周泰の知らせを、孫権は信じられずにいた。
 本気を出せと煽られて、昨日の今日だ。孫策の突然の心変わりを信じろという方が難しい。
 けれど、周泰がこの手の嘘を吐く男でないことも重々承知していた。むしろ、周泰の口から色恋沙汰に関わる話を聞かされる方が驚きだ。
 に惚れていることは知っていたが、そのを孫権に、と勧めてくるような男である。主たる孫権にとって、未だ量りがたい資質があったことにすら戸惑いを覚える。
 忠臣の二文字に揺らぎもない、愚直なまでに孫権に尽くすこの男は、今が機だと孫権に進言していた。
 は傷付いている。奪うなら今だ。
 そこまで赤裸々ではないものの、周泰が言いたいだろうことに変わりはない。
 出来る訳がない。
 戦えと、開戦を告げたのは孫策の方だ。
 その言葉は、しかし孫策にどれだけ痛撃を与えたのか。
 申し訳なさに胸が詰まる。悔やんでも悔やみきれない。
 たかが女一人、何故切り捨てることが出来ない。
 が孫策よりも、国の和よりも大事な女とは思えない。思いたくない。
 拒絶すると、周泰は折っていた膝を上げ、拱手の礼を取った。
「……待て、周泰。何処へ行く」
 嫌な予感がして、思わず引き止める。
 周泰は、何でもないように孫権を振り返り、ただ一言『のところへ』と答えた。
 、と呼び捨てにしていたのは孫家を除けば極わずかな者のみだった。周泰は、常にを『あの女』と呼び示していた。
 名を呼び捨てることに大して意味があるとは思えない。
 しかし、周泰の舌がの名を綴ることは、捨て置き難い重大な意味が含まれているような気がして仕方なかった。
「許さん」
 獰猛な獣の唸り声にも似た声に、けれど周泰が怯むことはなかった。
 静かに頭を下げ、再び拱手の礼を取ると、周泰は孫権の室を去った。
 後に残された孫権は、忠臣が閉ざした室の扉を呆然として見送る他なかった。

 スイッチが入るように、綺麗に目が覚めた。
 ずっと眠って居られたら良かったのに。
 そんなことをぼんやりと考えていると、枕元に置かれた手を誰かが握っていることに気が付いた。
 酷く感覚が鈍い。
 ぎこちなくゆっくりと振り返ったの目に、予想した凌統や甘寧の姿ではなく周泰の姿が映った。
「…………」
 特に何の感慨もない。
 感情が死に掛けているような錯覚を覚える。
 少し滑らかな動きを取り戻し、は天井を見上げる。
 天蓋付きの牀だったから、見えるのはきつめに張られた布地のみだった。
 しばらく見上げていると、暗かった視界が徐々に回復してくる。
 真っ暗だと思った室には灯りが点され、室の片隅から煌々とした光を放っていた。
 何も聞こえないから黙っているのだと思った周泰が、口をぱくぱくと開閉させているのに気付く。注視していると、少しずつ声が聞こえてきた。
「……何か、食べるか……」
 周泰の脇には小さな円卓が置かれ、その上に膳が用意されていた。
 食欲はない、と思ったが、周泰が匙を差し出した途端、嗅覚が戻って腹の虫を唸らせた。
 口を小さく開けると、すかさず周泰が匙を運ぶ。
 冷めていたが、とろとろに煮込まれた粥だった。
 二口、三口と口に運んだ後は、の手に粥の入った深皿と匙を握りこませた。
 のろのろと口に運ぶ。
 機械のように一定のテンポで匙を上げ下げしている内に、皿の中の粥は消えた。
 空になった皿と匙が取り上げられ、今度はつんと鼻にくる匂いのする湯飲みを握らされる。
 これを飲むなら、嗅覚が戻るのがもう少し遅い方が良かった。
 知らぬ間に苦笑が漏れた。
 笑える。
 自分が笑みを浮かべられることに、はほんの少し驚かされていた。
 孫策の別れの言葉に、思った以上に衝撃を受け、それ以上にダメージを食らった。
 けれど、少し眠っただけで笑えるようになるまで回復するとは思わなかった。
 へぇー、と感心する。
 でも、良く考えたら孫策と付き合っていた訳ではないのだ。むしろ、いつかこんな日が来るんじゃないかと覚悟をしていたはずなのに、何を浸っているのだろう。
 馬鹿だなぁ。
 ははは、と乾いた笑いが漏れた。
 手の中の湯飲みが、ぴしゃんと跳ね上がる。
 小さな魚でも跳ね上がったかのように、湯飲みの表面に描かれた輪は広がって消えた。
 何だと思った。
 涙が、知らぬ間に流れていた。
 そのことにも驚いた。
 一瞬拭おうと手を上げかけて、勝手に流れているものなら流しておくのがいいかもしれないと思い直す。
 鼻を啜ると、危うく鼻水が垂れるところだった。
 服の袖で擦り上げるが、周泰は眉を顰めるでなくをじっと見つめている。
 ぐすぐすと鼻を啜るが、何だよと言わんばかりに周泰を見つめ返す。
 周泰の指が、の眦を撫でた。
 いいんだ、これは、流しておくんだから。
 反抗めいた苛立ちは、胸の奥に仕舞われた。
 温かで無骨な指の感触が、思った以上に心地良かったせいだろう。
 左、右、飽きることなく溢れる涙を拭っていく。
 涙も終いには根負けしたのか、いつの間にか止まっていた。
 周泰の指が離れていく。
 何だか気恥ずかしくなって、顔が赤くなった。
 誤魔化すように口に含んだ薬湯は、想像以上に苦くえげつない味がした。
 うぇ、と舌を出すの手から、湯飲みが奪われる。
 もう飲まなくていいのかと思ったら、周泰が薬湯を飲んでいた。
 何をしているかと目を丸くすると、周泰の指が伸びてきた。
 えええ、という驚きと、そういうことか、という納得が同時にの内に沸き起こった。
 周泰の唇を通して尚苦い薬湯に、しかし何故か不思議と我慢が出来た。
 飲み干しきれなかった薬湯が唇の端から伝い落ち、肌をぴりぴりと焼いた。
 本当に飲んで大丈夫なものかと不安になるが、周泰は未だに離れていく気配がない。
 薬湯の苦味を拭い去るように、の舌が蠢き周泰の唇を掠めた。
 の方から求めていた。
 重ねた唇の感触が心地良く、触れ合った肌の温もりが嬉しい。
 舌を絡めると周泰も応え、苦い口中を這いずり回る。
「……ん……」
 体の奥に灯が点ったような感覚があり、はもぞりと足を崩した。
 したい、と思って周泰の腕を引く。
 だが、そこまでだった。
 唇が離れると、周泰はの体を横たえ離れていった。
 空いた皿を盆に戻し、何処かへ運んでいく。
 ちっ。
 舌打ちしたい気分だったが、本当にはしなかった。
 孫策の舌打ちの音が耳に蘇って、擦れた気持ちを荒ませる。
 ごろりと寝返りを打つと、自分の腕を枕に不貞寝を決め込む。
 蜀に帰りたくなった。

 次に目が覚めると、本格的に朝だった。
 昼近いのかもしれない。
 寝癖も激しい状態で、牀の上にぼんやりと座り込む。
 変な夢を見た。
 危うく周泰を押し倒すところだった。周泰が冷静で、良かった。
 うむうむ、と頷いていると、室に誰かが入ってきた気配がある。
 小喬は、を見るなり頓狂な声を上げた。
「だっだだだ、大姐、大姐起きたの!?」
 起きましたよ。
 何故か声が出せなかったので、頷いて同意した。起き抜けで、どうも喉が張り付いてしまっているらしい。
 ところが、小喬はその頷きを確認するや否や、悲鳴を上げて出て行ってしまった。
 まるで幽霊扱いだ。
 何やねん、と突っ込みながら、牀を降りようとしてコケた。
 どうもとんでもなく寝惚けているのだと気付く。体が酷く重く、言うことをきかない。
 さっきは普通に起き上がれたんだけどな、とよいしょと勢いを付けて体を起こす。
 ともかく、水の一杯も飲まないと喉がひりついてしょうがない。
 ある訳ないがと牀の上から辺りを見回すと、枕元にいつもは置かれていない湯飲みと急須のようなものが見えた。
 ずるずるとだらしなく這って行くと、幸いなことに中身も入っている。
 零さないように気をつけながら、急須の中身をそっと湯飲みに移し変えた。
 さらさらとはしているが濃い琥珀色の液体に、少々嫌な予感を覚える。
 腐っちゃおるめぇ、と安易に決め込み、湯飲みをこくりと一口啜った。
 ぶーっ!
 えげつない味に、腐った茶の方が数倍マシだと咳き込んだ。液状正露丸にユンケル混ぜ込んだような味がする。匂いがなかっただけに、強烈なフェイントだ。
 何だ、コレ。
 げふげふむせて、牀の上に撒き散らしてしまった茶色い染みに困惑する。
 何か拭くもの、と辺りを見回し、また人の気配に気が付いた。
 今度は周泰だった。
 夢のこともあり、思わずそのまま固まったを他所に、周泰はの手から湯飲みを取り上げた。
 まるきり夢と同じ展開に、はあわあわとうろたえる。
 周泰は湯飲みの液体を幾許か口に含むと、と唇を合わせた。
 声にならない悲鳴を阻止するかのように、えげつない味の液体が容赦なく注ぎ込まれてくる。夢と違うのは、周泰の口を通してもちっとも我慢が出来ないし、吐き気すらこみ上げてきていることだ。
 口移しでリバースは幾らなんでもそらマズイ、と決死の覚悟で耐える。
 執拗に引っ掛かりながらも液体が喉元を通り過ぎ、それを確認した周泰がようようの体を離す。
 猛烈にこみ上げる熱い衝動を、は埃臭い上掛けを口に押さえつけて耐え忍んだ。
 数瞬の戦いの後、辛うじてリバースを免れたはぐったりと牀に倒れ伏す。
 酷ぇ目に遭った。
 正直な感想は、それしかなかった。
 ばたばたと足音が近付いてきて、今度は複数の人間がやって来たと知れた。
「大姐、大姐……!!」
 駆け込んできた小喬は、周泰の長躯を認めて驚いたように口を噤む。
 見慣れない白衣の男達は、見慣れないはずなのに妙にの癇に障った。
 誰だ、と眉を顰めれば、無礼にもの体をべたべたと触ってくる。
「ちょっ……」
 腹立たしさに釣られてか、あれ程出ずにいた声が出た。
 先程の液体のお陰とは、思っても思いたくない。
 が気を取られている隙に、男達は好き勝手にの脈を測りだす。瞼をこじ開けられ、口を開けろと命じられた時点でようやく医者だと気が付いた。
 診察が済むと、医者達は小喬に向かって一斉に頷いた。
 解き放たれた犬ころのように、小喬はに飛びついてきた。
「わぁん、大姐、良かったぁっ!!」
 何なんだと、腕の中で泣き喚く小喬を見下ろす。
 医師の一人と目が合って、が首を傾げると、医師も困ったように眉尻を下げた。
「……貴女は、この四日、いえ今朝を含めれば五日、ずっと眠っていたのですぞ」
 初耳だ。
 と言うか、人がそんなに寝ていられるものだとは思わなかった。
 ぼーっとしているに、医師達が何かないのかと詰問するような目を向けてくる。
 散々悩んだが、別に何もない。頭はボケているが、体の感覚も徐々に戻ってきていたし、視界も正常だ。体の節々がちょっと痛いような気もしたが、寝相を悪くした朝のそれと変わらなかった。
「……へー」
 とりあえず感心して見せたが、医師達の反応は悪い。
 そんなこと言われてもなぁ、パンダとしたらどうしたらいいのやら。
「水、飲みたいです」
 どうしていいか分からないので、欲しいものを言ってみた。

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