目の前に周泰が居る。
賑々しい呉軍にあって一際目立つ寡黙な武人は、表情こそ常の引き締まったものだったが、何処か困惑したような色が滲んでいた。
の困惑は尚深い。
無言のまま、睨みあうかのごとくお互いを見詰め合っていた二人だったが、星彩がを呼ぶ声が戒めを解いた。
が声のした方に向き、その間に周泰は踵を返して立ち去った。
その背中に逃げるとか慌てているといった印象はまったくない。
ただ、やはり足の長さからかあっという間に遠くに行ってしまった。
室に戻ったは、卓の上に行儀悪く頭を乗せ、足をぶらつかせている。
星彩はそんなを叱るわけでもなく、対面に座して帰りの船に詰まれる予定の荷を確認していた。
「ねぇ、星彩」
顔を伏せたまま呼びかける声に、星彩は手にした竹簡を卓に下ろした。
「何でしょうか、お姉さま」
「私、隙大きいかな」
突然何の話だと戸惑いが隠せない。
は星彩の返事を待っているようで、それきり口を閉ざしている。
「……でも、そこがお姉さまのいいところでもありますから」
「ってことは、やっぱり隙が大きいってことか」
があけっぴろげと言うか、警戒心が薄いのは今に始まったことではない。だが、星彩が言うようにその隙の大きさが相手の警戒心を解くことも多々ある。この呉などは、そのいい例だろう。
しかし、は気鬱に溜息を吐くと、茶を淹れに席を立った。
「星彩」
おいでおいでをし、いつもどおり星彩に教えるように茶葉は二人だからこのくらい、お湯はこのくらいと独り言を呟きながら仕度をしていく。
星彩は暗唱できるほどすっかり覚えてしまったのだが、が歌うように手順を言うのがとても好きで、毎回黙って聞き入っているのだった。
「帰ったら、張飛様に淹れて差し上げるといいよ」
親馬鹿の張飛が愛娘の淹れた茶なんか飲んだら、感激し過ぎて泣いてしまうかもしれない。
星彩は首を傾げた。
「父上は、お茶よりもお酒の方が良いといつも言ってますから」
「いや、星彩が淹れれば別だから」
そんなものでしょうか、そんなもんだよ、と遣り合って、くすくすと笑い出す。
ひとしきり笑いあった後、不意にが真顔に戻った。
「……あの、さ、星彩」
「はい、お姉さま」
「……今回のこと、蜀の皆には内緒にしておいてくれない?」
それは、と星彩が息を飲む。
は無理に笑みを浮かべてみせた。
「うん、わかってる。人の口には戸は立てられないもんね。ごめん、言ってみただけ」
星彩は黙っていてくれと言えば黙っていてくれるだろう。しかし、呉に来ているのは星彩だけではない。蜀の船員達もこの呉に留まったままだ。
詳しい事情は知らないだろうが、知らない分無責任に言い触らす心算はかなり高い。
は気にしてないと思っていたが、本当は気にしていたのだろうか。
「……って言うか」
趙雲や馬超の名に傷がつくのが怖いのだ。
惚れた女が流産したとなれば、父親は誰だという話になるのは至極当然だ。また、父親でないのは誰だという話にもなりかねない。
どちらにせよ醜聞には違いない。彼らが好き勝手に嘲笑されるのだけは耐えられそうにない。
「……何とか、してみます」
「いいよ星彩。下手に何かすると、余計に噂になるから」
「でも」
このままでは、は呉に残留したまま蜀に戻れなくなるのではないだろうか。
「星彩、もう少しここに居られるかな」
手紙を書く、とは言い、書くのに時間が掛かりそうだから、と続けた。
気にはしていない。が、気にならない、気になってくれない自分には罪悪感を感じ始めていた。
どうしたらいいのか、にも星彩にもわからなかった。
星彩は、呉の重臣に孫堅と会見できるように掛け合ってくると室を去った。
一人残されたは、新しい竹簡と筆や硯を取りに奥の室に向かった。まだ仕事らしい仕事も始めない内にこんな騒ぎになってしまい、仕事の道具はすべて仕舞われたままになっていた。
行李を開き筆や硯を取り出していると、大きな文机の上に花瓶が置かれているのが目に入った。
周泰が持ってきたものだ。
白と黄の馴染み深い水仙に、椿も差してある。日本の生け花ではあまり見ない取り合わせかもしれないが、花の中央に金地に近い黄があるからかあまり違和感はなかった。
指で花に触れ、眺めていると、背後からみしりと床板の鳴る音がした。
「星彩……」
振り返った先に居るだろうと予想していた姿は、まったく違う人物のものだった。
周泰だった。
声掛けもない無礼を責めるべきなのだろうが、生憎そんな気にもなれなかった。ここは呉から借り受けた室であるから、呉の寵臣たる周泰が居てもおかしくないという感覚もある。
複雑な感情は、だから、先程の会合にこそ原因があるのだろう。
再び沈黙したまま見詰めあう。
意味がない、とは目を逸らした。同じような愚行は、そう頻繁に繰り返すべきではなかろう。
護衛兵は、と問いかけようとしたが、それもあまり意味のない質問だと思い返して止めた。
に当てられた護衛兵は、呉の兵なのだ。上司でないにせよ、周泰が入室するのを留めるわけがない。それにしても、来訪の先触れ程度はあっても良かったと思うが。
「何か、御用ですか」
珍妙な間の後、結局はありきたりな質問を口にした。
「…………」
周泰は黙ったまま、室の中へと一歩足を踏み出した。
無意識に足が後退るに、周泰はぴたりと動きを止めた。
何か案じているようでもあったが、にはよくわからない。
そのまま室を出て行ったので、ほっとした。
体から力が抜け、強張っていたのだと知れた。
だが、すぐに足音は戻ってきた。ぎょっとして再び身構えると、周泰は水仙を手にしていた。根ごと掘り起こしたものらしく、球根のような丸いものが見えた。
「……えと……」
傍らの花瓶を見遣り、は困惑の表情を浮かべた。
先日大量に贈られた花は、まだ生き生きとしてその美しさを誇っている。一株きりの水仙の意図がわからない。
「孫権様からですか?」
の問い掛けに、周泰は何故か迷いを見せた。
頷きかけ、頷いたとも取れぬわずかな揺れを瞬時に横に切り替えた。
「……俺から…だ……」
何と答えていいか、わからない。
素直に礼を言って受け取ればいいのだろうか。とてもそんな気にはなれない。先刻の記憶がまざまざと蘇る。これほど鮮明にも関わらず、夢を見たような信じ難い記憶だった。
「水仙には、」
反発めいた感情が困惑に内在している。だから、こんなことを言ってしまったのだ。
「私の国には、花言葉というのがあって、水仙が示す言葉は、うぬぼれ、とか、自己愛、なんですよ」
途切れ途切れの言葉を周泰がどう受け止めたかわからない。
けれど、周泰は怯むことなくの傍らに足を進めた。歩幅が広い分、周泰はすぐの傍らに辿り着いた。
どうしよう。
戸惑いが焦りを生み、は周泰の手にある水仙に目を向けることで周泰の視線を避けた。
別に花瓶の水仙を見ても良かったのだ。何故、周泰の水仙を見ているのだろう。
他愛のない疑問に思考を移すことで、周泰から逃れようとしたのかもしれない。
逃げる。何故。何から。
の思考の壁は周泰の声で呆気なく崩された。
「……この国にも……似たようなものが……ある……」
花言葉があるということより、周泰がそれを知っていることが衝撃だった。
「……水仙は……女を指す……特に……閨秀な女を……」
「ケイシュウ?」
聞きなれない言葉には顔を上げた。
周泰の目が、間近に在った。
ずば抜けて長身の周泰の眼がこれほど近くに在るわけがない。
が背を伸ばしているわけでも台に乗っているわけでもないから、周泰が屈んでいるのだ。
何の為に。
に近付く為に。
口付けは触れるだけのものだったが、ぴったりと隙間なく接した唇は温かく、少し乾いていた。
触れ合っていた時間が短かったのか長かったのか、には判然としない。
唇を離した周泰が、先刻と同じようにやはり困惑した顔でを見下ろしている。
時を置かずして行われた二度目の口付けに、の困惑は更に深い。
固まったように動かずにいた周泰の腕が、一瞬を抱き締め、すぐさま離れていった。
踵を返し立ち去る周泰は、は呆然として見送った。
周泰は逃げているようにも焦っているようにも見えない着実で落ち着き払った足取りで、あっという間にの視界から消えた。