いた。この寒空の下、孫策の為に着飾ったのであろう薄手の装束が、の体を害したのだと思い当たる。
「……室に、お戻り為され。孫策殿には、俺から伝えておこう」
 血の気をなくして薄まった朱の唇が、の具合の悪さを如実に示していた。
 太史慈の心遣いに拱手の礼で応え、は肩をすくめて背を向けた。
 覚束ない足取りを心配しつつ、太史慈は一先ずと孫策の元へと駆ける。
 太史慈は、背を向けたが泣いていたことを知らない。

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