困惑した面持ちだ。
 周瑜は、目の前で黙している孫権を見詰めた。
 見詰められている孫権は、周瑜が不躾に観察しているのも知らずに俯いている。
 当然だろう。
 今、孫権の口から伝え聞かされた話が本当なら、孫権はよく堪えている方だと思う。
 短気なわけではないが、孫家の激しい気性の血筋を色濃く受け継いだこの青年は、怒る時は烈火の如くに怒り狂う。
 よく怒らなかった、と周瑜は感心する思いだ。
 怒りを凌駕するほど強い困惑が、孫権を押し留めたのだろうか。それとも、どちらに対して、否、誰に対して怒っていいのかわからなかったのかもしれない。
 顔にわずかに滲む感情の切れ端めいた色は、決して悲哀などと言う陰鬱なものではなく、暗くは
あっても紅蓮のような黄金の粉の入り混じる炎の色だったからだ。
「如何すれば良いのでしょうか、周兄」
「どう……とは」
 何をするべきか、なのか、何をさせるべきか、なのかで話はだいぶ変わってくる。
 孫権もわからないのだろう。ただ、一人で抱えるのには胸苦しかったから周瑜を頼ったに他なるまい。
 生まれ育ちはまったく異なりながらも、同じ姓の男が仕出かしたという行いを周瑜は反芻した。
 次代を担うべきと本人も含め皆が認める男の想い人に、その弟の腹心とも言うべき立場の男が手を出した。
 しかも、三度。
 事が露見すればただでは済むまい。
 しかし、想い人とやらの立場も対応も微妙なのだ。
 は、あくまで孫策の想いを受け入れてはない。契ってはいてもその態度は時にすげなく時に異様な程厳しく冷淡だ。更に言えば孫策と同じように求愛している男が居るとかで(しかも何人もと聞いている)、それを孫策自身も受け入れている。
 おかしな話だ。
 あまりにも訳がわからないから、周瑜としてはこの件に関わらずに置きたいと常々考えていた。
 まさか、こんなところから係わり合いになるとは夢にも思わない。
「しかし、あの女の方からそんな話があったとは聞いていないが」
 当然騒ぎ出して然るべき事柄だ。
 最初の宴の夜、孫策の手招きに従ってその膝に乗ったの姿を思い出す。あれは、孫策に心を許したという良い表れだったはずだ。
 もし、孫権の言うように周泰が邪恋を抱いて手を出したとすれば、はその行為に怒るなり脅えるなりするはずだろう。
 だが、様子が変わったという話は周瑜の耳には届かない。
 立場上、の様子は事細かに周瑜の耳に届けられることになっている。それこそ茶を淹れる為の湯を何度届けたのということまで耳に届く。
 異変はない。断言できる。
 すぐ態度や顔に出る女だから、隠し果せようなどというのが土台無理な話だ。共に居る星彩とて、もし何かあれば黙っているような女ではないと見ている。
「周兄」
 孫権の声に悲嘆の響きがある。
「とにかく、周泰が罰を、それも厳罰を望んでいるのは間違いないのです。許されないことをしたと、二重に私を裏切ったと自分を責めているのです。今、私の執務室にて見張りをつけておりますが、周泰がその気になれば見張りの気を逸らして自決しかねません。私は周泰を、あの忠実な男を失うわけにはいかぬのです」
 死なせるわけには、ではなく失うわけにはいけないと言った。
 その言葉に、孫権が如何に周泰を信頼しているのかが知れて、周瑜は我知らず笑みを漏らした。
「……笑っている場合ではありません、周兄。私はほとほと困り果て、こうして恥も外聞もかなぐり捨てて周兄を頼ったのですから」
 気持ちを汲んでもらいたいとごねられ、周瑜は再び緩みかけた頬を慌てて引き締めた。
「……しかし、そう、だな……まず、その、周泰が見たと言う話を、もう少し詳しく聞きたい。出来れば本人からと思うのだが……」
 そんなことなら今すぐにでもということで、二人は孫権の執務室に向かった。

 寡黙な武人は、孫権が執務室を出た時と何ら変わらぬ姿勢で二人を出迎えた。
 大きな執務机の前に膝を着いたまま、身動ぎ一つしない。
 見張らせていた武官達を下がらせると、執務室の中には周瑜と孫権、周泰の三人きりとなった。
「周泰、周兄には先程私からすべて話した。お前の口から詳細を聞きたいそうだ。良いな?」
 こくりと頷きはするものの、姿勢を崩すこともない。
 椅子に腰掛けるように言っても、動く気配すらないので辟易させられる。
「私が困るのだ。お前は、この上までも私を困らせようと言うのか!」
 孫権が癇癪を起こしかけ、周瑜がとりなし、周泰も漸う重い腰を上げる。が、椅子に腰掛けても尚膝を着いていたのと変わらぬ威圧感があった。
「……周泰、では、最初から話してくれ」
 周瑜が切り出すと、周泰の目だけがちらりと周瑜に向けられる。
 話したくない、と言っているようであったが、孫権の険しい目に押されて口を開いた。
「……四五日前……の……晩だったかと……」

 月の明るい夜だった。
 凍えるような空気は、それ故かしんと澄み切っていた。
 周泰は埒もなく庭を散策していた。
 時折、無性に人気のない暗闇を歩きたくなる。意味はない。そうしたいと欲するだけだ。特に、己では何ともしようのない事柄にぶつかった時、周泰はそうする。
 の流産は痛ましいことだった。誰も彼もが子の死を嘆き悲しみ傷ついた。
 けれどどうしようもない。嘆こうが喚こうが、失われた命は戻らないからだ。
 それに、子が流れるなど珍しいことでもない。貧しい家なら、母親ごと飢えて死ぬこともある。
 周泰は、幼い頃からそういった悲劇を何度となく見てきた。悲劇とも思えなくなるほど、何度も見てきた。
 だからの子が流れようが、それは周泰にとっては何と言うこともないはずだった。
 なのに胸が痛む。
 痛むが、どうしようもない。
 の子が死んだ夜からずっと、周泰の『散策』は続けられていた。
 とは言え、その晩見た光景は偶然の産物と言うより他ない。
 池の淵でぼんやりと光るものを見た気がした。
 足音を潜め、そっと伺えばそこにが立っていた。光って見えたのは、白い夜着が月光を弾いていたからだろう。
 こんな時間に、何故。
 疑問は周泰から用心深さを奪った。服の裾が枯れた葉に触れ、意外に大きな音を立てる。
 周泰はその習性から、音のした方を振り返るようなへまはしなかった。じっとを見詰め、その動きを見ていた。
 が音に気がついたのは、わずかに揺れた肩の動きでわかった。
 だが、その動きはあまりに鈍かった。
 まるで、亡骸が煌々と光る月に浮かれて動き出したのだと言うように、ぎくしゃくとして不自然な動作だった。
 ゆらりゆらりと揺れながら周泰に向き直ったは、何の表情も浮かべず周泰を見詰めた。
 こと、と糸が切れるように首を傾け、やがて見飽きたかのように顔を背けると、何の気なしに池に向かって歩き出す。
 また落ちる。
 周泰は考えるより先に飛び出し、の体を抱きとめた。
 後一歩遅ければ、の体は池の水の中に落ちてしまったに違いない。ぎりぎりのところだった。
 前回は夏だったが、しっかりと風邪をひいてみせた。今回は冬だ。しかも、今のは普通の状態ではないのだ。
 そう、普通の状態ではない。
 胸の奥底が、膿んだような痛みを訴えた。
「……悲しいの?」
 伸ばされた指が周泰の頬を撫でる。
 頬を撫で、線を辿るように落ちた指は、周泰の唇をなぞった。
「哀しいの?」
 悲しいなら。
 哀しいなら。
 何だと言うのか。
 執拗に唇をなぞる指を、周泰は軽く噛んでやった。
 何故そうしたかはわからない。
 噛んで、やはりどうしてかわからぬままにその指を吸った。
 不思議な味がした。甘いような気がした。
 の指が口の中から去り、が繁々とその指を眺めているのを見て、周泰はようやく己のしたことに羞恥を感じた。
 己はいったい何をしているのかと思った。
 とにかくを室に送ろうと口を開きかけた周泰の眼前で、紅いものがぬるりと蠢いた。
 愕然とした。
 周泰が口に含んだその指を、は己の口に含んで見せたのだ。
 その顔に、表情はない。表情のないまま、周泰を見上げている。
 おかしい。
 このは、おかしい。
 それとも、己が夢でも見ているのだろうか。
 突き動かされるように周泰は身を屈め、の唇に己の唇を重ねた。

「それで?」
 周瑜の催促に、周泰は首を振る。
「……後は……やはり覚束ぬ足取りのまま……室に戻っていきました……扉に入るまでは……見届けております……」
 元々饒舌ではない周泰から、ここまでを聞き出すのに相当の時間を食った。
 と言っても、普通の男ではなかなかここまで淡々と話せる内容でもないから、この場合は良かったと言うべきなのだろうか。
「……次の……日……やはり……池の淵に……居るのを見つけ…ですが……」
「何も覚えていなかった、と言うわけだな?」
 周泰が頷き、周瑜と孫権は同時に溜息を吐いた。
 罰を、と目で訴える周泰に、周瑜は眉間に皺を寄せた。
「しかし、周泰。お前の話が本当なら、あの女も罰しなければなるまい」
 周瑜の言葉が思いがけなかったのか、周泰は珍しく狼狽する様を露にした。
「そうだろう。お前の話を聞く限り、お前を誘惑したのはあの女の方だ」
「……それは……」
 何か反論しようにもいい思案もなく、周泰は黙り込んだ。
「あの女にも何かあったとも聞いては居らぬ。お前が二度目三度目と……その……手を、出した時は……あの女は普通だったのだろう。ならば、お前に何かされたと騒いで然るべしではないか。しかし、そのような話は噂にも聞いておらぬ。であれば、最初の晩の話もあの女の狂言であったと見た方が話は通じやすい」
「……しかし……」
「ああ、わかっている。それでは筋が通らない、おかしいと言うのだろう。であれば、あの女に確認しなければなるまい。お前の処罰はそれからだ。でなければ、あの女にもお前と同等、あるいはそれ以上の罰を下さなければならなくなる」
 いいな、わかったなと何度も言い含め、周瑜は孫権に目で合図を送った。
 孫権からしばらくの謹慎を言い渡された周泰は、しばらく納得しがたい風で愚図愚図とその場に留まっていたが、再度の催促に促されて退室していった。
 周泰が去り、改めて周瑜と孫権は向かい合った。
「嘘を言っているようではないようだ」
「あれは嘘を吐くような男ではありません」
 孫権の信頼は尊いと思うが、それでも周瑜にしてみれば理路整然としているとは言い難い。
 もしもこの場に孫策が居れば、無論の夢遊病の話をしてやったのだろうが勿論孫策はこの事態を知らないのでわざわざ文を寄越すことも有り得なかった。
 よって、二人は額を寄せて考え込むしかできない。
「……思い詰めれば命を投げ出すのも厭わない男です……私は、あまりにも自分のことしか考えていなかった」
 孫権がに密かに想いを寄せていることは、周瑜も既に知っている。
 慰めの言葉を掛けようとしたが、孫権の盛大な溜息に阻まれ叶わなかった。
「私は」
 言い難そうに孫権の目が揺れるのを、周瑜は黙って見詰めた。
「……私は、わからなくなりました」
 それきり黙ってしまった孫権に、だが周瑜は孫権の言いたいことに察しが着いた。
 孫権は、自分がを本当に好きなのかどうか、わからなくなってしまったのだろう。
 元々兄にべったりだった孫権のことだ。その兄が一途に求める女に興味を惹かれても当然といえば当然だったろう。
 己を裏切ることなど微塵も考えていなかった君臣が、裏切りを自ら申告した挙句に厳罰を求めてきたことで、神経質なところがある孫権は混乱してしまっているのだ。
 しかし、周瑜にも今の孫権に何と答えてやれば最善なのか、見当も着かない。
 とりあえず、今夜から周泰がを見たと言う池を見張ってみようということで話を切り上げた。

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