室に戻ってきた。
 警備は付いているのかいないのか、相変わらず人影も見えない。案外、付いていると口で言っただけで、付いていないのかもしれない。
 孫堅の望みとは言え、一人で来ているという現況がそもおかしい。
 とは言え、侍女の一人も連れてこなかったのはの勝手なのだし、雇えと勧められても断ってきたのもまた、の勝手だった。
 一人で何もかもを済ますには、なかなか手が足りない。掃除機だの洗濯機だのはさすがに求める方が無体だから、我慢してやるしかなかったが、それでも手が回らない分は呉の家人に頼らざるを得なかった。相手にしても、面倒だろうと思う。
 そこまでして家人を雇わなかったのは、ひょっとしたらこういう時の為かもしれない。
 何の為に流したかも分からない涙は、大方納まってくれていた。鼻の奥の方がつんと冷たくなっていたけれど、それでも鼻を啜れば幾分か呼吸は楽だった。
 たぶん、ヒステリーを起こしたのだと思う。
 自分が、いわゆる小学生レベルのところをえっちらおっちら進んでいくところを、ずっと年下の大喬は空の極みを軽々と飛んでいく。
 囮になって賊のアジトに潜入するなんて、にとっては映画かドラマの中だけの話だ。到底敵うものではない。
 その大喬を馬に乗せ、威風堂々と帰還を果たした孫策が、何でを探すのか分からない。
 孫策の隣に立つことは、イコールで大喬と並ぶことだ。
 そんなことに耐えられるとは思えなかった。
 どうして平気だったんだろうか。
 大喬が心優しく素直な、それでいて一途でひたむきで誰からも愛される子だと、芸事にも武術にも心得のある完全無欠のスーパーヒロインだということは分かっていたはずだ。そんな子と対等で居られると思っていたことが恥ずかしい。
 対等どころではない。
 実際のところ、は年が離れていることから、大喬のことを年下の妹分のようなつもりで見ていた。能力、人柄、見た目の上で考えても、何一つが勝ち得るものがないにも関わらず、だ。
 このまま逃げ出してしまいたいとさえ思った。
 恥ずかしくて、情けなくて、何処にも居場所がなかった。
 与えられた室に逃げ帰ることが、精一杯だった。
 何処をどう歩いたものか、ようやく室の近くまで帰ってくることが出来た。
 普段はそこかしこを歩き回っている文官や家人達は、皆、孫策の出迎えに出ているらしく、誰ともすれ違わなかった。
 有難かった。
 今、誰かと顔を合わせたら、本当に何処かに逃げ出してしまいそうだった。
 上掛けを頭から被り、狭く息苦しいながらも自分だけの居場所を確保する。
 ほっとした。
 久方振りに真面目に勉学に励んだり、慣れない付き合いであちこちに出向いたりしたから、疲労が溜まっているのだと思った。
 少しだけ、今日だけでもゆっくり休んで、そうしたら少しは冷静になれる。何の非もない大喬を恨んだり、好意で話しかけてくれた太史慈を憎まなくて済む。
 今は少し混乱しているだけ、それだけだから。
 突然、牀が大きく揺れた。

 能天気に明るい声が、を包んでいた上掛けを剥ぎ取った。
 ぎょっとして目を剥くの前に、にこにこと笑う孫策の顔があった。
ー」
 親しげに、リズムを付けて名を呼ばれる。その声が妙にえげつなく聞こえ、鼓膜に不穏なざわめきを送って寄越す。
 強張ったの様子に気が付かないのか、孫策は当然のように手を伸ばし、起き上がりもせず孫策を見上げるの髪を引っ掻き回した。
「何だ、お前。着飾って風邪引いてちゃ、世話ないだろ?」
 馬鹿だなぁ、と鼻で笑う孫策に、は言葉がない。
「お前はいいんだよ、別に着飾るとかしなくてもよ。嫌いなんだろ?」
 返事がないのにも関わらず、孫策は一人上機嫌で話を進める。
「いつもの小汚いカッコでいいじゃねぇか。大喬だって、お前が具合悪いって聞いて、すげぇ心配してたんだぜ」
 汗で湿った髪を、孫策の手が掻き乱していく。
 嫌だ。
 込み上げる嫌悪で体の中が真っ黒に染まっていく。手足がやたらと重く感じられ、視界が暗くなっていく。

「お」
 髪を撫で回していた手を弾かれ、孫策は小さく声を上げた。
 はぐったりとした重い動作で、のろのろと上掛けの中に潜り込んでいく。
 余程具合が悪いのか、孫策の悪戯を咎めるでもなく、表情も暗く沈んでいた。
 さっきまで庭に出ていたと聞いたから、それ程でもないだろうと軽い気持ちで来てしまった。眠ったばかりのところを叩き起こしてしまったのだとしたら、悪いことをしたと後ろめたくなった。
 孫策はただ、に会いたかっただけだ。
 ほとんどの軍勢を陳武に託し、自分は馬を早駆けて戻ってきた。の顔を早く見たい、ただそれだけの為に駆けてきた。
 戻ったら、そこにが居て、真っ先に自分を出迎えてくれる。そうしたら、そのままを抱き締めて、一晩中でも抱こう。
 そんな夢想に耽りながら馬を飛ばしてきたのに、出迎えの人の群れにはの姿はなかった。
 別れ際、乱暴に抱いたことに未だ腹を立てているのだろうか。
 心配になり、馬首を巡らせるがどうしてもの姿は見出せなかった。
 共に、と望まれて連れて来た大喬も、の姿が見えないことを酷く心配していた。
 大喬の不安は孫策の不安を倍に膨れ上がらせる。大丈夫だ、と根拠のない励ましを口にするが、却って自分が落ち着かなくなった。
 人ごみを割って前に進み出た太史慈が、は室に戻ったと教えてくれてようやくほっとした。
 着飾って薄着で居たから、寒さにやられたのだろうと聞いて、それまでの不安が嘘のように爆笑したくなった。
 あのが、孫策の為に着飾っていたと言うのが照れ臭い。普段からあまり自分を飾り立てようとしないなだけに、それだけ孫策の帰還を『特別なもの』として受け止めてくれた証に思えた。
「……馬っ鹿だなぁ、あいつ」
 憎まれ口を叩きつつも笑みが零れてしまう孫策に、大喬も可笑しそうにくすくすと笑い声を上げた。
「行って差し上げて下さい」
「……おう」
 孫策が大喬に見送られての元に赴くのもおかしな話だが、大喬が援軍として孫策の元に訪れたのは、そもそもの元に孫策を戻す為だった。
 薬湯を常用している(させられている)と思しきは、大喬からしても虚弱ではかない感じがした。
 心が強い人程、体は弱いように思う。
 体に良さそうなものを見繕い、時折差し入れてはいたものの、に一番良く効くのはやはり孫策ではないかと思い立ち、孫策を帰還させるべく戦場に赴いたのだ。
 今度はきちんと周瑜に命を受けた。命を出してもらったのは大喬だったが、正月も近く、長引けば兵も民も疲弊するという主張が通ったのだから、後ろ暗いところは何もない。
 周瑜の面子も掛かっていたから、同行した小喬の張り切りようといったらなかった。囮を買って出ると言う蛮勇に、正直大喬も尻込みしたものだ。結果的には上手くいったから良かったようなものの、途中の経過を顧みるたびに肝が冷える。
 終わり良ければすべて良し、と小喬は気楽なものだ。確かに、結果的には思った以上に早く済み、孫策の無事帰還と相成った。
 の元へ一目散に駆けていく孫策を見送る気持ちに、何の迷いも曇りもないと言えば嘘になろう。
 けれど、孫策の元気な姿を見たの喜びようを思えば、少しぐらいは我慢しなければと思った。
 大喬もまた、呉に来たばかりの時は不安で一杯だった。小喬が居てくれたからまだ気を紛らわせることも出来たけれど、本当に一人で、しかも蜀国の面子を背負って呉に来たの心労は如何許りのものか、大喬には想像すら付かない。
「義姉上」
 周瑜がやって来て、拱手の礼を取る。
 大喬もそれに応え、この度の出征に許可を下した周瑜へ、謝意を表明した。
 厳しく取り繕った表情が崩れ、苦笑いへと変わる。
「義姉上は、お人が良過ぎる」
 妾風情にこれ程気を使ってどうするか、と周瑜は言いたいのだろう。
 しかし、は孫策の想い人であって妾ではない。それに、大喬にとってもまた大切な、大好きな人だった。
「だって、私の大姐ですもの」
 孫策との再会をが喜んでいるに違いないと思いつつ、大喬はここまで自分達を乗せて駆けてくれた馬の首を、労わるように撫で上げた。

 上掛けの下で丸くなってしまったを見下ろし、孫策は困惑した。
 今すぐにでも抱きたい。
 自分の帰還を待ち侘びてくれたを抱いて、何であればしないでもいい、ただこの腕の中に納め、帰ってきたと知らしめたかった。
 風邪を引いたと言うなら暖めてやるし、うつったとしても構ったことではない。
 だが、は孫策に背を向けている。
 上掛け越しでもそれと分かる程、孫策の存在を拒絶していた。
 待っていてくれたのではないのか。
 そう言えば、まだお帰りの一言すら聞いていない。
 口を聞くのも億劫な程具合が悪いとあれば、それも仕方ない。
 自分を納得させつつも、しかし胸にわだかまる不安が孫策をこの場に縫い付けていた。
「……んな、具合悪くなるような服、着るなよ」
 着飾らなくても、だ。ありのまま、笑った顔も怒った顔も、丸ごと好きになったと自信を持って言える。
 それで体をおかしくして、こんな寂しい気持ちにさせられるぐらいなら、着飾ってくれなくて結構だと思った。
 は身動ぎ一つしない。
 期待していた分、手酷く裏切られたような心持ちで孫策は言葉を綴った。
「俺、すげぇ飛ばして帰ってきたんだぞ。お前に、会いたかったから」
 やはり返事はない。
「何だよ」
 ぽつりと呟く。無性に寂しくなった。
 いっそ、と上掛けを剥ぎ取ってしまおうかと考えもするが、具合の悪い女相手にしていい真似とも思えない。小さく舌打ちして、牀から飛び降りた。
 室を立ち去る直前、振り返って見てみるが、がこちらを向く様子はない。
 居心地悪さから頭を掻き、扉を閉めた。
 の室の前で片膝を抱えて座り込む。
 つまらなかった。物凄く、つまらなかった。泣きたくなる程つまらない。
「孫策様」
 目だけで見遣れば、大喬が心配そうに覗き込んでいる。
「大姐のご様子は、如何でしたか」
「……寝てる」
 あからさまに不機嫌な様子の孫策にも、大喬はただ静かに微笑んでいる。
「ん?」
 何故だか大喬の機嫌が妙にいいように思えた。目を向けた孫策に、大喬はくすぐったそうに笑みを零す。
「孫策様がそんなお顔なさっているの、初めて見たような気がします」
「そ……そっか」
 ごめんな、と謝る孫策を、大喬は笑って押し留めた。
「いいえ、私、嬉しいんです。孫策様、いつも私に弱いところとか見せないようにしてらしたから」
 気付かれていたのか。
 尻の座りが悪くなったようにもじもじとしだす孫策に、大喬は笑い続ける。ひとしきり笑うと、孫策の腕を取った。
「さ、孫策様もお休みにならないと。ずっと、ほとんどお休みにならないでここまで戻ってこられたんですから」
 大喬の言うとおり、孫策の体力もそろそろ限界に近付きつつあった。
 それだけに、せめてから労わりの一言が欲しかった。渇望に近いそれに、孫策は未練がましくの室を見つめる。
 大喬も孫策の視線を追い、その意図を察した。
 もう一度、様子を伺ってみましょうかと誘う大喬を、孫策が止めた。
「……いや、いい。行こうぜ、大喬」
 明日になれば、も少しは回復するだろう。
 すべては明日になってから、と自分に言い聞かせ、孫策は大喬を連れての室の前から去った。

 室の中で、は上掛けを肩に長椅子に座っていた。
 我がままが過ぎたと反省して、孫策を追おうと牀から出て来たのだ。長い出征で疲れただろう、せめてお帰りくらいは言ってやろうと思った。
 足音が聞こえなかったから、恐らく室の前に居るのだろうと見当は付いた。
 けれど、が扉を開ける前に、後から来たらしい大喬が孫策を慰めていた。
 どうということはない。
 当たり前のことだ。あの二人は、夫婦なのだから。
 とても入り込めないと思っても、仕方がないことだ。
――行こうぜ、大喬。
 孫策の声が蘇り、は自分の体がずしりと重くなったのを感じた。
 そのまま長椅子に横たわり、眠りに就く。
 椅子はただ冷たく、の身を凍えさせた。

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