の具合が思ったよりも芳しくなく、今宵の宴には顔を出せそうもない。
 昼過ぎまで爆睡を決め込んでいた孫策は、周瑜の言葉にがっくりと項垂れた。
 見るからに萎れた様に、周瑜も言葉がない。そんなに会いたいものかと、感心すらさせられる。
「……顔だけでも、出してみたら如何だ」
 見舞いくらいなら構うまい、と周瑜が薦めるも、孫策は苦りきった顔で首を横に振った。
「ゆんべ、調子に乗ってあいつのこと起こしちまった。俺、あいつの顔見るとはしゃぐから駄目だ」
 そこそこ自分の行いを顧みる余裕は出来てきたらしい。我慢、と顔に書いてあるのが何だが、友の成長に周瑜は頬を緩ませた。
「明日なら、いいよな……?」
 いいと言ってくれと懇願しているような孫策の顔に、周瑜は堪えきれずに吹き出した。
「私は医者ではないから、良くは分からぬが……君が自分を諌められると言うなら、構わぬだろう」
 卓に突っ伏して駄々をこねる孫策に、は幸せ者だと思わずには居られなかった。

 夕刻、討伐の後始末とも言うべき残務に四苦八苦している孫策の元を、孫権が尋ねてきた。
「お、権!」
 思わぬ援軍にぱっと顔を輝かした孫策に対し、孫権は何処か困惑したような面持ちをしている。
 苦手な事務を手伝ってくれると思い込んでいた孫策は、孫権の様子に首を傾げた。
「……俺に、何か言いたいことでもあるのか?」
「あ、いえ、その……」
 言い出し難いと顔に書いてあるようだ。
 孫策は、カラカラと笑って竹簡をなげうった。
「何だよ、遠慮しないで言え」
 気楽に構える孫策に、だが孫権は余計に顔を強張らせた。
「いえ、その……が、宴に出るそうです」
 思いがけない言葉に、孫策は目をぱちくりと瞬かせた。
「あ? あいつ、だって寝込んでんだろ?」
「は、はい、ですが、宴には出席すると、申しておりました」
 事態を飲み込めず、しばしぽかんとしていた孫策だったが、不意に満面の笑みを浮かべた。
「そっか! 有難な、権!」
 ならばとばかりになげうった竹簡を拾い上げると、片付けてしまうべく筆を取る。長く書いていられるようにと筆にたっぷり墨を含ませるもので、文机の上に墨の雫がぽたぽたと垂れた。
 やる気全開で執務を再開させた孫策に、孫権はもう掛ける言葉がなかった。

 宴の主役とも言うべき孫策は、二喬を伴って現れた。
 孫策は陳武と並んで上座に座り、常は控えめに席の後ろに座る二喬も、今宵ばかりは前の方へと座らされていた。
 落ち着きなく広間の出入り口に目をやる孫策に、周瑜は違和感を感じる。
 だが、隣に小喬が座しており、討伐の手柄話に相槌を打っている内につい疎かになっていった。
 思わせぶりに遅れて入ってきたのが呂蒙だと知るや、孫策は口をへの字に曲げる。孫策の様子に密かに笑みを浮かべつつ、大喬もの到着の遅れを気にし始めていた。
 孫策が我慢しているのに、自分が行く訳にはいかない。遠慮をしてしまったのだが、思い切って会いに行けばよかっただろうかと思い悩んだ。しばらく安静にと医者に言い付かったが、その日の内に宴に出られるとは如何しても思えない。また無理をしているのではないかと思うとはらはらした。
 会いに行って、の様子を確かめておけば良かった。
 が宴に出ると聞いたのはつい先程のことだ。後悔先に立たずで、今からでは確認しようもない。医者の見立てが誤りで、思ったより軽かったのなら良いのだが、と案じていた時だった。
「何」
 低いが鋭い声が大喬の耳を打つ。
 驚き振り返れば、孫権が呂蒙と何事か話しているところだった。
 隣に座った小喬も、その隣の周瑜も二人の様子を注視している。
 孫権は、優れぬ顔色を更に曇らせ、上座に座る孫策を申し訳なさそうに見上げた。
 視線で覚った孫策は、一瞬眉に皺寄せたものの、すぐに努めて笑顔を浮かべた。
 しょうがねぇよ、と孫権を慰めているようにも見える。
 事の仔細が分からぬ周瑜と小喬は、二人の顔を見比べて顔を突き合わせた。何だろうといぶかしがっているのだろう。
 大喬は、孫権の視線の意味するところをすぐに察した。ほっとしたようながっかりしたような心持ちで、明日少しだけならお見舞いに行ってもいいかしら、と胸の内で算段する。
 何事もなかったように宴が始まり、上座に在る孫策と陳武には特に盛大に酒が振舞われた。孫堅手ずから酌を振舞われ、陳武は感激して勢い良く酒を煽っていく。
 孫策も、注がれれば呑むのだが、その様は一種異様だった。
 ぼーっと考え事をしていたかと思えば、自棄になったように杯を煽る。はしゃぎだしたかと思えば、むっつりと口を閉ざす。
 集まった文官や将達が困惑顔を見合わせて居るのを、周瑜はどうしたものかと密かに悩んだ。
「孫策」
 酒を注ぐ振りをして、何気なく孫策の注意を引く。
 孫策は無言のまま、ぞんざいに杯を突き出した。
「会ってこい」
 途端にきょとんと素の顔を晒す孫策に、素直過ぎると苦笑が漏れた。
「……君がそんな様では皆も落ち着いて楽しめない。顔だけでも見てくるといい。誤解があるなら解いてこい、詫びを入れるなら入れるだけ入れておけ」
 孫策の顔に、抑えきれない喜色が浮かぶ。犬ならば、耳をぴんと立て尻尾を大きく振りそうだ。
「いや、でもよ」
 既にそわそわと腰が浮きかけている。何をかいわんや、と周瑜は笑った。
 行って来いと再度後押しすると、孫策はほんのわずか逡巡し、疾風のように宴の間を後にした。
 あまりに堂々と抜け出すので、皆の注目を集めてしまっている。
 頭痛を覚えたが、孫策らしいと言えばらしい。
「策はどうした」
 孫堅が尋ねてくるのへ、しれっと『厠でしょう』と答える。
 断金の友の為とあれば、君主に対しても嘘を吐き通せるのが周瑜と言う男なのだった。

 廊下を駆ける孫策の足音に、別の誰かの足音が重なる。
 不思議に思って足を止めれば、廊下の角から孫権が飛び出してきた。追い掛けてきたのだろう。
 そう言えば、と今頃になって孫策は、弟も己と同じ女に恋慕を抱いていることを思い出した。
 自分のことばかりに夢中になっていたと自己嫌悪するが、こればかりはどうにもならない。
「兄上、あの」
 恋路を邪魔立てするような弟ではなかったと思ったが、やはり恋慕が絡むと話は別なのだろうか。焦る気持ちで馬鹿なことを考えた。
「あの、お話したいことが……お詫びしたいことが、あります」
 詫び、と聞いて、孫策は目を丸くした。
 何を謝ろうというのか、まるで見当が付かない。
「……何だぁ、権。どうしたって」
 明るく笑いかけるも、苦悩を滲ませる孫権の表情は冴えない。
 唇を噛み締め、その唇が血の気を失って白くなる程、孫権は耐え難い告白を抱え込んでいるようだった。
 孫策の顔から笑みが消えた。笑って聞くような無礼が許されない雰囲気がそこにあった。
 ややあって、孫権も漸う覚悟を決めたものらしく、沈痛な面持ちで口を開いた。
を、抱きました」
 孫権の言葉は、孫策の耳には決して馴染み染み込もうとはしない。だが、鼓膜の表面にねっとりとこびりつくように張り付いた。
 口元に笑みが浮く。
 無意識なのだろうことは、孫策の強張った目元が語っていた。
 許してくれと平伏せたら楽だろう、しかし孫権はそうしなかった。そんなことをしても楽になるのは己だけだと分かりきっていた。
 寄りにもよって弟に、と、激しい嵐が孫策を襲っているだろう。想像するだに申し訳なく、後ろ暗い気持ちになった。
 孫策の唇が小さく歪み、ふ、と吐息を吐き出した。
「あー……」
 小さい声は暗く沈んでおり、孫権は見えない鞭で打たれたような気がした。
 ぎゅっと目を閉じ、兄からの痛烈な罵声を待つ。
 が、望んだ痛みは孫権には与えられなかった。
「そっか。そんなこと、言ったっけな」
 他人事のようにぼんやりと呟き、笑う。
 夢でも見ているかのような輪郭のぼやけた笑みに、孫権は詰られるよりも心を痛打される痛みがあることを、初めて知った。
「あ、兄上」
「気にすんな、権」
 考えなしに呼びかける孫権に、孫策は先回りしてあしらってしまう。
「俺が、唆した訳だしよ」
「ち」
 事実のみを論えば確かにそうだろう。けれど、その言葉を実行したのは、させたのは、誰でもない孫権自身だった。兄の名を出し、兄の命だと浅ましい欲を言い訳に包み、その上でを抱いたことを卑劣だと思う。
 だが、それでもと孫権は精一杯声を張り上げた。
「私は、私はそれでも、今でもを抱きたいと、思います」
 孫策が想う女だと分かっていて、それでもを抱いた。
 一度きりでも構うものか、一夜限りでも悔いはないと言い聞かせてきた。
 私のものでなくてもいい。
 にも関わらず、夜が明ける度に消し飛んでしまうちゃちな覚悟に孫権は身悶えた。己がこれ程までに弱いとは、認めたくなかった。
 凌統が、だからに付き添うと聞かされた時は、却ってほっとした。これでようやく自分を戒められるような気がしたのだ。
 けれど、が笑うたび、怒るたび、目はそちらに吸い付けられる。着飾るのは誰の為かと邪推して、目を合わせるのも耐えられなくなる。
 未練がましいと思われたくなかった。
 下らない見栄だとしても、張り続けなければ平静で居られなかった。
 戒めとして在った凌統が賊討伐へと出征し、日に日に萎れていくの姿に孫権の我慢は限界を迎えつつあった。
 孫策が戻ってくると聞き及び、また改めて枷を得られると安堵したのも束の間、足は独りでにの室に向かっていた。孫策が戻るから、出迎え仕度を命じるという理由を無理矢理こじつけて、こじつけてでも会いたくて、そうしていた。
 はいつも通りで、孫策の帰還何物ぞといった塩梅で勉学に勤しんでいた。
 馬鹿なことに、頬が緩みかけた。
 待ち侘びて、居ても立ってもいられなくなっているかと思っていたから、の冷静さは孫権の奸心を心地よくくすぐった。
 愚かしい、阿呆だと自分を詰っても、もう留めようがなかった。
 兄の祝宴を理由にのこのこと顔を出した己に、もさすがに何かを感じ取ったらしく、不機嫌を露にされる。
 情けなくうろたえた孫権に、は容赦なく痛言を呈した。
――言いませんよ。
 心の臓が撃ち抜かれるような衝撃があった。
 冷たい言葉の矢は、孫権から誤解を解くゆとりを奪っていった。
 言い訳するにも空虚となった孫権の頭では、声を発することさえ出来なかった。孫権の気持ちを見誤ったまま、が頑なに心を閉ざしていくのをむざむざ見過ごした。
――言いません、誓ってもいいです。だから、安心して下さい。
 何に安心しろと言うのだろうか。
 足元から崩れ落ちそうな絶望感に、孫権は否定の言葉を飲み込んだ。
 これで終わりにしてしまえばいい、そう思った。
 労わりの言葉を掛けてはみたが、取ってつけたようにおざなりな言葉はの心をささくれ立たせるだけのようだった。それは、そうだろう。
 傷付けたことだけ、それだけは謝ろうと思い謝罪はしたが、には受け入れられない。
 それでもいいと思った。
 兄の元を訪ね、すべて終わったと報告しようと思ったが、それもおかしな話だ。切り出し口も分からず、あやふやに誤魔化して流し、孫策の満面の笑みを目の当たりにした。
 憎い。
 愕然とする程純粋な殺気は、孫権の心胆を寒からしめた。
 一瞬で消え去った憎悪は、しかし一瞬で孫権を完膚なきまで叩きのめしたのだ。
 吐露するより他にないと覚悟した。
 最も許されない愚行に走る前に、自らに沙汰を下さねばならぬと決意して、孫権は今ここに居る。
 打ち明かされた告白に、孫策の顔から笑みも余裕も根こそぎ削り落とされた。
 そこに在るのは荒々しい、戦いを前にした男の顔でしかなかった。
「今更だろ、権」
 解き放たれた殺気は、実の弟に向けて放っているとも思えぬ容赦ない凄まじさだった。
「俺はお前に言ったはずだぜ」
 くるりと背を向けた孫策は、これ以上は問答無用と孫権を厳しく突き放していた。
 孫権とて、忘れてはいない。
――好きなら、本気出せ。
 それが何を意味するかを覚っていたからこそ、孫権は身を引こうとあがいてきた。
 いいのですか、兄上。
 良い訳がない。
 けれど、逃げられない。
 噛み締めた唇が裂け、苦い血の味が口中を満たした。

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