太史慈の顔をした太史慈でないモノが居る。
直感的にそう感じた。
常に穏やかな風貌は変わりない。
口元に浮いた微笑みも常のものと同じ形を象っていた。
けれど、これは太史慈ではなかった。
何が違う。
目か。
瞬時に察しが付く程、太史慈の優しげな眼は黒く深く虚無に塗り潰されていた。
普段おとなしい人が怒るとそれ以上怖いものはない等と言うが、この時の太史慈は笑い話に並べられるような存在ではなかった。
太史慈の腕が、ゆっくりゆっくり伸びてくる。
遅過ぎるその動きに、は自分の感覚がおかしくなっていることに気が付いた。
これは、あの時と似ている。
――何も見えない真っ暗な世界能面のような強張った無表情その手に銀色に光る刃をきらめかせ
名も知らぬ彼女を夢に見る、あの時と良く似ていた。
伸びてきた手に肩を捕らえられ、は必要以上に驚愕した。
力が入っている訳ではない。痛みなどあろうはずもないが、しかし太史慈の手は灼熱のように熱く感じられ、袖越しに本当に皮膚が焼け爛れたような錯覚を覚えた。
「殿」
静かな声は、抑揚がない。
「人払いを」
命令だった。
弾かれるように周泰を振り返ると、周泰は太史慈の手を剥ぎ取るようにしてを引き寄せ、己が背後に庇う。
びしっ、と鳴り響く鋭い音は、布地に掛かった爪が立てた音、だけではないように思えた。
背後に庇われ、しかし何故か目が離せずに周泰越しに太史慈を伺う。
非礼と言っていい対応に、しかし太史慈が怒りだす気配はない。
それだけに恐ろしかった。
「周泰殿」
静かな声は、深淵に響くような深みを伴っていた。
「貴公には、与り知らぬことだ」
退け。
その傲慢は太史慈に相応しからぬものだった。
こんな物言いを自分がさせているとすれば……と言うより、させているとしか思えないのだが……そう思うと、胸がきしむように痛んだ。
怖い。けれど、このままでは埒が明かない。
が意を決して前に出ようとすると、今度は周泰がの行く手を阻んだ。
伸ばされた手は、のそれよりずっと大きい。
太史慈の手が拳を握るのが見えた。
薄い皮膚が爪を噛んだか、みちぃ、と耳障りな音を立てた。
はただ居場所がなくてうろたえる。自分の室のはずなのに、見も知らぬ土地に無理矢理連れてこられたような不安が押し寄せてくる。
空気が凝って重い。
周泰の顔は見えなかったが、太史慈の風貌が見る見る内に変化した。怒りの表情だ。
ぞっとするその表情にそそけだつ。
闘志、殺気、いずれも生温い。一番相応しいのは、憎悪と言う言葉だろうと思う。
太史慈の話を聞こうという気が消え失せる。怖くて、ただ逃げだしたかった。
の胸の内を読んだのか、太史慈の視線が周泰からに移る。
「ぅ」
噛み締めた歯から小さな声が漏れた。
太史慈の表情に、水面に石が投じられるかのような戸惑いが浮かんだ。
「……話、を聞いてもらいたい……それだけだ……どうか、そのように怯えんでもらいたい」
怯えているだろうか。
否、怯えない方がおかしい。それぐらい、今の太史慈は恐ろしかった。
張っていた気が緩んだせいか、目の際が熱い。
泣き出しそうだと知って、は慌てて目元を拭った。
「……周泰殿」
黒い怒気を緩めた太史慈は、苦渋を飲み込んだような顔で周泰を促した。
が、周泰は引く気配すらない。
顔を半分程出したを、再び隠すように前に立ってしまう。
太史慈の顔が見えなくなって、けれどまた溢れ出した殺気に気付いては周泰の背を叩く。
話を聞くから、と訴えているつもりだったが、周泰はを無視して振り返りもしない。
「……話であれば……この場で如何様にも……」
あくまで己はここに残ると主張する周泰に、太史慈は虎撲殴狼改を音もなく両手に持ち替えた。
周泰も、すっと流れるような仕草で腰を落とす。その手には、暁が握られていた。
沸き起こる風が冷たく、触れるだけで肌がすっぱり切れてしまいそうだ。
孫策と馬超が戦っているのを見たことがあるが、今目の前で繰り広げられているこれとはまったく異質なものだった。
目を奪われることはない。書きたいとも思えない。
全否定、全拒否、受け入れることなど出来ようはずもない、禍々しさに満ちていた。
「や、……やだっ……」
小さな声に、武人二人は微塵も気を緩めることはない。
「やだ、やだ、やだやだやだやだぁーっ!!」
子供のようにヒステリックに泣き喚く声に、やっと何事かと目を向ける。
立ち尽くし、目元に拳を押し付けてわんわんと泣く様は、『子供のよう』ではなく『そのもの』だった。
しばらく泣き喚き続けたのせいで、二人の殺気は跡形も無く消し飛んでしまった。
かと言って何をどうしようもなく、ただ憮然として立ち尽くすより他ない。
二人とも、がいる以上一歩たりとて引くつもりがなく、相手が残っている以上を任せて立ち去ろうとも思えずにいる。
は、泣き疲れぐすぐすと鼻を啜るまでになって、ようやく顔の前から手を除けた。
目元も眼も、涙の塩気で焼かれて真っ赤になってしまっていた。
「話」
ぼそりと呟いたに、何のことかと視線が集う。
「……話、あるんでしょう。聞きますから、座って話しましょう」
てくてくと、室の奥に進む。
「しかし」
太史慈は周泰を横目で見遣る。
周泰が口を開く前に、がいきなりキレた。
「じゃあどうしろって!!」
「……」
泣いた後でくちゃくちゃになった顔で、更に眉と目尻を吊り上げて怒っている。
美人という単語とは掛け離れた様相に、太史慈は口を噤んだ。
は、また涙が溢れてきたのか目元を乱暴に拭っている。しゃっくりを併発して、胸に手を当てて押さえているのがまた子供っぽい。
「……っ……しゅ、たいど、の」
す、と指が伸びる。外に向いていた。周泰が嫌そうな顔をして押し黙る。
しばらく止まっていた指が、今度は室の奥に向けられる。しかし、周泰はやはり黙ったまま立ちすくんでいた。
唇を引き結んだは、無言で周泰の背をぐいぐい押す。
力比べなどできよう筈もないが、の剣幕が後押しするのか周泰はよろけるように扉の方へと押し出された。
「ごめ、な、さい」
しゃっくりしながら周泰に詫びると、扉を閉める。は、太史慈の横を通り過ぎて卓に着いた。
太史慈は扉の向こうの周泰を見遣り、しかし振り切るようにの後を追う。
「たい、しじど、のが、わるいです、よ」
ひっくひっくと喉を攣らせながら、は唐突に太史慈を詰った。
「何、の話、か、知りま……知りません、けど」
深く息を吸い込んで、はしゃっくりを殺し始めた。
太史慈は嫌悪を露にしてを見下ろす。
けれど、にしてみればさっきの顔よりまだずっとマシだと思えた。深呼吸に合わせて自分を奮い立たせる。
しゃっくりが止まると、は小さく溜息を吐いた。
「……私に対して怒ってるんだと思いますけど。周泰殿、関係ないじゃないですか」
関係は、ある。
太史慈が訪れたのは、周泰がを室に押し込め、自らも追って入った時とほぼ同時刻だった。
廊下からそれを目の当たりにした太史慈は、己が持ち込もうとした案件と相まって怒り心頭に達した。
周泰がを懸想しているのは知っている。
噂からでも流言からでもなく、何となれば己の目で見届けていたのだ。
庭木の間から、周泰がに口付けているのを見た。
恐らくは、離れた唇の感触に戸惑っているのだろうが、困惑顔で周泰を見上げていた。
それで、周泰の邪恋だと推測した。
二度目もやはり庭だった。
寝付けずにうろついていた太史慈は、近付いてくる人の気配を感じて己の気配を消した。
無意識の行動ではあったが、その行為は太史慈を驚愕の淵に落とし込んだ。
そこに、周泰に吊り上げられ、いいように嬲られている(としか思えなかった)が居た。
割り広げられた裾から、ちらちらと白い脚が見え隠れする。言葉もなかった。小さな声が上がり、それを耳にしても太史慈には未だ信じられない光景が広がる。
切れ切れに艶やかな声が上がり、が身をくねらす。
怪しげな興奮が太史慈から自由を奪っていた。
ぼちゃん、という水音に我に返り、太史慈は己を叱咤して止めに入ろうと思った。幾らなんでも行き過ぎている。
けれど、足が動かない。
初陣の時でさえこのようなことはなかった。焦燥が太史慈を苛み、己に罵声を浴びせても尚動けないで居た。
――あっ。
艶やかに、一際高らかに上がった声にぎょっとする。
周泰の腕の中に囚われていたは、唐突に泣き出した。
何を言うでなく、緩くを抱いた周泰が居た。愛しげな目をしている。
暗闇の中で、何故かそう確信した。
は、やがて周泰の手の内から逃げ出すように立ち上がり、よろけながらも歩き出す。
恋人同士の睦まじさは、まったくという程なかった。
の後を追って立ち上がった周泰が、無言でを支える。拒絶されてもすがるように支え、も遂に抵抗を止めた。
それで、周泰の邪恋だと確信した。
だが、元はと言えばが隙を見せるから良くないのではないか。
最初こそ周泰の邪恋であってに非はないと思っていたのだが、星彩を送る宴等で見る限り、に周泰を厭っている気配は無い。それとなく避けようという素振りも見えないし、逆に周泰に気があるようにさえ見えた。
むしろ、避けられているのは太史慈だった。
太史慈の前に出ると、は妙にギクシャクしだす。見え見えの愛想笑いを浮かべたり、無理に明るく振舞ってみせるのだ。
苛立ちに拍車が掛かった頃、と二人きりになる機を得た。逃すべくもない、絶好の機だった。
太史慈は、に孫策のことをのみ考えてくれるよう懇願したかったのだ。孫策以上にを想う男も、大事に出来る男も居ない、それを理解して欲しかった。
だが、太史慈を前に怯えすくむの様に、それまで言いたかったことが何一つ言えない。
――どうか怯えないで欲しい、何故なら自分は。
禁忌を犯そうとする想いを打ち消すべく、太史慈はそれ以上の言葉を戒めた。
詫びた太史慈に、は自ら、自分が悪かったかもしれない、なるべく態度を改めると誓ってくれた。
信用していいものか。
小さな悪意が太史慈の胸に芽生えたが、それがつまらぬ理由によるものだと分かっていた。
だから、太史慈は黙ってを見送った。
買い物でも散策でも、気晴らしできるなら何でもしたら良い。
ただ、その身を誰にも、孫策以外には触れさせないでもらえるならば。
約束を、忘れずにいてもらいたい。
太史慈の懇願に、は不承不承ながら頷いた。
本音がどこにあろうと、それでも頷いたのだから守ってもらわねばならぬ。
でなければ、自分を押さえられる自信がなかったのだ。
しかし、は約束を守らなかった。
何があったのかは太史慈の与り知らぬところだったが、孫策がもしを捨てたと言うなら、理由は一つしかない。が、孫策を裏切ったのだ。
思い込みに過ぎぬ、と己を責める太史慈を嘲笑うように、は周泰と扉の向こうに消えた。
それでも太史慈は待った。
周泰はすぐに出てくるに違いない、と己を諌めて待ち続けた。
結果は、完全に太史慈を裏切るものだった。
幾ら待ち続けても扉を開かず、太史慈は憤りを怒りに転じての室の戸を叩く。
孫権もまたに何がしかの想いを寄せているだろう、太史慈ですら分かるものを、堂々と裏切れる周泰の卑しさが許せなかった。
どうしても、許せなかった。
「……周泰は、臣下の礼にもとる、恥ずべき男だ」
吐き捨てるように漏れた言葉は、周泰への侮蔑で一杯になった身の内から溢れ出した讒言だ。微塵も疑いようのない、心の底の底から確かにそう思った言葉だ。
ぱし。
乾いた小さな音が、冷えた室の空気を揺らした。
は泣いていた。
しゃくり上げる子供のような涙ではなく、悲しげな、母のような顔をしていた。
「……そんなこと、言っちゃ駄目です……駄目ですよ」
打たれた頬より、そう言ってぐっと握りこまれた手の方が余程痛かった。
男子の顔面に、女が手を上げていい筈はない。
けれど、そんなことも忘れ果て、太史慈ははらはらと泣くの顔に見入る。
美しいと思った。
気が付いた時には、の唇を吸っていた。
もう、取り返しが付かない。
「貴女を、お慕いしている」
恋慕の告白は甘くも切なくもなく、ただひたすらに苦かった。