周泰と体を重ねて、あまりに罪悪感がないことには驚いていた。
 孫権の時はかなりへこんだし、凌統に怒鳴られても返す言葉がまったくなかった。
 馬超に抱かれた時とて、趙雲に対して申し訳ないと(すぐさま撤回せざるを得ない程、趙雲はへっちゃらだった訳だが)思ったものだ。
 けれど、目が覚めて、自分の髪を撫で続ける周泰の姿を見ても、の心は平穏だった。
 ありがちな、眠りにかまけて何が起きたか分からなくなるようなこともなく、は周泰の手が暖かさに微笑を誘われる程落ち着いていた。
 馬上で揺られている今でも変わりない。
 周泰も、一見変わらないように見えていたのだが、を前に乗せ思い出したように抱き締めてくるようになった。
 それ以上はないし、抱き締め方もおずおずとした極緩いものだ。
 が周泰の手に自分の手を重ねると、逆に周泰の方が驚いて手を引っ込めて仕舞う程だった。
 やはり、不安なのだろうか。周泰程の男でも、命を落とすのは恐ろしいものなのだろうか。
 そう考えると、胸が痛くなる。
 自分と孫策の馬鹿馬鹿しい行き違いから、周泰を巻き込んでしまった責任を改めて痛感した。
 出来る限りのことを、出来る限りやろう。
 決意も新たにしたは、遠くに見えてきた街の影に何気なく目を向けた。

「あれ」
 何処かで見たような街並に、は思わず声を上げた。
 日が沈んでしまってだいぶ経つ。
 辺りはもう暗闇に包まれていて、人影もほとんどない。
 商売をしている者の家と思しき木窓の隙間から、光がわずかに滲んでいる以外にほとんど灯りはない。月は照っていても、細い道は建物の影にすっぽりと入り込んでしまっていた。
 用心の為か、先程から建物の隙間と隙間を縫うようにして進んでいる。器用に馬を操る周泰は、街に入ってよりずっと無言だ。
 日付からして今日辺りには孫呉の城に戻れるのではないかと踏んでいたは、街に入ったことで周泰はまた自分を抱くつもりなのかと思っていた。
 だが、今日来たこの街は先日の街とは打って変わって整然としていて、追われているかもしれない身の上の二人にはあまり居心地が良くなさそうに思えた。
 それに、街の中心に立てられている櫓の形に、何処か見覚えがある気がして仕方ない。
 月明かりに浮かび上がる櫓は、細い割に高く、安定感に欠いている。
 戦場に設えられたそれとは少しばかり違っていて、常時誰かが居るという感じでもなかった。
 何処で見たのだろうと見上げていると、不意に周泰が馬を止めた。
 目的地と言うにはあまりに暗く、何もない場所だ。
 荷降ろしにでも使っているのか、だだっ広いだけの空き地の真ん中に二人は居た。
 周泰の腕がの前に回り、甲高い音を立てて鞘から暁の刀身を抜き取る。
 それに合わせるかのように、暗がりから数人の男達がばらばらと姿を現した。皆、それぞれに得物を構えている。
 盗賊強盗の類かと身をすくませたに、男達が意外な声を掛けてきた。
「姐さん!」
 え、と周囲を見渡す。
 一人一人に見覚えはないが、憧れるような眼差しには覚えがあった。
「え、錦帆賊の……?」
 が呟くのを聞き逃さず、男達は一瞬にして盛り上がる。
「そうでさぁ!」
「お頭の、甘寧様の手下でさぁ!」
「姐さん、さぞお辛かったでしょう」
「今すぐ、お助けいたしやすからね!」
 何の話だ。
 には理解し難く、しかし止めなければと身を乗り出した。
 ひゅん。
 虚空を切り、何かが飛来する。
 錦帆賊の一人が、もんどり打って倒れた。
 皆が皆、も錦帆賊の男達も、周泰ですらぎょっとしている。
 風を切る音は、矢継ぎ早に鳴り響いた。
 何処から放たれるのかも分からず、錦帆賊の男達は射手を求めて忙しく辺りを見回した。
 その隙を、周泰は見逃さなかった。馬の腹を蹴り嘶かせると、錦帆賊を威嚇させるように蹄が宙を掻く。
 溜まらず避けてかわす錦帆賊の動きを見切り、周泰は馬を疾く走らせた。
 背後から、追え追え、と喚き散らす声が聞こえる。
 細い込み入った道だから、馬の足でも人を振り切れないのは自明の理だろう。
 どうするつもりかと周泰を振り仰ぐと、周泰はを抱えつつ鞍の上に立ち上がる。
 とん、と軽い音と共に、は冷たい風を頬に受けた。
 地面が遠い。
 思わず目を瞑ると、すぐに勢い良く落下していくのが分かる。
 体が弾むが、予想していた痛みはには訪れなかった。
 乱雑な足音と怒声が鼓膜を震わせ、はハッと目を開けた。同時に口を覆われ、声を塞がれる。
 周泰の顔が間近にあり、は周泰の腕の中に居た。目で、黙っていろと告げている。
 も頷き、おとなしくしていることにした。
 音の塊が過ぎ去っていくと、周泰はの口から手をそっと離してくれた。
 喚き立てたくなるが、それをしてはいけないことくらいにも分かる。
 ぐっと我慢して、立ち上がった。
「……ここは」
 二度しか来たことはないが、恐らく間違いないだろう。凌統と伝のある主が経営する、あの宿だ。
 夜のことで人気もなく、姦しい娘達も既に眠っているのか気配もない。
 何故、という疑問が襲い掛かる。
 周泰は、この宿の主に拘りがあった筈だ。好んで会いたいとは思わないだろう。
 それとも、逃げ道に困って偶々ここに逃げ込んだということだろうか。
 それならば、そもそも何故この街に来たのか。方向的には、この街に来るのと城に直行するのとはほとんど大差なかった筈だ。早く戻った方が、孫堅らの心証はわずかでも上がるだろう。
 どうして。
 周泰の視線が、から逸らされる。
 罰の悪さからではないことは、周泰が目を向ける闇から投げ掛けられた声で分かった。
「ご無事ですか、様」
 姿を現した宿の主人の手には、古びた弓が握られていた。

 武人として、一番得意だったのは弓だったそうだ。
 主は、手柄顔をするでなく寂しそうに笑った。
 状況が読み込めないまま宿の中に案内されたは、そこで当帰の姿を見出し駆け寄った。
 当帰は、の体をぐっと引き寄せ、大事な娘が手元に帰ってきたかのように頬擦りをする。
「無茶なことを。何て、無茶なことを」
 他に言葉を知らぬかのように繰り返し、の体をぎゅうぎゅうと巻き締めた。武の極みを目指す男達とて、これ程強くを抱いたことはないかもしれない。
 目を白黒とさせていると、当帰はを奥へと引っ張り出す。
 が尻込みして周泰を振り返ると、周泰は小さく顎をしゃくって『行け』と合図してきた。
 周泰の前に立つ主も、にっこりと笑ってを促す。
 二人だけにするのには気が引けたが、当帰の押しの強さに流されるように室を出た。
「大丈夫」
 不安に駆られるの耳元に、穏やかに説き伏せるような当帰の声が優しく染みた。
「まずは、湯でも浴びて旅の垢を落としてしまおう。随分埃っぽいじゃあないか。ずっと馬の上だったのかい」
 が考え込まないように気遣ってか、当帰の言葉は矢継ぎ早だ。
 しかし、はどうして周泰がここに来たのかを知らない。
 当帰の努力を無駄にするのは気が引けたが、どうしても気懸かりで曇る気持ちは晴れなかった。

 周泰は沈黙を守ったまま、宿の主と対峙していた。
 名前を未だ知らぬことに気が付いたが、今更といえば今更だった。
 主は何気なく立ち上がり、が立ち去ったのとはまた別の扉の前に立った。
「お待たせをいたしまして」
 誰か居るらしい。
 周泰は、手にしたままの暁の柄に手を掛けた。
「やめよ」
 自棄になったようなうんざり声が周泰を打った。
 扉の向こうから姿を現したのは、周瑜だった。
「周泰。お前には呆れたものだ」
「……」
 容赦ない言葉に、周泰は返す言葉がない。
「私の立場を慮ったのやも知れぬが、それこそ無用の気遣い。お前程の男が、先の見えぬことだ」
 周瑜は普段の優雅な立ち居振る舞いを忘れてしまったかのように、乱暴に椅子を引き腰掛けた。
 その眉間には深く皺が刻まれており、美しく整った相貌だけに見る者を怖気付かせずには居られなかった。
「太史慈から話は聞いた。お前の忠心にはいたく感心するが、それだけだ。お前を斬って仕舞いに出来る程、お前の立場も影響力も軽くはないことが何故分からん」
 つけつけと、周泰を悪し様に罵る。
 それは、それだけ周瑜が周泰に信頼を寄せていたことの裏返しでもあった。弟君の面倒は、すべて周泰に託してよいとさえ思っていただけに、孫権ではなくの、しかも暴走を防ぐでなく逆に助力したことに深く落胆していた。
「……」
 周泰は黙っている。
 他の者であれば沈黙していれば良いとでも思っているのか、と詰るところだが、相手は周泰だ。沈黙を旨とする男だけにこれが当たり前で、周瑜も開けかけた口を閉ざすよりなかった。
「それで」
 話の内容が叱責から変化する。
 責めても何も変わらない以上、時間を浪費するのが惜しかった。
「……五日後に……お戻りになると……」
「そうか。……いや待て、何故五日後なのだ」
 が孫策を巻き込みたくないと案じた為だ。それを聞いて、周瑜は形の良い唇を噛んだ。
「……そうだな」
 孫策を巻き込んだ方が、むしろおざなりに事は運べるかもしれないが、臣下への影響は計り知れない。
 の現在の立場が微妙なだけに、今回の件で何がどのように転じるものか、周瑜にも正直読みきれなかった。
 ならば、孫策を介入させぬ方が良い。
 しばし黙考した後、周瑜は結論を出した。
「……周泰。お前には不服だろうが、今回の件はすべてあの女の責とする」
 周泰が身動ぎするのを、周瑜は押し留めた。
「待て、お前の言いたいことも分かる。だが、その方が良い。女の浅はかさで男の下に押しかけたのだとすれば、軍の規律には触れまい。お前は、孫策への忠節を楯に篭絡されたのだ」
 ただの雑兵ならばまだしも、今の周泰の身分立場ではその処刑自体が軍規の混乱を招く。忠臣の鑑と謳われていただけに、その周泰をして背信行為じみた真似を行うとすれば、忠義の道は千々に乱れよう。
 は、蜀の臣ではあるが孫策との仲は既に知れ渡っている。中原の作法しきたりに疎いこともここ最近の訪問で明かされているからには、礼や義を忘れて暴走したとて納まりは着き易い。
「結局は、あの女を助けることにもなる。周泰、ここはお前が引くべきだ」
「……」
 それでは、一人が責を負う羽目になる。
 納得し難い周泰に、周瑜はひたと目を合わせた。
「これを気に、あの女を呉に服従させる」
 ならば良かろう。
 確かに、それが叶うならば周泰に言うべきことはない。
 しかし、出来るのか。
 周泰の沈黙から、素早く疑心を嗅ぎ取った周瑜は、微かに笑った。
「私を誰と心得ている」
 満ち満ちた自信の端を窺わせ、周瑜は席を立った。これで話は終わりだと態度で告げている。周泰も従わざるを得なかった。
 否、この宿に、この街に進路を取った時から、周泰に選択の余地はなかったのだ。
 また、守れないのか。
 そんな悔恨の思いが、周泰の胸を過った。
 突然、甲高い女の叫び声が響いた。
 虚を突かれて一瞬動きが止まり、そのことに深く恥じ入りつつも、周瑜は周泰と主を伴い悲鳴のした方へと飛び出す。
「返して、返しておくれよ! あたしの子だよ!」
「うるせぇ、何をとち狂いやがって!」
 当帰が必死に賊らしき男の一人に取りすがっている。
 粗方立ち去った後らしく、乱れた室内には二三人の男と当帰のみしか居らなかった。
「貴様、魏の者か!」
 周瑜が叫ぶと、男はぎろりと目を剥いた。
「何が魏だ、甘寧様の生え抜き、錦帆賊の名を知らねぇってか!」
 男がわめくも、周瑜の目は冷たく冴える。
「……ほう、お前甘寧の手の者か」
「な」
 甘寧を呼び捨てにされ、錦帆賊の男は目を剥いた。
 周瑜は動揺もない。男をきっと睨んで恫喝する。
「貴様こそ、周公瑾の名を知らいでか! 女を何処へ連れて行った、さぁ疾く言うが良い!」
 周瑜の名乗りに魂も消え入ったか、男達はざっと青褪めて後ろも顧みずに駆け去っていく。
 思わぬ逃げ足の速さに、ただの一人も捕らえることが出来なかった。
 周泰は錦帆賊の後を追って走り出したが、元よりこの街を根城にしているような輩のことで、期待は薄い。
「……何故、甘寧が」
 予想もしなかった甘寧の介入で更にややこしくなった事態に、周瑜の苦悩は深まるばかりだった。

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