茫然自失としていたを見つけたのは、何故か周泰だった。
 との庭での遭遇率を鑑みるに、案外散歩が趣味なのかもしれない。
 とにかくを見つけ、何故か逃げ出そうとするのをふん捕まえて室に連れ戻したのは周泰だった。
 朝一番での室を訪れていた大喬は、扉の前でぶつぶつと何やら呟いていた。
 良ければ朝食をご一緒に、朝食の介添えを、などと早朝の訪問理由を如何に自然に見せかけるかで試行錯誤を繰り返してしていたのだが、周泰に担ぎ上げられたの姿にこちらもまた茫然自失とした。
「な、何をなさってらっしゃるんですか!」
 咎めだてる声は、にではなく周泰に向けてのものだった。
 しかし、大喬の金切り声にびくりと身を震わせ目に一杯の涙を浮かべたのは、の方だ。
 そんなに大きな声を出したかと慌てて言い訳するも、は大喬の姿に怯えたように身をすくませ、却って周泰に縋り付いているような有様だった。
 病の牀に伏せていたはずだから、変に気弱になっているのだろうか。
 の態度に動揺しつつ、大喬は兎にも角にもとの室の扉を開けた。

 の牀には、折角の衣装が乱雑に散らばっている。上掛けの一枚はに被せられていたが、残る上掛けも薄いものが二枚ばかりと、寒がりのには絶対に足りないだろう環境に、大喬は思わず憤然とした。
 衣装でも掛けなければ寒くて居られなかったのだと思うと、家人の気遣いのなさに腹立たしくなる。
 確かには自分の家人を連れていないからやりにくいのだろうとは思うのだが、それでもこれはあんまりだろう。
 炭を熾して入れておく火鉢も、小さなものが一つきりで、こんなものでは書き物で冷えた手を炙るくらいにしか役に立つまい。
「大姐、私のところから誰か……いいえ、もしよろしければ私が大姐の身の回りのお世話をいたしましょうか」
 牀の上を片付けながら、許されるならそうしたいと願い出た大喬に、の顔色がさっと青褪めた。
 目に見える異変に、大喬はの身に何事か起きたのだと察せざるを得なかった。
 よもや周泰が、とちらりと目をやるが、周泰の顔に動揺は見られない。よしんば何事かあったとしても、周泰ではその表情一つ変えることはなさそうに思えた。
 確かめる術もなく、大喬は困惑した目をに向ける。
 ひょっとしたら、と考え付いて、胸がきしんだ。
「……大姐。私、何かしてしまいましたか……?」
 の腹の子が失われた時、気を利かせたつもりでを傷つけてしまったことは記憶に新しい。自ら考えなしに犯した失態だけに、二の舞演じていたとしてもおかしくはなかった。
 は無言だ。
 けれど、それが何よりの証に思えて大喬は青褪めた。
 何をしたのだろうと考えるが、一向に思い当たらず、そのことが大喬を更に追い詰めた。
「だ、大喬殿」
 震える声が大喬を引き戻した。
 懸命に、精一杯な様では言葉を紡いでいるようだ。
 大喬の為にというならば、の消沈の理由は自分ではない、そう思えた。
 だが、ほっと安堵した大喬の耳に更なる衝撃の告白がもたらされる。
「私、伯符に、振られたから」
 途切れ途切れに、しかしそれだけにはっきりと聞こえた声は、大喬からすべての感覚を嵐の突風の如く奪い去った。
 の声だけが、すり抜けるように届く。
「だから」
「もう」
「私のこと」
「ほっといてくれて、いいよ」
 何を言っているのか、言葉が上滑りして大喬には理解できない。
 も理解できていないのではないか。
 蒼白の顔に、引き攣った笑みが浮いている。作り物めいたその顔は、大喬の知らないだった。
 言いたいことが多過ぎて、何も言えなくなる。
 沈黙が落ち、肌に痛い緊張感が座を支配した。
「……ども、あの、ありがとうございます」
 大喬は叫び声を上げたい衝動に駆られ、大きく口を開ける。
 けれど、その礼は大喬に対してではなく、ここまで連れ帰った周泰に対してのものだと知って声が出なくなった。
 周泰はを見つめ、はその視線を避け牀を見つめる。
 眠りたい、と無言で訴えていた。
 事態の異変に際し、危機感のない行動だと思えた。
 ただ、周泰にはそれがにとっての最善の方法であり、それ以外に何も出来ないだろうことも理解できるような気がした。
 逃れようもない混乱から逃げるには、それしかないのだろう。
 を牀に下ろすと、周泰は大喬の肩を押した。
 びく、と弾かれるように後退った大喬は、周泰とを代わる代わる見つめる。
 嫌だ、出て行きたくないと駄々をこねているようでもあった。
 周泰は、再び大喬の肩を押した。
 今度は弾きようもなくしっかりと、しかし強制しない程度の気遣いを篭めて押されている。
 駄目だと諭しているようだった。今はを一人にしてやれ、そんな風に言っているような気がした。
 大喬の目から涙が零れた。
 混乱し過ぎて、何の為の涙なのかもわからない。嗚咽は止まることなく、大喬は手で顔を覆ってしまった。
 大喬が泣きじゃくる声が遠くなり、やがて消えた。
 先に大喬に泣かれてしまったことで、どうも涙が引っ込んでしまったらしい。
 天邪鬼だな、と思った。
 頭の中が痺れたようになって、何も考えられない。次第に視界がぼやけ、音も消えていった。
 自分も消えそう。
 不可思議な感覚に、は笑みを零した。
 自嘲めいた、苦い笑みだった。

 大喬は、涙も隠さず屋敷の廊下を走っていた。
 孫策の姿を求めてだが、目当ての人物は意外にもあっさり見つかった。
 私室の牀に腰掛け、俯いている。
 非難の声は、しかしやはり上げられずに喉元に留まった。
 ぐったりとして覇気のない様に、大喬は呆然と立ち尽くす。
「……孫策様」
 孫策の体がぴくっと震え、ゆるゆると顔が上がる。その顔も酷いものだった。
「大喬、か」
 どうした、という言葉は孫策にこそ向けられるべきものだろう。
 大喬は恐る恐る孫策の元へと歩み寄り、その足元にひざまずいた。
「どう、なさったんです、孫策様……」
 大きな声を上げれば壊れてしまいそうで、大喬の声は囁くように潜められた。
 そんな大喬の労わりに、孫策は苦い笑みを向ける。
「昨日な」
 ぽそぽそと力なく話す孫策に、大喬は黙って頷いた。
「昨日一晩、外に出てみてよ。風邪引くかと思ったんだけど、これが全然、引かねぇんだよなぁ」
 何を馬鹿なことを、と詰るのは簡単だった。だから、大喬は何も言わずに頷いた。
「ちょっと外出たぐらいで風邪引いて熱出すって、どんなんなんだろうな。俺にはわかんねぇ、から」
 試したのだろうか。の気持ちを理解したくて、それでこんな愚行を犯したのだろうか。
「……権がよ」
 努めて作って見せる笑顔が痛々しかった。
「権が、のこと好きらしくてよ。俺も、何か遠慮してんのが嫌で、つい言っちまったんだよな」
 本気を出せ。
 それはいい。
 抱け、と。
 自分が居ない間に、を抱けと、言ってしまった。
 大喬の目が見開かれる。
 孫策は、ささやかな悪戯を見つかった子供のように小さく肩をすくめた。
「……そうだよなぁ」
 触れれば、もっと深く虜にしたくて堪らなくなるだろう。好きなのだから、何処までも愛おしくなって当たり前だと思う。
 それをそそのかしたのは、紛れもなく自分だ。
 出来はすまいと言う侮りがなかったとは言い切れない。あの時、を星彩に奪られるのが嫌で、そのまま離れなければならない憤りを孫権にぶつけてしまったのかもしれない。
 抱けと言ったのは自分だ。
 それを聞いたがどんな衝撃を受けたのか、孫策には知る由もない。
――お前、あいつに何言った。
 刺々しい、刃を含んだ甘寧の言葉が今も尚鼓膜に焼き付いている。
 の拒絶がそのまま孫策への恨み言だとしたら、己は何と言う馬鹿な真似を仕出かしただろう。再会の喜びに一人浮かれはしゃいで、当たり前のようにに触れようなどと考えていた。
 拒絶されて当たり前だ。
 大喬に置き換えて考えれば、こんな単純な話はない。大喬が好きだと言われて、ならば抱けと言えるだろうか。孫策が抱けと命じたと聞いて、大喬はどれ程傷付くだろうか。
 全然、大切になど出来ていない。
 口で言う程、頭で考える程、己はをまったく大事に出来ていないと気付かされた。
 気付かないのが阿呆だ。
 その通りだ。
 ならば。
 ならば、諦めるしか、それしか。
「……っ……」
 突然かすかな嗚咽を漏らす孫策に、大喬は魂が抜けて落ちてしまうかと思う程の衝撃を覚えた。
 孫策が、泣いている。
 初めて見る傷付き打ちのめされた姿に、大喬の目からも涙がぼろぼろと零れた。
 諦めようと思う瞬間、孫策の体の中に鋭い刃が忍び込む。
 血飛沫を上げるはずの傷口は何処にもない、けれど遥かに鋭い痛みを伴い、孫策の内部をずたずたに切り裂いていく。
 ざけんな、どの面下げて、俺は。
 どれだけ責めても何にもならない。諦めようと潔く覚悟する己を責めているのは、紛れもなくもう一人の自分なのだ。
 の気持ちを少しでも理解したかったのも、ひょっとしたら許してもらえるのではないかと言う甘えからだったのかもしれない。
 けれど、己の体は呆れる程に頑丈で、病がちなの心情など露程も量れない。
 病弱な身を、蜀という異国から呉という異国へ引きずり回したのは孫策だ。たった一人、こんなところで熱を出して苦しんだのならどんな心持ちにさせられるのだろう。
 考えるだにぞっとして、だのにそれでも尚諦められない馬鹿になる。
 震える孫策の体を抱いて、大喬もまた震えていた。
 孫策の弱さを見せてもらえることが嬉しかった。
 でも、こんな孫策を見たかった訳ではない。
 どうしたらいいのか考えても分からなくて、大喬は孫策をこれ以上傷つけないよう、声を潜めて泣くことしか出来なかった。

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