まったく驚かなかった訳ではない。
 現に、驚いたせいで涙が止まった。
 けれど、何処かでそうかもしれないと思っていた自分が居たのも確かだ。太史慈は、その真っ直ぐな人柄故に感情を隠しきれないようなところがあった。
 孫策を選べと懇願されて、悪乗りの延長的に太史慈に抱きついたことがある。
 実直な太史慈に自分の気持ちをどう説明していいか分からず、行動で表したのだ。いきなり告白されて行動に出られたらどんな気持ちになるか、戸惑いうろたえないかと問い掛けた。どうせ鎧に阻まれているのだから構うまいと、そんな安直な気持ちでやったことだった。
 太史慈は、が孫策の求愛を渋ることにも納得してくれたし、当人を目の前にして濡れ場の記憶を指摘し、頬を染める愚直さまで披露してくれた。
 そんな男が、を『美しい』と言い、それ程造作を気にするならば、と化粧を勧めて寄越した。
 らしくない干渉は、多大なる好意の印と取って差し支えないだろう。
 それに、孫策から既に聞かされていたことでもある。
 あの時は劉備を無事に蜀に帰すことで頭が一杯で、そんな馬鹿なと一蹴した。考えてみるとそういう風に受け取れなくもなく、思わぬ話に自室で一人照れたりもしていたのだが、やはり何となく信じられずに忘れていった。
 緊張感や現実味がまるでない話だったのだ。
 呉に来てからというもの、やたらとちやほやされていてどれが好意でどれが恋情かなど見分けが付かない。よもや全員から求愛されることもあるまいが(何せ凌統や周瑜が居る)、求愛しても尚、からかって寄越すような孫堅も居て、は脳のキャパシティを越える状態にいつからか察する能力が麻痺していたように思う。
 麻痺は、『本番』を迎えたから驚愕する暇を奪った。ぼんやりとして、ただ太史慈の顔を直視する余裕をのみ、与えてきた。
 思考は止まったまま、にまじまじと顔を見つめられ続ける太史慈は、甘い告白をしたとも思えぬ苦い顔をしている。
 言いたくなければ、言わなければいいのに。
 引っ込みが付かなかったんだろうか。
 キスしておいて何でもありませんで誤魔化せる性格でもなさそうだし、取った行動には理由が必要なタイプなのだろう。
「嫌だったんですか?」
 ぽろりと零れた質問に、太史慈はことの外慌てた。
「い、嫌と言う訳ではなく、その」
 衝動を制し切れなかったことに恥じ入っているのか、太史慈は珍しく言葉を濁した。
 これだけ慌てられると、却って冷静になる。
 武勇で鳴らした太史慈が、周泰を口汚く侮蔑した理由も薄々察しが付いた。
 嫉妬だ。
 あの太史慈が、周泰に嫉妬したのだ。
 下らない、非難卑下されるべき行動だが、には何故か好ましいものに感じられた。人間らしい、自然な行動に思えたのだ。
 また、それだけ太史慈が本気でを好いている証にも思えた。
 顔に血の気が集まって、無性に恥ずかしくなってくる。
 だが、悪い気はしなかった。
「……周泰殿のこと、あんまり悪く取らないで下さい」
 太史慈の顔が、少し引き攣ったように見えた。真面目な性質だから、一度こうと思い込むとなかなか変えられないのだろう。それもまた、太史慈の忠実で物堅い美点に思えた。
「周泰殿には周泰殿の考えがあって、していることですから……その、実は、私にも良く分からんのですが」
 うぇへへへ、と卑屈な笑い声を漏らすと、太史慈はやや引いたように、しかし口元に自嘲混じりの笑みを浮かべた。
「……俺も、きちんと確かめもせずに申し訳なかった。事情があるのなら確認し、理由があるのなら問うべきであったな」
 頭に血が上っていたことを認め、太史慈は一先ずと言ってに詫びた。
「怯えさせてしまい、申し訳なかった。ただ、俺は……」
 孫策の身をひたすらに案じている。
 太史慈と対峙し、降れと言い放った孫策は、自信に満ちて輝かんばかりだった。形ばかりの温情を掛けるのではなく、ただただ太史慈を欲するのだと言い放った孫策は、まるで日の光が輝くように清々としていた。
 しかし、大喬を伴い逃げるように去って行った孫策には、その光は欠片もなかった。
 最愛の主を傷付けたくはなかった。傷付けられることも許し難かった。
 だから、言わずに置こうと思ったのだ。孫策に気付かれ、執拗に後押しされても決して吐露すまいと胸の奥底に封じたつもりの感情だった。
 それなのに言ってしまった。
 太史慈の苦悩は深い。
 は、じっと太史慈を見つめた。
「言わなきゃいいのに」
「い」
 心なしか体さえ重くさせる苦悩をあっさり全否定され、太史慈は思わず顔を上げた。
 言わなければいい、けれど言ってしまったのだから取り返しが付かない。だからこそ悩んでいるのではないか。
「取り返しが付かないことを悩んでも、しょうがないんですよ」
 分からない人だなぁ、とはそれまでの自分を棚上げして説教を始める。
「しょうがないことをいつまでもやってても、しょうがないでしょ。じゃあどうするかを考えなくちゃ」
 そうでしょう、と言われても、太史慈には素直に頷けることではない。
 しょうがないと切り捨てられるならば、そもそもこれ程悩みはしないのだ。
 が、ぽて、と卓に伏せる。
 行儀の悪い所作に太史慈が眉を顰めるが、は気にした様子もなく何事か考え込んでいた。
「……事情があるなら確認し、理由があるなら問うべき、ですかぁ」
 間延びした声は、太史慈が言った言葉を繰り返していた。
 うーん、と何やら唸り声が続き、突然が飛び上がる。
「よし、決めたぁっ!」
 仰天している太史慈を無視して、は奥に駆け込んでいく。
 何事かと遅まきながら後を追った太史慈は、夜着を脱ぎ捨て肌も露なの後姿を見る羽目になり、仰天に拍車を掛けて卓まで駆け戻った。
 は、常の文官装束を纏って出て来ると、太史慈に時間を尋ねてきた。
 暗くはあったが、直に朝になるだろう。家人達が起き出す頃合だ。
 それと聞いて、は軽く頷いた。
 再び奥に引っ込むと、上掛けを手に戻ってくる。
「伯符に、会いに行ってきます」
 敢然とした面持ちで太史慈に宣言すると、飛び出そうとする。
 慌てて襟首を引っ掴んで止めるのだが、はえいえいと奇妙な気合を掛けて前に進もうともがき出した。
「ま、待たれよ。孫策殿に会って、どうなさるおつもりか」
「振られた理由を聞いてきます!」
 聞いていないことに勝手に理由を付けて、勝手に一人で落ち込んでいた。
 想像通りの理由だったとしても構わない、孫策の口から直接聞くのと勝手に妄想するのとでは、雲泥の違いだろう。そうでなければ、いつまで経っても気持ちの整理など出来そうもない。
 孫策を選んだ訳ではないから、の主張は、酷く身勝手なものだし、的外れもいいところかもしれない。だが、うだうだしているのはもう嫌だった。そんなことには、もう飽きてしまったのだ。
 確かに、自分の性格を顧みるにこれからもうだうだするのは目に見えている。だからと言って、うだうだしっぱなしで良いかと言えば、良くないに決まっている。
 けじめはきちんとつけるべきだ。
 そうでなければ、学習能力がなさ過ぎて悲しいではないか。
 いきなりやる気になったの行動力に、太史慈は翻弄されてしまう。思いがけず吐露してしまった告白に悩み浸る暇もなく、状況を整理しなければならなくなった。
「待たれよ、とにかく、待つことだ……そう、奥方の、大喬殿の故郷が何処だか、貴女は知るまい!」
 はた、との動きが止まり、すぐさままた走り出そうとする。
「小喬殿に……!」
 成る程、確かに小喬に聞けば一発だろう。
「今の時刻をお訊きになったのは、貴女だったろう」
 こんな、まだ朝とも言えぬ刻限に小喬を叩き起こすつもりなのか。
 さすがにも頭が冷えてきたのか、動きが鈍くなる。
 お陰で太史慈にも考えをまとめる余裕が出てきた。
「それに、貴女の遠出が許されるとも思えぬ。そも、どうやって行かれるおつもりだったのか。馬でもなければ道程は険しかろうし、幾日掛かるか知れん」
「だって、太史慈殿は場所……」
 言いかけた言葉を途中で切った。
 太史慈は、苦笑いで答える。
「……良くご存知だ。確かに、俺は大喬殿の故郷を存じ上げている」
 だが、太史慈に案内を頼むことは、即ち太史慈にの城抜けの手伝いをしろと言っているようなものだ。頼めるものでもないし、太史慈もすぐにの考えを見抜いた。
 蜀の文官が呉の領地を自由に歩き回っていい訳がない。凌統から、周瑜が外出の許可をくれたと聞いてはいたが、それとて街に買い物に出る程度のことに違いないのだ。
 やっと足を止めたに、太史慈は苦く笑う。
 無茶なひとだ、という認識を新たにした。
「少し、落ち着かれよ。もうしばらく経てば、周瑜殿も起きてこられよう。その節に改めて相談を持ち掛ければ良い」
 周瑜も孫策を案じているに違いないのだ。事が色恋沙汰である以上、生半に手を出しかねるのは太史慈以上であったろうから、上手く言葉を選べば耳も知恵も貸してくれるだろう。
 とりあえず、泣いて酷い顔になってしまったの目を冷やしてやるのが先決だ。
 水を汲んでこようと扉を開いた太史慈は、目の前に周泰の姿を見出し立ちすくむ。
 周泰は、太史慈をかわして室の中に踏み込んでくると、俯いたの体を抱き上げた。
「え」
 の顔が疑問一色に染まる。
「……俺も……知っている……」
 その言葉が何を意図するか悟り、太史慈は顔色を変えた。
 立ち聞きの非礼を咎めている場合ではない、止めなければの一念で周泰の進路を塞いだ。
「貴公は、何をしようとしているのか分かっておられるのか!」
 城抜けなどしたら、周泰は元よりの身に何が起こるか分からない。下手を打てば、呉と蜀の関係すら危うくなりかねないのだ。
 だが、周泰は揺らがなかった。
 太史慈が身構える隙も与えず、片手で暁を繰り出し太史慈の腹を打つ。
「……っ!!」
 膝を折って崩れる太史慈に、は息を飲み込んだ。
「き、貴公……!!」
 失神するまでではないが、強く脾腹を打たれて体が強張る。痛みが全身を支配し、到底立ち上がれない。
 脂汗に塗れながらも必死に声を絞る太史慈に、周泰は静かな眼差しを注いだ。
「……俺が……攫った……」
 何をと問い掛けるのも馬鹿馬鹿しい。
 目を見開いたまま言葉を失っているに、周泰はわずかに微笑んで見せた。安堵させるかのような微笑の後、周泰は太史慈を冷たく見下ろす。
「……いいな……」
「しゅ、周泰殿、貴公は……!!」
 太史慈は、周泰がすべての責を負う気だと気が付いた。そんなことをしなくても、周瑜、あるいは孫権を通じて孫堅に訴えかければいいだけの話ではないか。
 何も周泰が命を掛けねばならぬいわれは何もない。
 無駄死にもいいところだと分かっているのかいないのか、周泰はその長躯を文字通り風のように翻して行ってしまった。
 を抱えたままで。

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