目を覚ましたの網膜に映ったのは、涎垂らして寝こける甘寧の寝顔だった。
「!?」
 一瞬にして覚醒し飛び起きる。
 あわあわと辺りを見回すが、そこは見慣れた室で、に宛がわれたものに相違ない。
 甘寧は、寒さを感じないのかいつもの上半身素っ裸だった。牀の上で心地良さげに寝こけている。
 ステージによって衣装が変わる訳ではないから、雪風舞い上がる下邳でも甘寧は当たり前のように上半身素っ裸だった。
 これぐらいの寒さでは風邪など引くものではないのかもしれないが、起こさないようにそっと触れた肌は、やはり冷たく冷えていた。
 上掛けを掛けてやると、さすがにそれと覚ったか閉ざされていた甘寧の眼がぱちりと開いた。
「お……朝か」
 外はまだ暗い。
 何を以て朝と判断できるのか、には量りかねた。
 甘寧は頭をかきながら起き上がり、大きく欠伸をすると首の下辺りをぞんざいに掻いた。
 大きな獣が眠りから覚めたようにしか見えない。
 言葉もなく見守っていると、甘寧の目がに据えられる。
「まだ早ぇぞ、寝てろ」
 側頭部をがし、と掴まれ、薙ぎ倒されるように横倒しに倒される。
 甘寧に限ったことではないが、この世界の人間のほとんどが力強い。など、はっきり言って塵芥のようなあしらい易さだろう。下手すると難易度一番下げた状態の民にも劣るかも知れない。体の弱さといい、能力の低さといい、大きく外れてはいなそうだった。
「……また、ろくでもねぇこと考えてるな」
 甘寧にまで見透かされるようではお終いだと思う。
 八の字に眉を引き下げるに、甘寧は浅く笑った。
「欲張り過ぎなんだよ、お前ぇは。大体何だ、大喬の顔で? 諸葛亮の知恵があって? 武勇は俺とタメ張るぐらい? いったいどんな女だ、そりゃあ」
 気持ち悪ぃ、と吐き捨てる甘寧に、は居た堪れない気持ちになってきた。
「あ、あくまで目標、だもん」
 あぁ、と甘寧が横目で睨め付けてくる。呆れ返っているのだろうが、鋭い視線には思わず上掛けを引き寄せた。
「……くだらねぇ」
 そうは言うが。
 誰にでも、少しは『最強願望』があるものではないだろうか。もっと上へ、もっと上手く、もっとこうで在ったならと望まない人間など、逆に胡散臭くて信じられないと思う。
「まぁ……高望みか、な、とは、思うけど……さ」
「かな、じゃねぇ、高望みなんだよ」
 言い切られてしまうと、確かに高望みにも限度がある気がしてきた。
 甘寧の言う通り、『大喬と同等以上美人で諸葛亮と同等以上賢く甘寧と同等以上武力があり、明るく性格も良く気品ある女性』、などと考えていったら気味が悪くなる。キャラ設定的にもとても使い物にならない、駄目設定だろう。
「でも、さ」
 そうあらねばなるまい。蜀と呉の国交を担う、大切な役割を課せられているのだ。一人が呼ばれ、だから一人で何とかしなければならない。
 言い募ろうとするを、甘寧は鼻で笑う。
「誰が、お前にそんなご大層な期待するもんかよ」
 胸に針が突き刺さるような痛みが走る。
 甘寧の言葉は、あまりにも的を射ていた。
 表情を曇らせるに、甘寧はますます呆れている。
「……お前ぇ、馬鹿だな」
「わ……分かってるよ、そんなの」
 分かってねぇ、と甘寧は胡坐をかいてに向き直った。
「一人で、んなご大層な役割できる訳ねぇだろうが。ンなの、うちの大殿にだって無理だろ」
 どうやら傾倒しているらしい孫堅をして、無理だと言い放つ。
 甘寧の言葉の真意が読み取れなくて、は惑う気持ちを率直に顔に出した。
「お前ぇはな、へらへら笑ってりゃいいんだよ。へらへら笑って、歌って踊って酒かっ食らって、そんで俺達の機嫌取る為に呉に来たんだろうが」
 分かってんのか、分かってねぇんだろ、とまくし立てられて、は目を白黒させる。
「……え、だ、だってそんなの」
「そんなのたぁ何だ。充分じゃねぇか」
 だが、それでは呉の人々の厚情にどうして報いたらいいのだろう。これだけちやほやされて、浮かれて騒げばいいだけだなんてどうしても思えない。
 甘寧に訴えると、甘寧は馬鹿にしたように顎をがくんと下げた。
「いいだけ、ってお前ぇ、何言ってんだ」
 楽師は、舞妓はどうなる。彼らもまた楽器を奏でるだけ、舞を舞うだけの存在だ。食っていくだけの価値がないとでも言いたいのか。
 甘寧の言葉は痛烈だが、それでもはまだ逆らった。
「だって、あの人達はプロじゃない。それで食べてくだけの、力を持ってるじゃない」
「お前ぇなぁ」
 最初からそんな力、持ってる訳がねぇ。
 当たり前の論理に、はしかし絶句した。
「あいつらは、見習いだって楽師は楽師だろ。力があろうがなかろうが、楽師だっつったら楽師なんだよ。生まれたての赤ん坊が胡弓で一曲奏でてみろ、気味悪いったらねぇ」
「あ」
 一声発したまま固まってしまったに、甘寧はいぶかしげに眉を顰める。
「あ?」
 しかし、最早の耳には何も聞こえていなかった。衝撃の真実に打ちのめされていたのだ。
 あぁ、そうか。
 体中から力が抜ける。
 国を挙げての歓待振りに、この歓待に見合うだけの力量を、と焦り過ぎていたことにやっと気が付いた。
 過剰な反応は、が呉に初めてやって来た時から見受けられる、呉のお国柄のようなものだ。余所者には冷たいが、受け入れた途端ぐずぐずに溶け込んでしまうバターのようなお国柄だった。
 が中原に慣れていない、知識がないことなど先方は疾っくに承知の上で、に求められているのはだから、『己が知り及ばぬ珍奇さ』であって大喬のような愛らしさでも諸葛亮のような聡明さでもない。
 要するに、変わっていれば変わっているだけよろしくて、可笑しなことを口走るのをむしろ楽しみにされていると見て間違いないのだ。
「……ああああああああああ」
 地の底を這うような呻き声に、甘寧は何なんだと目を見張る。
 途方もない勘違いをしていたと気付いたは、へこたれるどころの話ではなかった。
 一つ気付けば、他の物事も何事もなかったかのように解けていく。
 諸葛亮や馬良が指示を出さない訳だ。やらせたいことなど何もない。ないから指示を出す必要がない。
 いいからせいぜい愛想を振りまいて来いと、そういうことだったのだろう。
 客寄せパンダだ。
 少し違う気もしたが、ほぼ間違いなかろう。
 客寄せパンダは、笹食って眠り呆けて、気が向いたらタイヤか何かで遊んでりゃあいいのだ。向上心だの溢れる知性だのを期待される訳がない。
 上野のパンダが芸をするか。ケツ向けて寝込んでいて文句言われるか。
 しない。言われない。
 そういうことだ。
 大した自意識過剰だったと、恥じ入るよりも先に絶望する。
 一体いつから、いつの間にと考えるが、どうにも思い出せない。期待されていると気負っていたのがすべてすこんと空振りだったとくれば、それは世を儚みたくもなるだろう。
「しにたい」
「あぁ!?」
 の唐突な言葉に、今度は甘寧が目を剥く。
 絶句しての胸の内を思索する甘寧だったが、何が何だかさっぱり分からない。周瑜辺りなら理解できるのだろうかと考えていたが、周瑜が聞いたら眉を吊り上げて怒るに違いなかった。
 所詮、パンダの気持ちを真っ当な人間が理解できるという方がおかしい。

 甘寧の言う通り、間もなく空が明るくなってきた。
 目が冴えてしまったは、甘寧を見送った後上掛けを被って庭に下りた。
 熱もすっかり引いて、ついでに頭に巣食っていた妄想も取り払われ、久方振りにすっきりした気分で落ち着いている。便秘が解消した時に似ていた。
 朝食が運ばれてくるにはまだ時間もあるし、少しだけ庭の散策に出ようと思った。確か、椿の花が綺麗に咲いている頃だ。一輪もらって、室に飾ろうかと探しに来た。
 まだ早いせいか、ここら辺の掃除は今日はしない予定なのか、家人と顔を合わすこともない。
 護衛は相変わらず付いているような付いていないようなで、が一人出歩いているのを咎められることもなかった。
 と、木陰から人影が覗いているのが見えた。
 それまでの気軽さが消え失せ、自分の格好の珍妙さが気になり始める。パンダだと自覚はしたものの、パンダなりに毛並みが気に掛かったりするのだ。
 だが、そこに佇んでいたのは孫策だった。
 何だ、と気抜けして近付くと、かなり近くまで来てようやくに気付いたらしい、孫策の顔がのろのろとこちらを振り返る。
 ぎょっとした。
 眠らなかったのだろうか、目の下に酷い隈が出来ていて、孫策らしからぬやつれ様だった。充血した目が濁ったように見える。腫れぼったい顔は、病人のそれにも似ていた。
「ど、どうし……」
 動転して駆け寄るも、孫策の手は伸ばされたの手を弾き拒絶する。乾いた音が、静まり返った世界に響き渡った。
 え、と息が詰まる。
 人懐こく、常にを得ようとしゃかりきになっていた孫策の、それは完膚なきまでの拒絶だった。
 ひんやりと凍え切った指の質感さえ、到底を受け入れられないと否定していた。
 あまりのことに、時すら凍えたような錯覚を覚える。
「もう、やめる」
 何。
 何を。
 問い掛けは声にならず、唇のみが蠢いた。
 孫策は、を決して見ようとはせず、顔を逸らしたままの横を素通りしていった。
 湧き上がる風がの肌に鳥肌を作る。霜を踏みつけて立ち去る孫策の足音が、やけに鮮烈に耳に響いた。
 行ってしまった。
 突然の辞意表明が、何を指しているのかは理解できなかった。
 したくなかった、というのが正しい。
 他に考えようもない、それはとの決別宣言だった。
 混乱し、よろけるままに手を伸ばして孫策が立っていた木の幹に手を着く。
 皮肉なことに、それはが探していた椿の木だった。
「…………」
 泣くことも出来ず、かといって他の表情を繕うこともできないまま、は蒼白のまま呆然として椿の花を見詰めた。

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