室に入ってきた周泰は、薬湯の湯飲みをに手渡すと牀の端に腰掛けた。
 が湯飲みに口を付けるのを待つかのように、じっと見ている。
 てっきり口移しで飲まされるものだと思い込んでいたは、肩透かしを食らってどこかがっかりしている自分に気が付いた。
 急ぎ飲み干してしまおうと思うものの、舌に触れた途端びりびりと痺れる程苦い味に眉を寄せる。
 周泰の肩がゆらりと揺れるのを見て、焦って湯飲みを口元に戻すが、なかなか飲むのに勇気が要る飲み物だった。
 一時期のメッコールやMAXコーヒーだってこんな酷い味ではなかった。
 不平不満を胸の内に吐き出しながら、ちびりちびりと啜っていく。
 少量と言うにも少量過ぎる量しか飲み込めないので、薬湯の嵩はなかなか減っていかない。
 それでも、がおとなしく薬湯を啜っていることが満足なのか、周泰は何も言わなかった。
 時間が経つにつれ、は段々と落ち着かなくなってきた。先日見た『夢』は本当に夢だったのだろうかと、ずっと気懸かりだったのだ。
 起き上がった時、体が酷く言うことを利かなかった。四五日ばかり眠っていて、寝返り以外はまったく動かなかったせいだろうと想像がつく。
 ところが、夢の中では一人で起き上がり粥を食べていたのだから、どうにも矛盾だ。夢ならば矛盾していてもおかしくはないが、夢と言うにはあまりにリアルだった。
 視覚、聴覚、嗅覚が深い眠りから回復していく様や、流す涙が頬を伝う感触、触れられた指のざらつきまで覚えている。
 重なった唇のしっとりとした柔らかさ、舌の味蕾の微かな凹凸に至るまで、記憶は鮮明だった。
 それは確かに、周泰と何もなかったとは言わないし、それらの遣り取りが夢の中で再現されたのだと言えば言えなくもない。
 けれど、夢の中で求めていたのはの方だった。
 したいと望んで周泰を誘いかけたのも、しっかり覚えている。
 思い出すたびに恥ずかしくなって、布団の中で夜毎ぎゃうあー、と小さく唸り声を上げていた。
 確かめてどうにかなるわけでもないが、もしも夢なら、少なくともは一安心できる。したいからという理由で、傍に居た男を誘いかけたという痛恨の過去をなかったことに出来るのだ。
 大したことはないかもしれない、が、非常に魅惑的な自己の正当化だった。
「……どうした……」
 周泰を前に考え事にふけっていたせいで、の動きは止まってしまっていた。
 じり、と周泰が動き出す気配に、は慌てて場を取り繕う。
「あ、の、周泰殿の知っているひとって、どんなひとだったんですか」
 口から飛び出したのはそんな質問だった。
 かつて周泰が『守れなかった』と悔恨したひとの話を忘れていない。当帰から聞き及んだ話も含め、には興味深いひとだった。
 周泰は虚空の闇を見つめ、ぽつりぽつりと話し始めた。

 そのひとと出会ったのは周泰がまだほんの五つか六つぐらいの頃、物心ついた時には親もなく、元々良家とは言い難い寒門の出であったから親類縁者の後ろ盾も薄く、毎日腹を空かせて彷徨う日々を送っていた。
 ある日、たわわに実った柿の木が塀越しにはみ出しているのが目に留まった。
 他所の家の柿とは言え、塀からはみ出しているからには盗っても構うまい。
 子供の屁理屈と空腹が、幼い周泰から善悪の区別を奪っていた。
 小石を拾い上げて投げるが、なかなか上手くはいかない。当たっても、角度が悪いのか柿は揺れるだけで落ちては来なかった。
 腹が空いているのに無駄な動きで体力を消耗するばかりで、しかしなまじ目を付けた柿を諦めるのは忍びなかった。
 柿を落とすのに熱中していた周泰は、背後に人が近付いていたのにも気が付かなかった。
 あっという間に取り押さえられ、塀の中へと連れて行かれる。
 外からは知る由もなかったが、そこは娼館だった。しどけない姿の女達や、下働き兼の護衛と思しき男達が集まっていた。
 庭先に引きずり出され、どんな罰を受けるのか知れない。
 青褪めながらも泣き喚くこともない周泰の額に、こつ、と軽い痛みが走った。
 あはは、と軽薄な女の笑い声がして、顔を上げると茘枝の籠を抱えた女が立っていた。周りに居た他の人間も、どっと一斉に笑い出す。
 茘枝の籠を抱えた女は、にこにこ笑いながら周泰の手を引き奥に向かう。
 訳も分からず囃し立てられ、周泰はうろたえて尻込みしたが、女は手を離さずぐいぐいと強引に手を引いた。
 鼻につく甘い匂いのする室に引っ張り込まれると、女は籠ごと茘枝を周泰に手渡した。
 お食べ。
 押し付けがましくはないが、拒絶を許さない物言いだった。
 茘枝を一つ手に取ると、皮が弾けて白い果肉と瑞々しい香りが立つ。
 夢中になって漁っている間に、スープや色良く焼かれた肉が運び込まれ、周泰は満腹になるまでそれらを貪り食った。
 満ち足りた周泰は、茘枝を投げたのは擲果という求婚行為なのだと教えられる。
 五才やそこらの子供相手に求婚したと言って、皆は面白がっていたのだった。
 周泰も、幼心に恥じ入って頬を染める。
 しかし、そのひとは気にするでもなく、気のない顔付きで『あんたは私の旦那様になったのだから、お腹が空いたらいつでもおいでね』と言うのみだった。
 擲果の子供ということで、周泰の出入りはすぐに周知のこととなり、そして黙認された。
 そのひとが頓狂な行動をすることはこれが初めてではないらしく、だから周りもそれ程騒ぎ立てはしなかったらしい。
 周泰も、子供にしては騒ぎもせず、毎日やってくる訳でもなかったから目くじらも立てにくかったのだろう。
 静かにやって来て、いつの間にか帰っている。来るのは決まって昼過ぎで、『商売』に差障りがある訳でもなかったから、主人も妓女のお遊びと口出ししてくることもなかった。
 周泰は、腹を満たすとそのひとと色々な話をするようになった。
 そのひとの一人言を周泰が聞いているようなものではあったが、そのひとの物の考え方は周泰の知り及ぶものとはずいぶん掛け離れていた。
 変わった女だと皆が言うのにも納得したが、それだけではないようにも思える。
 何せ、子供の周泰にもきちんと向き合って話をする大人と言うのは、そのひとが初めてだった。言葉遣いはぞんざいな年上のそれだったけれど、周泰の問い掛けには一つ一つ丁寧に応じてくれた。
 擲果を知らなかったということで、そのひとは大人の持つその手の知識も呆れるくらい丁寧に教えてくれた。子供だからと隠し事はせず、だから周泰もそのひとに心を開いていくようになった。
 どうして娼婦をやっているのか訊いたことがある。
 借財らしい借財はないと、同じ娼婦から聞いていた。無理に娼婦を続ける理由はなかったのだ。
 周泰の問い掛けに、そのひとはほんのりと笑った。
 口付けられたのは次の瞬間だ。子供相手に舌まで突き入れてきた。
 周泰は、最初何をされたのか分からず、しかし方寸を揺るがす背徳の恐怖に跳び退った。
 そのひとは、あはは、と笑うと周泰に座るように促した。
 渋々と腰を下ろすと、そのひとは周泰のすぐ隣に移ってきた。
 口付けは嫌いかと問われ、分からないと答えた。したことがなかったから、仕方がない。
 そのひとは、口付けをするのはお前が好きだと言う気持ち、口付けを受け止めるのは私もだよと応える気持ちと歌うように話し出した。
 男のアレが硬くなるのもそれと同じ、女のアレが濡れるのも同じなのよと続く。
 周泰はよくわからないままに頷いた。
 そのひとは、みんな好きだから娼婦で居るのと締め括った。皆好きだから皆受け止めたいのだと、だから娼婦で居るのだと、その方が面倒もないし皆も困らないで硬くできるのだと言ってのけた。
 子供相手に何とも露骨な主張だが、周泰は粗方分からなかったことも幸いして、ただうんうんと頷くことが出来た。
 分かっていないだろうことも分かっただろうに、そのひとは嬉しそうに笑って、周泰が大きくなって、もし私を好きだったら硬くしてね、とさらりと言った。
 口付けと同じように受け止めてくれるのだろうかと思いながら、周泰もこくりと頷いた。
 もう一度口付けられたけれど、今度は心構えが出来ていたからちゃんと受け止めた。
 けれど、口付けしたのはそれきりだった。
 周泰は、子供ながらに野山に踏み入り、薪を売ったりして小銭を得ることや、花や果実を得て娼館に己の食い扶持の足しにしてもらうことを覚えた。意外なことに、こうした場所の女達は季節の折り目の行事に細かい。外に出ることは適わないから、周泰が手ずから摘んでくる花は喜ばれた。
 そのひともそういう口だったらしく、周泰にとっては何でもない草花をいつも喜んで受け取ってくれる。喜んでくれるのが嬉しくて、周泰は懸命に働いた。
 私の子になる?
 ある日、市場で遅くなってしまって夕方近くの訪問となり、でも土産を届けるだけだからと顔を出した周泰は、唐突にそんなことを言われた。
 意味が分からず無表情を貫く周泰に、そのひとはぼんやりと笑う。
 一人きりで、良くなっちまったの。だから、娼婦を辞めることにしたの。
 やはり意味が分からなかった。
 皆好き、皆受け止めたいと言ったのは、そのひとの方だ。
 いつか周泰が大きくなったらとの約束を、周泰はきちんと覚えていた。
 周泰は、未だ大きくなっていなかった。ならば、約束は反故されたことになる。
 ぼんやりと傷付いた。
 客が来たことが知らされると、そのひとは周泰のことなど忘れてしまったように突然駆け出した。
 周泰が見たこともない、艶やかで綺麗な顔をしていた。
 引き戸を引いて現れた立派な装束の男に飛びつくと、自分から口付けていく。
 男も応じていたが、周泰の姿を見出すとやや慌ててそのひとから離れた。
 険のある顔をしていただろう周泰に、男は膝を付いて目を合わせてきた。
――お前が、そうか。話は聞いている。
 その後の言葉は、不思議と覚えがない。
 ただ、男の後ろに立つあのひとの白い指が、緩く組まれて曲がっていたのが焼きついている。
 周泰は、それきり娼館を訪れることはなかった。
 日々の糧を稼ぐのに精一杯になった。
 働いても働いても満足に食べられる日はほとんどなく、それでも娼館には行かなかった。
 ある日、いつも通り市場で小銭を稼いでいると、人ごみの向こうからわっと騒ぎが沸き起こった。何事かと思っても、子供の背丈しかない周泰の視界は、大人達の体で塞がれている。
 麻の薄い黄色で覆われていた視界が、不意にぱかっと開いた……切り開かれた。
 銀の閃光。
 真っ赤に染まる空。
 瞬時に切り替わる鮮やかな色に惑わされて、周泰は己の身に何が起こったか分からなかった。
――姐さん。
 その声に釣られ、周泰は顔を声のした方に向けた。
 まるで、故意に道を作ったように切り開かれた人ごみの向こうに、あのひとは横たわっていた。
 真っ赤な布の上で寝かされている。そんな風に見えた。
 上を向いていたあのひとが、ふっと周泰の方に顔を向ける。
 目が合った。
――あ。
 笑った。嬉しそうな、あの擲果の時の笑みと同じ笑みだった。
 呼ばれている、とあのひとの元に進もうとした瞬間、辺りは嵐のような怒号に包まれ、周泰の前にあった道は土砂が雪崩れ落ちるようにあっという間に塞がれてしまった。
 怪我をしている子が居る、と手を引っ張られ、見知らぬ大人達に囲まれた周泰は波に攫われるようにその場から連れ去られた。
 あのひとが亡くなったのだと知らされたのは、周泰が傷も癒えぬまま、謙遜しても荒ら屋としか言えない家で寝ていた時だった。
 知らせてきたのは、あの立派な装束の男だった。怪我をした子供が居ると聞き及び、自ら見舞いに参じたところで相手が周泰だと知ったということだった。
――お前に大層会いたがっていたのだが、こんなことになってしまった。
 こんなことと言うのがどういうことか、正直周泰には分かりかねた。
 周泰にとって、あのひとを攫っていったのはこの男だったからだ。
 男は凌家に仕える武人だそうで、周泰を養子に迎えたいと申し出た。あのひとの遺志だそうだ。
 周泰は、男が残していった金を懐に、その夜の内に故郷を捨て逐電した。

 周泰の長い話が終わると、は深々と溜息を吐いた。
 人の縁というのは不思議なものだ。
 もし、周泰が養子の話を受け入れていたら、ひょっとしたら周泰は水賊に身をやつすこともなく、凌統の傍らに生え抜きの武将として立っていたかもしれない。
 その男というのが宿屋の主で、守れなかった『あのひと』の死に立ち会ったのが当帰だということもここで初めて聞かされた。
 よもや二人ともが周泰の思い出のひとの死を経ているとは思わなかった。
 二人は、周泰の素性を知らずに居るという。これだけ月日が経っているのだから、見た目で分からなくなって当たり前だろうと思うが、黙っている周泰にも何がしかの思惟を感じ、は複雑な気持ちになった。
 どうして言わないのか。
 問うてみたい気もしたが、これもまた、知ってどうなる類のものではない。好奇心で問い詰めて、良いことなど一つもなかろう。
 持て余し気味にちびりと薬湯を啜ると、唐突に扉が叩かれた。
 物凄い強さで、しかし一度きり叩かれたその音は、ですら背筋を寒くするような冷たい殺気を孕んでいた。
 外に誰か、しかも相当の手練が居る。
 周泰は暁を手に立ち上がった。
 好意的に受け止めて、ノックしたとも取れなくはないがそれにしても乱暴だ。
 も湯飲みを置き、万が一に備えて柱の影に身を潜める。のこのこ付いていっては周泰の足手まといになろう。
 周泰が誰何の遣り取りをして、ちらりとを振り返る。
 顔だけ覗かせたは、周泰が何事か話し込んでいるのを見守った。
 気のせいか、周泰も徐々にヒートアップしている気がする。
 嫌な予感を覚え、は思わず大声を上げた。
「ど、どなたですか」
 周泰が答えようと振り返った時、同時に外から応えがあった。
「太史子義、罷り越した」
 まさか太史慈が相手だったとは思わず、は思わず扉に駆け寄る。
 何故か周泰がを抱き留め、奥へ戻るように促した。
 訳が分からない。
 相手は太史慈だ。何の不安があると言うのか。
 緩い周泰の手を振り払い、は扉を開けた。
 鳥肌が立った。
 目の前に立つ太史慈は、いつもの赤い鎧を身に纏っている。にも関わらず、の目には太史慈は黒く塗り潰されたように映った。
 強張った顔で太史慈を見上げるを、太史慈の暗い黒目が見下ろしていた。

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