の異変に最初に気が付いたのは、周泰だったそうだ。
護衛兵の横をすり抜けての室に入って行ったかと思えば、すぐに出てきて早急に医師を呼べと申し付けたらしい。
蜀であれば、寝汚いが起きないといってすぐに大騒ぎする者は居なかっただろう。
周泰が何を以って異常だと判断したかは定かではないが、その申し付けによって呼び出された医師も、を診察してすぐ異常に気が付いた。
起きない。
ただそれだけではあったが、これは異常だろう。眠ったまま、揺さ振ろうが叩こうが意識を取り戻さないのだから。
医師の中には、これは医工の範疇に在らず、憑き物落としの範疇なりと嘯く者も居たが、周瑜が止めさせた。
迷信嫌いの孫策を慮ったこともあるが、は別の『奇病』の持ち主でもあったからだ。
止むを得ず夢遊病なる病の症状を医師達に話して聞かせたところ、一時はそれ見たことかと大騒ぎになったが、蜀の医師が『病』と診断を下していると聞いて一斉に口を閉ざした。
他国の医師が『病』と言うものを、呉の医師が『憑き物』として軽々しく放り出せば、それは即ち呉の医の術が他国より劣っていると認めるようなものだった。
名誉に掛けて起こしてみせると賑わう医師団を、孫堅からの鶴の一声が沈静した。
「夜、眠りながら起きる病があるならば、昼、起きながら眠る病もあるのだろうよ。いいから、しばらく放っておけ」
そのままであればの体を試し物扱いしかねない勢いだったから、周瑜もほっとしたものだ。
孫策は、のことを知る前に城を発っていた。大喬の故郷に挨拶に行くという。
小喬は連れて行かないと言うし、様子がおかしいことは一目瞭然だったが、周瑜は止め立てしなかった。
そうすると言うならば、そうした方が良い。
恐らく何かあったのだろうが、友であっても、と言うより友だからこそ踏み入れない領域を感じた。
大喬が付き添うというから、安心して任せることにした。
孫策があれ程打ちのめされるのであれば、原因はに他なるまい。
正直言えば、斬り捨てるのも辞さない覚悟でいた。
の異常を報告された時、無意識に古錠刀真打の柄の握り具合を試している己に気が付いて冷や汗をかいたものだ。
何があったか知る由はないが、もまた打ちのめされていることを知った。
どうしたらそこまで手負いになれるのか、周瑜には理解できない。
互いに好きあっているのなら、互いに優しく労われないものか。
の向こう見ずは、孫策の無鉄砲と相通じるものがある。
似た者同士だから傷付けあうのだと言うのなら、周瑜は小喬とは真逆を行く夫婦でありたいと切に願った。
付き添う家人を取り決めて次の日、その家人から報告を受ける。
周将軍が、の室にやって来た。夜は自分が見るから良いと、追い出されたと言う。
周、と言っても勿論周瑜ではない。
あの周泰が、何故そんな真似をといぶかしくなる。
何気なく孫権に尋ねれば、酷く落ち着かぬ様子で惚けてみせた。
執務外のことまではいざ知らず……言われてしまえばそれまでだが、周泰は一軍率いる今も尚、孫権の守兵と言って過言はない。常日頃から周泰周泰と、それは頼りにしているのを周瑜も見知り置いていた。
そう言えば、そも事の起こりも周泰が絡んでいる。
何かあったかと探りを入れるが、孫権は頑として吐かなかった。
そうして三日四日と、姉と離れて暮らすこともなかった小喬が気弱になるのを支えつつ過ごしてきた。さすがに何か手を打つべきかと思い悩んだ明くる五日、がひょいと目を覚ました。
人騒がせだと詰ってやろうかと、周瑜はかなり長い間悩んだものだ。
それはさておき、事情を聞きだそうと繰り出した周瑜は、からあっけらかんと語って聞かされ、また眉間に皺を寄せることになる。
「逃避したんでしょう」
とうひ、と頭で音を繰り返したが、目の前のの様子とどうしても重ならない。
寝付いた影響で、思った以上に筋が弱ってしまっていると言う。は今だ牀に就いてはいたが、その表情は明るく健やかだった。
「精神の……心の、保全機構と言うのがありましてね。要するに、心を守る為にスイッチがぱたっと切れちゃったと。あ、スイッチじゃ分からないか」
えぇと、と思い悩むは、思ったよりもかなり元気そうだ。
孫策から別れを切り出されたと聞いた時は、周瑜の方が愕然とさせられた。
まさか、と呟いた周瑜に、はただ寂しそうに微笑んだ。それで、本当のことだと実感できたのだ。
よもやからかっているとも思えないし、もしそうならば斬って捨てても構うまい。
「ともかく、嫌なことから逃げたくて、夢の中に逃げ込んじゃったと、そういうことですねー」
うえへへ、とけったいな笑い声を上げるに、周瑜は眉の根を寄せた。
「……何か、心当たりはないのか」
周瑜と話していた時は、孫策は隠そうともせずのろけてみせて、と会うのを心から楽しみにしていた。
それを自ら切り捨ててしまうなど、周瑜には到底信じられない。
も、嫌々ながらも考えているようだが、すぐに首を傾げた。
周瑜の話と総合するに、自身と言うよりはが眠っている間に何事か遭ったと見る方が良さそうだ。ならば、に心当たりを語れという方が無理だろう。
居合わせた甘寧が、突然口を開く。
「なら、あれじゃねーか。俺がガツンと言ってやったのが、相当堪えたとか」
何を、と声を揃える周瑜とに、甘寧は首をすくめた。
「……こいつが、着飾っても無駄だとか言われて凹んでやがったから、言ってやったんスよ。仮にも女に、何てこと言いやがるってな具合で」
無駄だとまでは言われた覚えはないが、そうだとしてもそれで孫策がを見限るものだろうか。
孫策は、『もう、やめる』としか言わなかった。
を見限る理由について、一言の弁明も釈明もしなかったのだ。
理由を知ったとして何になる、とは思う。孫策から見限られる理由は、それこそぱっと思いつくだけで両手の指が埋まる。
まず第一に思い浮かぶ理由として、孫権の顔がちらついた。
言ってしまったのかもしれない。
生真面目な性質の男だから、兄に隠し事を仕切れずに真相を吐露してしまったのかもしれない。
それを責める権利はにないと思っている。すべて本当のことだ。
たぶんそうだと証すかのように、今日も周泰がやって来た。
「お」
その周泰が手に椿の枝を握っていることに目敏く気付いた甘寧は、冷やかすかのように小さな声を上げる。
だが、周泰はお構いなしにの牀の天蓋を支える柱に、その椿の枝を差し込んだ。
赤い花びらと、芯の黄金が色鮮やかに枕元を飾る。
周泰は無言のまま、周瑜にのみ拱手の礼を取って立ち去った。
甘寧は元より、室の主たるにすら見向きもしない。
どういう態度だと甘寧は怒るが、周瑜は孫権との間で立ち往生しているのだろう周泰に同情を禁じ得ない。
あの寡黙な男は、敢えて寡黙を守ることで孫権への義理立てを果たしているのだろう。
斬ってしまうべきか。
殺気を練る間もなく、周瑜の右手は腰元の古錠刀真打に伸びる。
が悪いのではないことは分かっている。
だが、この女の周りにはあまりにも嵐が多過ぎる。
仲の良い親子や兄弟、主と忠実な臣の仲をも易々と裂くのはの手管によるものではなく、存在そのものによるものだ。
だからこそ、何ともしようがない。斬るより他に方法が思い浮かばなかった。
けれど、右手を置いた古錠刀真打がその美しい刀身を晒すことはない。
笑みを浮かべたの目が、暗く沈んでいるのを垣間見る。
傷付き萎れる女を斬るのは、周瑜の沽券に関わった。
孫策が、痛手を癒して戻ってきた暁に。
改めてこの女の処遇を考えよう、と周瑜は己を思い留めた。
夜になり、は牀から降りた。
一日中見張りが付いているような状態で、牀から離れられずに居る。
動かない方が筋力の回復に差し障ろう。夜になるとさすがに医師も家人も退室するので、それを見計らってリハビリに励んでいる。
幸い、眠り込んだ日にちが短かったせいで、それ程辛い思いはしなくて済んでいた。
心の力が体をどうにかしてしまう程、孫策に気持ちが傾いていたことが驚きだ。選んでも居なかったくせに、想定内の別れだったはずなのに、の涙腺は今も容易く緩んでしまう。
想いを数値で割り切れるとは思わない。
けれど、どれだけ好きだったかをこうも思い知らされると、恋というものが少し恐ろしく感じられた。
好き、だったんだなぁ。
改めて思う。
体の繋がりだけではなく、はっきり好きだと言い切れる。
それは、過去完了系ではなく現在進行形の強調を伴った感情だ。
好き。
胸の内で呟くと、唇が震える。手の内にない温もりに、寂しさと腹立たしさを覚えてやるせない。
孫策を選んだ訳ではない。孫策に別れを告げられたから孫策への想いが鮮明になっただけで、例えば趙雲、馬超に別れを告げられて、同じように思わないとは思えない。
それぞれに好き、という都合のいい感情が許されるはずはないと思う。
室の扉を開けると、月明かりに伸びる淡い影が長く伸びる。
影の長さと変わりない長躯が、夜更けに室を抜け出ようとしているを厳しく睨め付けた。
別にそんなつもりはない。
は、周泰と話がしたくて出てきただけだ。
「どうして、私がおかしいって思ったんです?」
ただ寝ていただけだったらしい。
普通であれば、昼寝をしているのだで済ませるだろう。まして周泰は、を孫策と別れた直後を見つけている。衝撃受けてむせび泣いているならともかく、ぐうぐう寝こけるに幻滅してそのまま立ち去ってもおかしくなかったはずだ。
口の重い男だが、どうしてか話がしたかった。
「……そういう……死に方を……見たことが、ある……」
傍目には眠ったまま死んでしまう死に方。
言われて、はふと思い当たった。
「いびき、かいてました?」
自分を指差すも、周泰はただ首を横に振る。
そうしてしばらく考え込み、わずかに頬を染めた。
いびきをかいて寝ていて、起こしても起きないのであれば脳卒中の疑いがある。周泰が見たのは恐らくそれではないだろうか。
早合点したことに気付き羞恥したのだろうが、頬を紅潮させた周泰の表情は、意外にも幼く可愛らしく見えた。
「……孫権様のご命令で?」
昼は昼で執務に就いているのだろうに、暇を見ては足繁く通い、夜はの室で警護に就く周泰に問うてみる。
問うておいて何だが、恐らく違うだろうと思った。
周泰も、違うと首を振った。
「じゃあ」
何故、と問うのも本当は不必要なことだと思った。
「……お前を守る……」
予想通りの答えに、形容し難いむずがゆさを感じる。
何を言っても無駄だろうし、何を言われても理解できないに違いない。
思い出の中でのみ生きる人と重ねられて、それを甘受せよと言われてもにとっては無理な相談だ。
「孫権様の為にも、ですか」
嫌味を篭めて言った言葉に、しかし周泰は首を振った。
「……お前の為だ……」
これは予想外で、は気圧されて口を噤む。
毎度毎度、孫権のことをいの一番に考える男が何を言うかと反発もあった。
しかし、あの周泰が、真意をここまで露に言い切るのかという衝撃もあった。
卑怯な。
むぅ、と唇が尖る。
元々、好きな『キャラ』だったのだ。妄想を裏切らない男っぷりの良さに、腐女子としてときめかない方がおかしい。気がする。
うろたえてなるものかと抵抗するも、心臓が激しく鼓動を刻む。
限界を超え、ぼん、と顔が赤くなってしまった。
そう言えば、周泰はに『二股三股四股掛けまくれ』と許可を出した人物でもあった。今のの複雑な気持ちを、是としてくれる唯一の人物なのだ。
味方ばっかり探してる。
自分の弱さに泣けてくる。お前は正しい、間違っていないと言われなければ耐えられないのか。
赤面して黙り込んだの前に、周泰が立っていた。
「……薬を……」
う、と詰まる。
あのクソまずい薬湯を、夕食後に飲めと言われて未だに飲んでいない。
そのことをどうして周泰が知っているのか分からないが、鎌を掛けられたにしてももう遅い。飲んでませんとはっきり顔に出してしまった。
周泰の手が背を押してきて、を室へと促す。
死刑台に送られる気分だ。
何故か周泰も一緒について来て、まさかと汗が出る。
「じ、自分で」
「……飲めるのか……」
台詞の後半を先取りされて、は押し黙った。
「……の、飲み、ます」
声を振り絞るようにして答えたを、周泰が探るように見つめる。
無言での背を押し、周泰は『後ろ手』で室の扉を閉めた。