門番が門の閂を開けると同時に、周泰が馬に乗って駆け込んできた。
進路を阻まれた馬が怒り猛って嘶き、前足を振り上げる。
五感すべてを脅かされる感覚に、血の気が引いた。
「……開けろ……」
低いが恫喝じみた迫力にすっかり気圧され、門番は言われるがままに重い戸を開いた。
ぎぎぃ、ときしむ音を立てて門が開いていく。
馬一頭がぎりぎり通れようかというところまで開くと、周泰は勢い良く馬の腹を蹴った。
「ひ」
門番が悲鳴を上げて地面に伏せると、その上を周泰の馬が跳び越していく。
すれすれに来たひずめが凪ぐ風が、門番の肝をひんやり冷やした。
門番がびくびくしながら頭を上げると、周泰の馬がただ一騎、遥か遠くを駆けていくのが見えた。
「……な、何かあったのだろうか」
困惑しつつ背後を振り返るが、周泰の手勢はただの一人も付いて来ない。本当に、ただ一騎で駆けて行ってしまったのだ。
出征の報告も外出の報告も受けていない。
さて、どなたにご報告申し上げるべきかと考えあぐね、門番は頭を捻り続けた。
どうして、という疑問は晴れていない。
だが、問い掛けようにも周泰の馬は風のように駆けるばかりで、止まる気配もない。
周泰の背にしがみつくようにしているから、話し掛けようにも話し掛けられなかった。
駆けて駆けて、ようやく日が天の頂上に差し掛かる頃、周泰は馬を止めた。
湧き水で出来た、小さな泉のほとりだった。何処かの村の水源なのかもしれないが、人の気配はまるでない。
息が上がりかけた馬の首を撫で慰労すると、泉の縁に導いて水を飲ませ始めた。
周泰もその脇で水を飲み始める。
そういえば、顔も洗ってない。
が周泰の傍らに近付くと、周泰は立ち上がって場所を譲ってくれた。
馬と一緒に水を飲むというのも何だが、これはこれで当たり前なのかもしれない。は馬と並ぶと、水を掬って口元に運ぶ。
凍りつくように冷たい、それだけに美味い水だった。
「顔、洗っても……」
が振り返ると、周泰が頷く。
水を飲み終えた馬も頷くように首を振るもので、は不思議な気持ちになった。
主が変だと、馬も変になるのだろうか。
その理屈で行くと、周泰がおかしな行動を取るのは孫権のせいということになる。馬鹿な考えを振り捨て、顔を洗った。
顔と手が凍えてしまいそうに冷たい。
けれど、目元に塩気が張り付いていたのが徐々に剥がれ落ちるのが良く分かる。心地良い。
良く泣くよなぁ、と我ながら情けなく思った。
濡れた顔を手巾で拭くと、周泰は適当な石の上に腰を下ろした。
人の、と言うよりは馬の為の休息だろう。二人も乗せて走り詰めでここまで来た。城を抜け出してきたのだから、代わりになる馬の当てはない。
も周泰に習い、手近な石に腰掛けた。
「どうして、こんなこと」
やっと問うことが出来た。
太史慈の言う通り、周瑜に相談を持ち掛けるのが一番良さそうに思える。蜀の文官として、決してやってはならないことをしているという罪悪感もあって、は落ち着けずに居た。
周泰は、そこらで拾ったと思しき枯れ枝を手に、何と説明していいか考えているようだった。
思えば、この男は寡黙で鳴らした男なのだ。分からないからと言葉を強請るに合わせ、懸命に言葉を綴ってくれているのだろう。
恐らく、きっと今も。
思い出の人と重ねているだけにしては、あまりに尽くされているような気がした。
それだけでないとしたら何だ。孫権への忠節か。
人との関わり合いが上手い人だとは思えない。それだけに、一度身を賭した相手に命懸けで尽くそうとするのだろう。裏切りが常の中原の世界で、周泰の忠義が逸話として語られ続けるのも、正にその点なのだと思う。
無骨で、それと分かるのにも手間が掛かるような優しさなのだ。
もしや自分が鈍いだけだろうかと、は少しばかり憮然とした。
「……周瑜殿にも……立場があろう……」
唐突に口を切った周泰に、は頬杖を突いていた手を外す。
「……他の者も……」
それきり口を閉ざしたが、何となくは理解した。
幾ら孫策だとは言え、色恋沙汰で取り乱すような跡継ぎを配下の将達がいい気分で受け入れられる筈がない。
周瑜は、友人と言う関係から孫策寄りであるとは言え、呉軍を束ねまとめて行かねばならぬ立場だ。それを、孫策の為だからと無法を許してを送り出せば、周瑜の立場がなくなろう。
仮に、孫権が父である孫堅に申し入れたとて同じことが言える。君主一族の立場を笠に着て、と呉の結束にひびが入らないとも限らない。
無理無体は人の信頼を壊す。曹操と言う恐ろしい圧迫に対抗するには、信頼と言う絆は必要不可欠なのだ。
この場合、誰かが泥を被るのが一番手っ取り早く確実だった。
でも、とは思う。
だからと言って、何も周泰が被らなくても良いのではないか。
「……周泰殿が居なくなったら、孫権様が悲しむでしょうに」
責めているつもりはないけれど、どうしても言わずに居られなかった。
周泰は、の顔を一瞥して手元の枯れ木を軽く弄った。
「……ならば……お前が、傍に居ればいい……」
自分の代わりに、孫権の傍らに。
本気で言っている。それだけ、孫権に肩入れしているのだろう。理解は出来る。
「駄目です」
だが、納得は出来ない。
「周泰殿の代わりなんて、私に出来る訳ないじゃないですか。私が孫権様のこと、体を張って守れるように見えますか」
それに、とは続けた。
「孫権様に取って、周泰殿はたった一人の大事な忠臣ですよ。もし周泰殿が居なくなったら、孫権様おかしくなっちゃいますよ」
周泰と引き換えにを手に入れたとて、孫権は喜ぶまい。確信を持って断言できた。
きっぱり言い切られて、周泰は少し怯んだように目を伏せた。逡巡を見せたのも束の間、手元の枯れ木を投げ捨て立ち上がる。
「……賽は……既に投げられた……」
もう引き返せないと言いたいつもりだった。
「ガリア戦記かっ!」
は周泰の知らない言葉を高らかに叫び、おのれブルータスお前もか、と、更に訳の分からない言葉を続ける。
何と言っていいか分からず、周泰は眉を顰めてただを見詰めた。
追っ手の気配もなく、と周泰は三日の道程をこなしていた。途中、大きな農家や豪商らしき家に立ち寄り、食料や寝床を都合してもらいながらの移動だった。
どんな道連れに見えたことだろう。
周泰は、世話になる農家を見つけはするものの、その後の交渉はに任せ切りだった。に話をする分、他の連中と話す分がまったくないかのようだ。
しきたりや風潮等はよく分からないものの、主とそれに仕える侍女だということにして(が主と言うにはあまりにも貫禄がなかったのだ)、主が仕える主人の下へ帰参する途中と説明した。
苦しい説明だったが、金を持っていたことも幸いして敷地内までは入れてもらえた。
その先で役に立ったのが、またもやの歌だった。
の歌は、意外なまでに持て囃された。
最初は、主の指示を待てと偉そうに放置された時に、暇つぶしで鼻歌を歌っていたのが切っ掛けだった。そこの家人に可笑しな歌だと笑われて、実は南方の孤村の出なのだ、これはその土地の歌だと説明した途端、渋って出て来なかった主人やその家族が面白いように飛びついてきた。
よっぽど娯楽に飢えているらしい。が歌う代わりに幾許かの食料や暖かい寝床が用意された。
もっとも、喉が枯れる寸前まで歌わされることには辟易したけれども。
そんな次第で風邪をひくこともなく、は周泰に連れられて二喬の故郷に辿り着いた。
が大喬の実家と思しき屋敷の門を潜ると、前庭で働いていた下男と思われる男がぱっとこちらを向いた。
いぶかしそうな顔はすぐに笑みに取って代わり、たかたかと駆け寄ってくる。
「あぁ、あんた! あれだろう、何だか可笑しな歌を歌うって言う!」
噂になっているらしい。
追っ手が掛かってもおかしくない身なので、その評判は正直有り難くなかった。
しかし下男は、の表情の変化を気にも留めない。一人でぺらぺらと喋り始めた。
「ちょうど良かった、うちもねぇ、今お嬢様がお戻りなんだが、どうもその旦那様が塞ぎ込んでいらしてね。何、いつもは気さくでとても良い方なんだ、驚いちゃいけないよ、何とあの孫家ご嫡男の孫策様がその旦那様なのさ!」
間違いないらしい。
周泰を振り返り、頷き合う。
「あの、私達」
「やぁやぁ、本当に良かった。戦続きで体調を崩されたとかで、うん、お疲れなんだなぁ、何せ、あの曹操に立ち向かっておられるお方だから。私もね、戦なんてぞっとしないクチなんだけれども、でもねぇ、孫呉の皆々様の勇猛さと言うか、毅然としたお身持ちとかね、うん、さすがだなぁと心打たれるものがある訳だよ、うん」
「いえ、あの」
「だからねぇ、少し静養にと仰ってお出でいただいたのだから、何かお心の慰めになるようなものをと思うんだけどね、何せここら辺はご覧の通りの田舎佇まいだろう、なかなかねぇ、お気に召していただけるようなものなんかなくって、そりゃあお嬢様は静かなのが何よりなんてお慰め下さるけれども、やっぱりね、こう、何かして差し上げたいと思うのが人情と言うものじゃないか、ねぇそう思わないかい」
「お、思いますけど、あの」
「そうだろう、そうだろう。だからねぇ、私もね、お前さんの姿を見た時にぴーんと来て、あぁ、これがよく言われる廻り合わせという奴か、やはり行いの良い方には良いことが起こるものだ、仁とか徳とか言うものかとね、暗く憂鬱になることも時には武の道を志す方にでもおありだろうし、そんな時に心慰めるものが何かあればと思うんだけれども、何せご覧の通りの田舎佇まいだろう、だが、こうしてお前さんが来てくれたのも本当に天の采配で、有り難いことこの上ない。そも、ここの土地を治めていらした橋玄様と仰る方がね」
何とか口を挟もうと思うのだが、隙なく話し続ける男の言葉にはが割り込む余裕がまったくない。
勝手に盛り上がり話し続けるので、困ってしまって周泰に救いを求める。
周泰は、しばらく男を見ていたが、不意に腰に下げた暁に手を掛けた。
「ひぃ」
それまで饒舌に喋っていた男が、文字通り飛び上がって逃げ出した。
「お、お嬢様ぁ、賊ですよぉ、賊が来ちまいましたよぉ!!」
金切り声を上げ、転がるように屋敷内へ走り去っていく。
がよくよく周泰を見ると、周泰は暁の柄に手首を掛けただけだった。
どうしようかと考えあぐねて、無意識に手を置いていたのだろう。無表情には変わりはないが、少しばかり困惑しているのが見て取れた。
どのみち誤解なのだから、おとなしく待っていれば良かろう。大喬が出て来れば、すぐに収まる騒ぎのはずだ。
「……待ってましょうか」
ね、と周泰を振り仰ぐ。
その頭上に、空から何かが落ちてくるのが目端を過ぎる。
「あぶ」
ない、とが言い掛けた時点で、周泰は既に機敏な行動を取っていた。
暁を鞘ごと抜き取ると、振り下ろされる凶器を受け止め弾く。
襲撃者はくるりとトンボを切って宙を舞い、地面に降り立った。
「は」
呆れ返ってそれしか言えない。
孫策だった。
降り立った瞬間こそ精悍だった面差も、相手がと周泰だと分かると間抜けなぐらいに緩まった。
あ、う、とどもっていたが、いきなり身を翻して門から飛び出していってしまう。
物凄い速さで走っていく孫策に、鈍足だからとじっとしていられる訳もない。
「伯符っ!」
周泰にこの場を任せ、は孫策の後を追って駆け出した。
幸い、整地が為されているのか平地が広がり、遮蔽物もかなり少ない。遠ざかっていく孫策の背を遮るものはほとんどなかった。
どんどん引き離されていくのは分かったけれど、それでも追わずに居られなかった。
孫策を追い掛けていくの背を、周泰はじっと見送った。
「覚悟はよろしいですか!?」
背後から勇ましい声が掛かる。
周泰がゆっくりと顔だけ向けると、凛々しく喬美を構えていた大喬は、あっと小さな声を上げた。
まま固まっていたのだが、下男が何事か話し掛けると我に返って、恥ずかしそうに得物を背中に隠した。
「……あ、あの……お一人ですか?」
周泰一人で訪ねてきたことに、大喬は不思議そうに小首を傾げた。
口も開かず黙って首を横に振る周泰に、誰と来たのか訊きだせるだろうかと、大喬はやや不安になった。