しばらく沈黙が落ちた。
日が沈んで随分経つ。また風邪をひかせるのではないかと孫策は焦った。
「……な、帰ろうぜ」
それだけのことを言うのに、孫策はかなりの気合を要した。
が無言ながら立ち上がるのを見て、ほっとする。
だが、は一人で歩き出した。
「」
方向は合っている。だから、止める理由はない。
胸がざわついて落ち着かぬまま、孫策はの後を追う。
割合に早い。けれど、孫策のような武の為に体を鍛え上げている者にとって、それは緩やか過ぎるほど緩やかな足取りだった。
弱っちい。
改めて実感する。
戦場になんか出たら、一発で殺されると思う。
だが、その心根が異様に込み入って出来ているのを、孫策は知っている。
体以上に弱いかと思えば、時に孫策を完全に圧倒する程強くなる。
次々と見せられる様々な一面に、孫策は時にはしゃぎ時に塞ぐ。
引っ張りまわされるのは、嫌ではなかった。
いつもは引っ張りまわす方だったからかもしれないが、それは新鮮で楽しいことだった。
を抱くのも好きだった。
開けっぴろげで、素直で、それでいて悩ましい。
アレの具合だけで言うなら、は孫策の知る限りの中ではダントツだった。名器と言う言葉があるのは知っていたが、は正にそれなのだろう。
だが、自分はそれだけではないと思う。それだけが良くて、を好きになったのではない。
今も、好きだ。
口に出して言ってしまいそうになって、孫策は唇を噛み締めた。
言えた義理はない。
「……帰ったら、大喬に言って、湯でも沸かしてもらうか」
黙っていると胸が破裂しそうだった。何でもいいからと口に任せて喋り出す。
「結構長いこと、あそこに居たんだろ……寒かっただろ……お」
俺のこと、追っ掛けたりするから。
何故だ。
疑問は急激に膨れ上がった。
何故、は追い掛けてきたのか。
孫権の命で迎えに来たと言うのは分かる。けれど、がここまで必死に孫策を追い掛ける理由にはならない。
期待したら馬鹿だ。
だが、孫策はもう既に期待をしてしまっていた。
もしかして、は自分を許して、あるいは選んでくれたのではないか。
「すぐ、帰る」
高鳴った胸に冷水をぶちまけるような、陰鬱な声だった。
衝撃を堪え、孫策は努めて何でもない振りをする。
「……帰るって、お前、もう夜だぞ。こんな時間に出て、お前」
「うん、でも、もう用済んだし」
用とは、何だ。
まだ、それこそまともな話すらしていないだろう。顔もほとんど合わせていない。
は孫策の背だけを見ていたようなものだったし、孫策はの背ばかりを見ている。
そんなん、アリか。ねぇだろ。
一人ごちたが、言葉にはならない。
「すぐ、帰んないと」
孫策の声は言葉になる前に消え、は振り返らず歩き続ける。
「……迷惑、掛けちゃうし」
「迷惑なんかじゃ、ねぇよ」
大喬はを慕っている。突然訪問したとて、快く受け入れてくれる筈だ。
「お前一人ぐらい……お前と周泰ぐらい、何とでもならぁ。食料だって買い込んであるし、そりゃ、ご馳走作れって言われりゃ、ちっと無理かもしれねぇけどよ」
「そうじゃなくて」
孫策の言葉を無理矢理に切る。それでも、は振り返らない。
「迷惑、掛かるから」
気のせいか、歩く速度が速まった気がする。
孫策も小走りに駆け、のすぐ後ろに付いた。
肩を押さえかけて、その手を下ろす。
「……迷惑じゃねぇよ、ホントに」
せめて、と焦っていた。
せめて今晩、夜が明けるまででも居たらいい。夜道は危険だし、如何な周泰とてを連れては完全とは言い難い。
それ以前に、ただ、傍に居たい。
今夜一晩でいい、孫権の、他の男の傍らでなく自分の手の届く場所に、勿論何をしようと言うのでなく、傍に居てくれればいいと思った。
「……城、抜けて来ちゃったから」
「は?」
思い掛けない言葉に、思い詰めていただけに気が抜け、素っ頓狂な声を上げてしまう。
「な……なに?」
城を、抜けてきた。
予想だにしない事態に、孫策は思わず足を止める。
その間にも、はずんずんと前に行ってしまっていた。
「ちょ」
待て、と言おうとして手を上げた途端、がくるりと振り向いた。
「友達で居てくれる?」
話の展開が読めなくて、孫策は口を開けたままを見つめた。
泣きそうにも見えたし、笑っているようにも、そのどちらも合わせたようにも見えた。
「伯符と、もう、駄目になっちゃったけど」
ずきり、と心臓が痛みを訴えた。
「でも、何にもなかったことには、したくない……だから」
無理だ、と分かっていた。
は、そんな関係を続けていけるようなさっぱりした人間じゃないと自覚していた。けれど、格好悪くすがってしまう。
せめて、友達で居たい。赤の他人にはなりたくない。
孫策が戸惑いつつも頷くのを見て、は視線を落とした。
「……ありがと」
孫策は、再び背を向け歩き出したに追いつこうとして、踏み出した足をぴたりと止める。
ゆっくりとした蹄の音と共に、黒馬に跨った周泰が闇の中から現れた。
周泰はすぐに孫策に気が付き、馬を下りて拱手の礼を取る。その脇にが立つと、鞍の下から上掛けを引っ張り出し、の体に巻きつけた。
何事か小声で話しているが、孫策には聞こえない。
再び拱手の礼を取ると、を馬に同乗させ駆け去って行ってしまった。
残された孫策は、ただそれを見送るのみだった。
「大姐」
門を潜ると、大喬が出迎えてくれた。
「寒かったでしょう、今、お湯を用意いたしますね」
踵を返して屋敷に駆け込もうとする大喬を、は急ぎ引き留めた。
「すぐ、帰るから」
「え」
大喬の戸惑いも無理はない。もう、夜も更けた。夜討ち夜逃げの類でなければ、移動には向かない時間帯だ。
「もう、用も済んだから」
の言葉に、孫策との会合があったことを知る。大喬は、小さく息を飲んだ。
「だ、大姐」
「ごめんね、いきなり押しかけて」
が謝る必要はない。けれど、行かないで欲しかった。
どれだけ傷付いているのか、大喬には知る由もない。けれど、今、孫策を置いて行って欲しくなかった。
「じゃあ……」
周泰を促し、再び門を潜って出立しようとするに、大喬は叫んだ。
「孫策様のこと、どうしても許していただけませんか!?」
大喬には珍しい大声に、居合わせた下男は元より、も目を丸くした。
素から戻って乾いた笑いを漏らしつつ、は所在なさげに頭を掻く。
「……いやぁ、だって……許してくれないのは、はく……孫策様の方、ですし……」
今度は大喬が目を丸くした。
「そ、そんなことありません! 孫策様、大姐に酷いことをしてしまった、もう顔向けできないからって、それはもう気落ちされて、涙まで……!」
沈黙が落ちる。
「……はい?」
「……え?」
この時点で、女二人は何かとんでもない行き違いがあるのではないかと感付き始めた。
「……えぇと、あれ? は、孫策様、が、自分が悪いって、言っておられるんですか?」
「……はい……えぇと……あの、大姐は、ご自分が悪いと思われていたんですか……?」
思われてましたよ?
その表情に明快な答えを映し、は引き攣った笑みを浮かべた。
「……ちょ……大喬殿、そこの辺りのお話をクワシク!」
がっ、と大喬の両肩を掴むは、修羅の形相を見せていた。
大喬はの勢いに怖気付くも、愛する孫策の為と握り拳を握って耐えた。
「わ、分かりました、あの、では屋敷の中に……」
あまり人に聞かせたい話ではない。
大喬は下男に自室の人払い、並びにその間に周泰へ酒を振舞うように命じた。
「…………」
手を上げて『否』の意志を示すも、この屋敷では大喬の命が絶対である。まして、下男は先程の人の話をまったく聞かぬ男だったから、周泰が言葉少ななのをいいように取って、他の家人をも呼びつけてさぁさぁどうぞと周泰を引っ張り込んでしまう。
周泰はちらりとに目を遣るが、はで思わぬ展開に気が急くのか、馬車馬の如き視界の狭さで大喬と共に駆けて行ってしまった。
仕方なく甘んじるより他なく、下男の後に従っておとなしく歩き出した。
「ひぃ」
下男の悲鳴に視線を落とせば、周泰の手首は無意識に暁の柄に掛かっている。
どうも、癖らしい。
孫策は、気鬱に任せてそこらを駆け回ってから戻った。
幾ら駆けても気分は晴れず、それで仕方なく帰ってきたのだ。あまり遅くなると、きっと大喬が不安がる。
戻ってもは居ないのだ。けれど、大喬は居てくれる。優しい、愛しい妻だ。
それ以上を望んでは、罰が当たるということなのかもしれない。
だが、胸のきしみは激しくなる一方だった。
こんな弱さは要らないものだ。
どうしたら捨てられるのか、分からない。
周瑜だったら分かるだろうか。賢く冷静な、あの友だったらその方法を知っているかもしれない。
「畜生」
思い切り顔を殴って、活を入れる。
とにかく、大喬を不安にさせては駄目だ。と別れる決意をしてこの方、いつも不安そうに孫策を見つめていたのを知っていた。知っていて、何もしないでいた。
こんなことでは、とにかく駄目だ。
は、城を抜けてきたと言っていた。
らしくもなく動揺してしまって、詳細が聞き出せなかった。
体の弱いを連れてでは、周泰も下手な無理はすまい。ならば、明日の朝一番で追えば、充分に追い付けるのではないか。
幸いにもここは大喬の父が治めていた土地で、亡くなった今もその威光は健在だった。
力を貸してもらえば、何処かで足止めさせておくことも出来るだろう。
そんな算段を組み立てながら、門を潜る。
またが居ないことを思い出し、顔が歪むのを感じた。
はっと気が付き、いかん、と頭を振った。
このままじゃ、俺は本当に
「あ」
「へ?」
屋敷の廊下を歩いていて、不意に聞き慣れない、しかし耳に馴染んだ声を聞き付け、孫策は足を止めた。
中庭を挟んで対面に設えた棟の廊下に、誰あろう当のの姿を見出した。
思わず固まる。
複雑な面持ちのまま視線を絡め、無言で向かい合う。
不意に、の眉がくわっと吊り上った。
「……バーカッ!!」
ば。
思わず絶句してしまい、足音も荒く立ち去っていくをそのまま見送ってしまった。
「あ、孫策様。お帰りなさい」
大喬が白い夜着を手に、ひょっこり顔を出した。
孫策が口をぱくぱくさせているのを、不思議そうに首を傾げて見ている。
その口元には困惑でない微笑が浮かんでいて、孫策は、最早話す言葉を見出せなくなった。