孫策の背を追って駆け出しただったが、すぐに息が上がってしまった。
 ここ数日は輪を掛けて運動不足を続けていたせいか、体が妙に重い。
 休み休みと言えど追い掛け続けているのにちっとも追いつける気配がないのも、根気をなくす要因だった。
 それと言うのも、孫策が脇目も振らず一直線に駆けて行ってしまうからだ。
 途中、ちょっとぐらいは振り返らないかと期待したのだが、短距離選手よろしくまっしぐらに駆けて、立ち止まるどころか速度が落ちることさえなかった。
 終いには、平地から入り組んだ道に入ってしまい、何処に行ってしまったのか影も形も見えなくなる有様だった。
 もうこれ以上は進めない、というところまで頑張って走ったのだが、遂に限界を感じて足を止める。深呼吸して荒い息を整え、辺りを見回してみたものの、やはり孫策の姿は見当たらなかった。
 まずい。
 何処から来たのか、その方向さえ見失ってしまった。
 民家もない平野は何処もかしこも酷似していて、の方向感覚を狂わせる。
 夕方近くに大喬の屋敷に着いたお陰で、日は早や傾きかけていた。
 どうしよう。
 下手に動けば、迷子になるのは必至だ。
 というか、そももう迷子なのだ。迷子などと言う可愛らしいものならまだいいが、下手をすれば遭難しかねない。
 画面で見ればここら辺に地図が、と指で四角を作ってみるものの、当然そんな便利なものが見えてくることはない。
 遭難者の掟を守り、しばらくここで救助を待つことにした。
 無事救助される為には、遭難者の忍耐が必要だ。我慢しきれずに歩き回れば、すれ違いが起き易い。
 頭では分かっているのだが、古い切り株に腰を下ろした途端、もう心細くなっていた。
 汗を掻いた体は、冬の冷たい風を受けてすぐに冷え込んでくる。持参した上掛けは、鞍に置いてきてしまった。よしんば持っていたとして、孫策を追い掛けるのに邪魔になっていただろうから、きっと途中で投げ捨てていたに違いない。
 きょろきょろと辺りを見回すが、相変わらず人の気配はなかった。
 ひょっとしたら、ここは屋敷の敷地内なのかもしれない。そうだとしたら、人と会える確率は更に低くなったと言える。
 は膝を抱え込んだ。
 暑さは苛立ちを招くものだろうが、寒さは不安を招くらしい。
 じっとしていなければと思うも、平地を吹き抜ける風はただただ冷たい。
 はぁ、と息を吐き出し手を温めてみるのだが、湿気た吐息は指を湿らせて、却って冷たくしているような按配だった。
 同じ動かないにしても、せめて風を避けられるような場所に移ろう。
 切り株に腰掛けている間に、夜は間近に迫ってきていた。もしも一晩見つけてもらえなければ、凍死したとしてもおかしくなさそうだ。
 不吉な想像を振り払い、風が避けられる場所を探す。
 遠くに門らしきものが見え、暗くなって見えなくなってしまう前にと慌てて移動した。

 開いた門の向こうを覗いてみるが、そちらも広々とした野原が広がっている。
 このままに開け放しにしてはおくまいから、上手くいけば門を閉じに来た人に見つけてもらえるかもしれない。
 大きく開かれた門と切り立った崖の隙間に入ってみると、いい具合に風を防いでくれた。
 これなら、何とか凌げそうだ。
 二の腕を抱きかかえて擦り合わせる。
 少しでも温まろうとするなら、それぐらいしか方法がないのだ。
 辺りが闇に包まれるにつれ、染み込むように寒さが増していく。
 しゃがみこむと多少マシになった気がして、は膝を抱えた。
 どうして孫策は逃げたのだろう。
 顔を見るのも嫌だったとか、そんな様子ではなかった。だが、歓待している風では無論なく、ただ驚いたにしては凄まじい逃げっぷりだった。
 訳が分からん。
 孫策一人に限らないが、には理解し難い思考の持ち主ばかりだ。
 忠義とか仁とか礼とか、そういうものがぐちゃぐちゃと絡み合っているからだろうか。
 勉強をして多少なりとも理解しようと努めているが、時代に合わせて柔軟に変化する儒の世界は、この時代をして既に複雑怪奇だった。非常に難解なのだ。
 人の心を容易に突き詰められると考える方が間違いかもしれない。
 結局、自身はいつもそう結論付けてしまう。
 分からないものは分からないし、分かりますとか分かれとか、そういうのは押し付けがましくて引いてしまう。分かってほしいと願うことと、分からないのがおかしいと決め付けることは一致しない。
 凌統の傍が居心地良かったのは、きっとそのせいだったとは思う。
 どうしているだろうかと考え、今の自分を見たらまた呆れてしまうに違いないと思った。
 趙雲も、きっと呆れるだろう。向こう見ずにも程があると叱って、でもお前らしいと笑ってくれるかもしれない。
 馬超は、姜維はと思い出すと、余計に寂しくなってきた。
 今、の傍らに居る者はなかった。
 この世界での持つ繋がりは、ほんのわずかなものに過ぎない。そのほとんどが恋情で出来ていることは、に取って不安材料でしかないのだ。
 恋は、終われば終いだ。脆い感情だ。その後に続くものは、まずないと言って差し支えないだろう。
 中には、恋愛が終わった後に友情に転化する場合もある。けれど、それはほんのわずかの場合だ。各々の人となりにもよろうし、片方の友情ごっこで終わることもよくあることだ。
 恋愛は戦いだと思う。どんなに愛し合っていると嘯いても、気を抜いてもたれ過ぎれば相手にとって負担にしかならない。
 負担を構わないという人なら構うまいが、は御免だった。掛けるのも掛けられるのも心底お断り申し上げる。
 可愛げがないと言われようが、そんな無様をして相手を苦しめるのは嫌だ。
 頼りたい、甘えたい時がないではない。でも、それも頻度によるだろう。年柄年中甘えたいとは思わないし、甘えてこられても迷惑だ。
 やはり、可愛げがないかもしれない。
 こんな女を本気で好きになってくれる人が居るとは、どうしても信じ難かった。
 しかも、相手は皆生え抜きの武将揃いだ。いっそじゃんけん大会の景品として取り合ってくれないだろうか。
 そんなことを考えていたら、蜀で行われた武闘大会のことを思い出した。
 公衆の面前で要らないと宣言されてしまった恥ずかしさは、今でも涙が出る程に悔しく悲しく、どうしても忘れられない。
 あの時怒ってくれたのは孫策だった。
 今は、その孫策に見放されていた。
 寂しさが胸を突く。
 男なんて、信用できん。
「畜生っ!!」
 思わず怒鳴り散らすと、がさ、と枯葉が踏みしだかれるような音が響いた。
 何の気なしに振り返ると、ほんの数メートル先に虎が居た。
 こんなところに、何で虎が。
 現実味がなさ過ぎて呆然とする。
 暗闇に浮き上がる濃い金地に黒い縞の毛皮は、滑らかで凄惨な程美しい。こんな間近で見られることは、まず早々ないだろう。
 サファリパークなどであればまた別だろうが、少なくともは初めての経験だった。
 綺麗だなぁ、と見蕩れる。
 よりも一回りくらい大きいその虎は、少し頭を下げてをじっと見ている。
 虎を見ると、孫家を思い出す。4での彼らの衣装は、虎の毛皮を使うことで統一感を持たせているのだ。
 確かそうだった、と思い返していると、虎の足が前に、の方に踏み出された。
 じり、という音に、体が急に鳥肌立つ。
 あれ、と冷や汗が浮き出ると、途端に我に返った。
 この虎は、動物園の檻の中に居るのではなく、無論がサファリパークのバスの中に居る訳でもなく、ということは、と虎を隔てるものは何もない。
 かてて加えて、は門の扉と崖の間に挟まれるようにして腰掛けており、背後には太い門柱がそびえている。
 それは、前からじりじりと進んでくる虎から逃がれるべき退路がないことを意味していた。
 虎使いの姿が見えない以上、これは野生の虎と見做してよかろう。冬場に来て餌が減っているだろうことは理解できたし、虎の主食が肉だということも知っている。人肉だって、食べるだろう。
 つまり。
 この場合……考えたくはないが……が、狙われているのだろう。
 考え事をしていたせいで、虎の接近に気が付けないで居た。
 意外性を見せて、撫でて撫でてと腹でも晒してくれないだろうか、等と現実逃避的なことを考えるが、頭を低くしたその体勢はどう見ても飛びつく寸前のものだ。
 どうしよう。
 さすがに、野生の虎に襲われた時の対処法は知らない。元々日本には生息していなかった生き物だ、先祖伝来の知恵などあろう筈もない。
 大声を出してびびらせてやった方が良いのか、しかし、それを切っ掛けに逆に飛び掛ってこられでもしたら。
 浅い知識に振り回されて、は身動きが取れなくなってしまった。
 虎の低い唸り声が、肌の表皮を滑って震わせていく。毛穴が最大限開いていく感覚が、つぶさに感じ取れた。
 その瞬間が近い。
 耐え切れず、は勢いよく目を閉じた。
――ごきゃ
 鈍い音がして、次いでどさりと何かが崩れ落ちる音がした。
 死んだ、と思った。

 誰かが名前を呼んでいる。誰だろう。
「おい、って」
 目を開けて確認したいのだが、接着剤で引っ付いたようになっていてどうしても開かない。
 死んでしまったのだろうかと思う。それぐらい、開けられなかった。
 暖かいものがの顔を包んだ。
 頬も耳も、きんと冷たく凍えていたのがよく分かる。
 わしわしと動く手が、の顔の筋肉を解してくれた。
 ばち、と大きな音を立てて、唐突に瞼が開く。目の前には、孫策の顔が在った。
「伯符」
 苦笑いして、を見下ろしている。
「ここ、何処」
「何処って、お前」
 孫策が背後を振り返る。そこに空いたスペースから、地面に平伏した虎が見えた。よろよろと立ち上がろうとしている。
 思わず孫策に飛びつくと、孫策は苦笑しながらの肩を抱いた。
「大丈夫だ」
 その言葉に、はほっとして体の力を抜く。孫策が大丈夫と言うなら、大丈夫なのだろう。
 虎は、何とか体を起こして立ち上がると、達に背を向け去っていった。
「……いいの?」
 他の人を襲わないだろうか。
「まぁ、ここらは人も居ねぇし、今は特に、正月前でみんな田舎に帰っちまってるって話だしな」
 殺しても無駄になる。だから、殺さないでもいいだろうと孫策は言った。
「……そっか」
 孫策の強烈な一撃を食らったら、あの虎もしばらくは懲りておとなしくしているかもしれない。孫策がいいと言うなら、それでいいように思えた。
 虎が居なくなると、二人の間に急に余所余所しい空気が流れ始めた。
 仮にも別れを告げ、受け入れた仲だから、当然と言えば当然かもしれなかった。
「あ、ごめん……」
 未だにしがみついていたことに気付き、手を離す。孫策の目が、やや引き攣った。
「あの……伯符に、訊きたいことがあって」
 勢い付いて城を抜け出してきたものの、いざ当人を目の前にすると何を言っていいか分からない。
 第一、三日と言う時間が流れてしまっているのだ。気抜けするにも程がある。
「権の命令で、俺を連れ戻しに来たのか?」
 孫策は苦く、苦く笑い、すっくと立ち上がった。
「でもよ、周泰付けて寄越すなんざ、権の奴、よっぽどお前に惚れてんだな! うん、敵わねぇ!」
 何を言っているのだろう、とは思った。
 何を言ってんだ俺、と孫策も思っていた。
 けれど、止められなかった。
「お前、権と一緒になれよ。俺、ちゃんと祝ってやるからよ……俺なんかより、よっぽど、お前のこと、大切にしてくれる……」
 な、という念押しの声は空回りしていた。
「あぁ」
 の唇から、吐息に紛れて微かな声が漏れた。
「……あぁ、そう」
 聞きたかった言葉を聞いた筈なのに、胸の奥底はひんやりと凍り付いてしまった。
 あぁ。
 そう。
 暗く深い洞窟に響くように、胸の内で静かに自分の声が広がっていく。
「……そう……」
 いきなり沈んだ表情になるを前に、孫策は喚き散らしたい気持ちを必死に制した。
 自分に非がある。が悪い訳ではない。取り返しのつかないことを仕出かしたのは自分なのだ。
 詰ってくれれば、楽なのに。
 互いにそう思っていることは、けれど二人共に知らぬままだった。

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