が熱を出した。
 翌日、起き出してこないを案じ、護衛兵が家人を呼びつけた。呼びつけられた家人がその上司の指示を仰ぎ、三人程で連れ立ってお恐れながらと伺いを立て、返事がないので更に上の立場からの指示を求め、そうして初めて室に立ち入った。
 後日、この件を孫堅が聞き及び、馬鹿馬鹿しいと吐き捨てたそうだ。
 だが、本来ならこれが通常だ。魏であれば、もう二三段階挟まれたに違いない。
 程の身分の者に御付の者がいないというのがおかしいのだから、頭ごなしに家人を叱り付けられない。孫策や凌統が気さく過ぎるのだ。
 これを機に、侍女の一人も押し付けるかと考えるが、変に大雑把で変に繊細なの相手を、生半な者に預けるわけにはいかない。何度となく確認されてきたことではあるが、を身一人で越させたのは君主孫堅であり、馬鹿正直に本当に一人でやって来たには、表向きとは言え何の非もない。
 周瑜は、性急に凌統を討伐に向かわせたことを後悔していた。今となっては、あの当帰とか言う女商人をの世話役に据えることも出来ない。凌統の他に、別の将なり高官が付いていると見られては、またぞろ城に上がっている商人達が騒ぎ出しかねないからだ。
 ならば、凌統が居る内に、凌統のごり押しとして当帰を城に上げてしまえば良かったのだ。凌統に悪役を押し付けたとて、凌統自身は構わなかったに違いない。
 すべてが後の祭りだった。
 思慮が足りないと言われればそれまでだが、周瑜としてもに関してはいつもの切れがまるで発揮されない。
 諸葛亮の影がもたらすまやかしは、それでも随分薄まってきたと思っていたのだが、生憎そうではなかったらしい。
 だいたい、軍略に関してならばともかく、軍をまとめる立場にある自分が他国の一文官風情のことでここまで頭を悩ませなければならないのも、周瑜にとっては気が重い限りだった。
 医師からの報告によれば軽い風邪だろうということで、食欲がないのは気がかりだが、安静にしていれば大事無いとのことだった。
 ただ、やはり数ヶ月前に腹の子を亡くしたばかりで、体が健やかであるとは言い難いから、あまり無茶はさせないようにと言われた。
 無茶をさせた覚えはない。
 ……と、言い切れれば良いのだろうが、心当たりは尽きない。特に、頼りにしていたと思しき凌統を、孫策の為とは言え討伐に送り込んだことには罪悪感を免れずに居た。
 始めは何の気なしに過ごしているように見えたが、徐々に萎れていくのを周瑜も見ている。支えがなくなったことで、生活にも不便を感じるようになったのだろうと思っていた。
 では、と最初の考えに立ち戻り、侍女の一人なり、と考えるのだが、結局輪を辿るように同じ思考に陥ってしまう。
 どうしたものかと悩んでいる内に、日は早くも傾きかけていた。
 今宵は、孫策帰還の祝宴がある。

 同じ頃、寝ていなければならないはずのは、起き出して身支度をしていた。
 周瑜が見たら目を剥いて怒鳴り散らすだろうが、とて好き好んで起き出しているのではない。
 医師の言いつけどおり、なるべく温かくはしていた。
 湯浴みをして汗は流したが、髪は濡らすと凍えるだろうから、櫛で梳いて整えるだけに留めた。
 服は、いつもの文官装束だ。もう一枚を孫権に破られて以来、これ一枚を着込んでいたせいか、少し痛んできている。袖口にも墨の汚れが残っていたが、これが一番暖かい。
 着飾らなくていい、と言ったのは孫策なのだから、構うまいと思った。

 の熱は、昼過ぎには引いていた。
 寒いところで転寝をしていたからだと医師には叱られたが、むしろ頭がショートして出たものだろうとは見ていた。
 考え過ぎなのだ。
 自分は馬鹿なのだから、考え過ぎてもろくなことにならない。
 ともあれ、休めと言われたのだから休んでいようと思った。
 久し振りに一人きりの時間を過ごしている気がした。凌統が居なくなってから、一人で過ごす時間は増えていたはずなのに不思議だと思う。
 何のことはない、一人で居るとぼんやりと凌統と居た時間や蜀での生活を思い出していたからだ。
 熱を出した後のせいか、頭はぼんやりとしていて思索に耽る余裕がない。
 代わりに、庭を訪れているらしい小鳥の声や、風が揺らす葉擦れの音が耳に響いてくる。安らぐ。
 一人だな、と静かに思った。不思議と寂しさは感じなかった。
 やっぱり疲れてたんだ、変に肩肘張ってたから、それで。
 後で孫策に謝ろうと思い、とりあえずは体を休めようと目を閉じた。
 途端、入室を告げる声がして、は目を開けた。
 起き上がると体がだるい。熱を出した後だから、仕方なかろう。
 孫権が、一人で来ていた。
 昨日といい今日といい、何なのだろうかと思う。家人が付いていないから気を回してくれたのかとも思っていたが、今日の来訪を考えればどうもそうではない。
「今宵、兄上の帰還を祝う祝宴を行う」
 来られるだろうな、という問い掛けからは、行かないという選択肢はないように感じられた。
 医師からは、しばらく安静にと言われている。
 と言っても、それはあくまでの体を気遣ってのもので、自身は今日いっぱい寝ていれば、明日には起きられるだろうと踏んでいた。
 けれど、孫権の言うように今宵、しかも酒が振舞われるであろう祝宴に出席できる程回復できる自信はない。あまりに無茶な言いつけに、今日一日は、という言葉がに与えてくれていたゆとりが、粉微塵に吹き飛んだ。
 むっつりと黙り込んだに、孫権はややも慌てたように顔を背ける。
 焦っているようにも思えた。
 何をだろう。
 答えは一つしかなかった。
「言いませんよ」
 の呟きに、孫権がはっとして顔を上げる。
 罰の悪そうな顔に、は自分の予想が外れていなかったことを理解した。
 孫権は、と交わした睦言を孫策に知られるのが怖いのだ。
 兄思いの孫権であればそれは当然だったろうし、さして驚くべきことでもない。
 ただ、体の芯が凍えるように寒くなった。
「……言いません、誓ってもいいです。だから、安心して下さい」
 だから、出て行ってくれ。
 言外に滲ませる嫌悪感に、孫権は怯んだように口を開いた。
 何か言い訳でもする気かと目を向けたに、孫権は気圧されたように唇を閉ざし、顔を背けた。
「……もし、具合が悪いのであれば」
「大丈夫です、出ますから」
 今更気遣ってくれても嬉しくも何ともない。出ろというなら出るまでだ。
 意固地になって、は孫権の気遣いを跳ね付けた。
 物言いたげに見つめる孫権の視線が鬱陶しくなって、は顔を反対側に背ける。
「……すまぬ……」
 謝るぐらいなら、しなければ良かったのに。
 そう思って、は口を閉ざしたままで居た。
 孫権はしばらく立ち尽くしていたようだが、やがて力ない足取りで廊下に出て行った。
 胸がぎりぎりと痛んだ。
 悪いのは自分だろうか。そうは思えない。いや、もっと自分がちゃんとしていたら、いやでも。
 思い悩みはしても、罪悪感としか呼べない痛みが胸の内にあるのは事実だ。
 もう、とてもおとなしく横になってはいられなかった。
 重い体を引き摺って廊下に出ると、なるべく大きな声で人を呼ぶ。眩暈がした。
 驚いたような顔で護衛兵が駆けてきたので、湯の用意を頼みたいと告げた。護衛兵は戸惑っている。それはそうだろう。護衛兵の仕事はあくまで護衛であって、筋違いもはなはだしい用件だ。
 けれど、に構っている余裕はなかった。
 凌統のことを思い出していた。

 護衛兵から報告を受けたものの、呂蒙としても何としていいのだか分からずに居た。
 孫権が尋ねてきた後でが身支度を始めたのだとすれば、孫権が何らかの命を出したと取って間違いない。の病状に関しては、誰彼となく伝え聞いていただけに、孫権一人が知らなかったとは考え難い。
 ならば、分かった上でを起こしたのだとしか思えなかった。
 何の為かと考えれば、やはり孫策の祝宴の為としか考えられない。兄の祝宴に、その想い人たるを、と望む気持ちは分からないでもなかったが、たかだか賊討伐ごときと言えばそれだけなのだ。ただでさえ病弱で、今、正に具合が悪いを引っ張り出す程のことかと頭が痛い。
 ともかく、に事情を確認しに行こうと席を立った。
 夜が更けると、肌を切りつけられるかのように冷え込む。水辺が近いせいかもしれないが、今宵は特に寒さが厳しい。
 廊下の向こうから、が一人で歩いてくるのが見えた。
 無用心な、と肝が冷える。
 急ぎ駆けつけると、この寒空のせいかの顔は赤みを帯びている。着込んではいるようだが、あまりに無茶だと思った。
「……寝て、おられなくては」
 上手く言葉が見繕えない。
 呂蒙の言葉に被せるように、は首を振った。
「孫権様が」
 ああ、やはりか、と呂蒙は苦い思いを噛み締めた。
「孫権様には、俺から申し上げておく。さ、戻られよ」
 の手を引こうと腕を伸ばすが、さっとかわされてしまった。呂蒙を避けてそのまま宴の間に向かおうとするので、乱暴だと自責しつつ、の体を抱きとめた。
 腕の中に納めたの体が、妙に熱い。まだ熱があるのだと窺わせた。
「こんな体で、無理をしてどうなると。孫策様も、これでは気を煩われよう」
 もがいていたの動きが、ぴたりと止まる。
 安堵して身を離した呂蒙は、の目に涙が浮いているのを見て体を強張らせた。
「何してんだ、おっさん」
 気安い声に、呂蒙の呪縛が解かれる。
 慌ててから離れると、背後の声の主を振り返った。
「甘寧か」
 それ以外には考えられないのだが、つい確認してしまう。
 様子のおかしい呂蒙とその前で立ちすくんでいるに、甘寧はじろじろと不躾な視線を注いだ。
「お前ぇは何やってんだよ」
 ぺし、と頭を叩かれて、は甘寧を見上げた。目に涙が浮いているのを見て、ぎょっとしている。気が付いていなかったらしい。
殿は、具合が、その、悪くてな」
 聞かれてもいないのに補足する呂蒙に、甘寧は眉間に皺を浮かべた。
「具合が悪いのに、何だってこんなとこに出張ってんだよ」
「その」
 孫権の名を出していいものか、呂蒙が逡巡している間に甘寧はを抱き上げた。
「何でぇ、熱があんじゃねぇか」
 馬鹿だなお前ぇは、とぶつぶつ文句を言いながら、が元来た道を辿る。
 呆気に取られる呂蒙が、思わず引き止めようと腕を上げた瞬間、甘寧がくるりと振り返った。
「おっさん、俺、今日の宴、遠慮するわ。適当に誤魔化しといてくれや」
 言うだけ言って、もう振り返りもせずに行ってしまった。
 後に残された呂蒙は呆然としつつ、しかし結果的にはこれで良かったのだと自嘲した。己では、到底ああは運ぶまい。
 ならば、と呂蒙は宴の間に向かった。
 『不手際』の庇い立てであれば、他の将に引け目を取るものではない。
 情けなくはあったが、これが適材適所ならば、甘んじて引き受けようと決意した。

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