が当帰に導かれて案内された室は、暖かな空気に満ちていた。
 背骨にぞくりと寒気が走り、自分が如何に凍えていたのかを思い出させた。
「石をね、たんと焼いておいたんだよ」
 二人の到着が知らされると同時に、当帰は大急ぎで壺に満たした水の中に石を突っ込んだ。床のあちこちが濡れているのは、その時の名残だという。
 いつ到着するか分からないの為に、いつでも湯を沸かせるようにしておいたのだ。慣れない旅路で埃塗れになって帰ってくるだろうには、湯浴みが一番のもてなしだと思ったから。
 問答無用で服を剥かれ、背中から湯を掛けられながら話してくれる当帰に、は何故だか泣き出したくなった。
「……周泰様と、寝たね」
 気持ちが緩んだところにずばりと切り込まれ、は飛び上がるような心持ちで当帰を振り返った。しかし、当帰の顔は笑みを浮かべたまま、自慢のじゃじゃ馬娘を愛しむような優しい目をしていた。
「しょうのない娘だ。男一人も選べないで」
 周泰を選んでのことでもないことも、既に見切られてしまっていた。
「辛いよ」
 たった一人を決めかねるより、さっさと一人に決めた方が余程気持ちは楽になる。好かれた男の数が増えるだけ、はもみくちゃにされるだろうと当帰は言った。
「こういうことは、女も悪けりゃ男も悪いのさ。とどのつまりは、どっちも悪かぁないのさ」
 仕方のないことで、ただ辛いのは辛いからそれは覚悟しておくといい。
 当帰はそう締めくくって、の体を麻布で包んだ。
「……辛いって?」
 不安が露になっていたのか、の顔を見た当帰は吹き出した。
「色々さ。男を上手く窘めてやらなきゃならなくなるし、一晩で何人もさばかなきゃならなくもなる。あんたは体が弱いから、相手に一晩何度までと決めておいた方が良い」
 下世話な話に、の額に汗が滲む。
 体はすっかり温まって生き返った心持ちだが、当帰の言葉に先行きはますます不安になった。
「わ、私」
 何を言っていいかも分からず、は口篭る。
 当帰の笑みが深くなった。
「あんたのお国じゃどうかは知らないが、この国ではそういうのが当たり前さ。何、頭でっかちの儒学者の連中の言うことなんざ、端から無視してやればいい。孔子様ならともかくも、あの連中は自分の言いなりになる奴等以外はすべて敵だと思っているようだ。もっとも、飯の種がなくなっちまったらあの小賢しい口も回らなくなるのだろうから、必死で当たり前なのかもしれないねぇ」
 当たり前。なのか。
 が呆然としている間に、当帰は手早くに装束を着付けてしまう。
 それは、以前凌統に修繕に出してもらった蜀の文官装束だった。
「あたしが坊ちゃんの代わりに預かって、あんたのところに届ける約束になっていたんだよ。取りに来れるか分からないし、さすがに仕立て屋がお城に上がる機なんかないからね。薄手だけれど、あんたにはそれが落ち着くだろう」
 代わりに、下には冬物の厚手のものを二枚着せ付けてある。
 少しばかりもこもこしていたが、暖かさが段違いだった。
「今は暑いかもしれないけど、これから夜っぴてお城に戻ることになるんだから、少しの間のことだ、我慢おしな」
 は当帰の言葉を聞き流さなかった。何処まで知っているのだろうと心配になる。
 当帰は興味本位だけで首を突っ込んでいるのではないだろうが、しかし出来る限りは無関係な人を巻き込みたくない。
 顔色を曇らせるに、当帰は諭すようにその肩を抱く。
「大丈夫、表向き、あたしと旦那様は何にも関わりないことになっている。それというのもね、」
 当帰の言葉はそこで遮られた。
 屈強な面構えの男達がそれこそ七八人、雪崩れ込むように室の中に押し入ってきたからだ。
 思わず甲高い悲鳴を上げたは、それが自分の声だということに驚いてしまい言葉を失った。
 当帰は、背中に庇おうとしたをあっという間に攫われて怒り狂いながら男達に掴み掛かる。
 焼けた石を仕込んだ壺が横倒しに倒れ、熱い湯が辺り一面にぶちまけられる。
 を担ぎ上げた男は混乱に乗じて外に飛び出し、他の連中も後に続く。
 当帰にしがみつかれた男だけ、何故か当帰を殴り倒しもせずに困惑しており、その男を案じているらしい別の男が仲間の去った方と当帰を見比べながらうろたえていた。
 足音も高らかに周瑜達が駆けつけて、男達を魏の手先かと詰る。
 かっとしたらしく、甘寧の名を残し男達は逃げ去った。
 まんまと賊を取り逃がしてしまった当帰は、男達を追い掛けもせずに鬼の形相で怒鳴り散らした。
「鳴花、鳴花、この恥知らず……お前と言う子は、よくもまあ!」
 扉の影で身をすくめていた小娘が、当帰の怒声に押し出されるように飛び出した。
「一度ならず、二度までも。あたしはあんたに言った筈だね、もう二度と、育ててやった恩をお忘れでないよと……それを、まあ!」
「あ、あたしは、別に」
 掴み掛からん勢いの当帰に、鳴花は扉を楯に身を守った。
 周瑜には話が見えず、説明を求めて宿の主を振り返るが、宿の主も苦虫を噛み潰した顔で首を横に振るだけだった。
 女二人の口論は続く。
「何が別に、だい。お前でなくて、誰があいつらを内に引き込めるんだい。一体いつから、お前は賊の手先に成り下がったんだい、ええ!」
「そんな、女将さん酷い……あ、あたしはただ、蜀の文官様が攫われたから、見掛けたら知らせるようにってうちの人に言われてて」
「ほぉう、そんでまた、これは結構と横から攫ってやったという訳かい。お前の亭主とやらも、とんだ悪党だ!」
「うちの人を悪く言わないで! 大体、育ててもらった恩なんか、端から何にもありゃしないじゃないか!」
 鳴花が叫ぶと、真っ赤だった当帰の顔色がすぅっと青白く褪めていった。
「なら、出てお行き。うちには、賊の手先に食わせるようなお飯はないよ……とっとと、その身一つで出てお行き」
 さぁ早く、と裏口を指差され、鳴花はわっと泣き伏した。
 望みもしない修羅場に、周瑜は眉を顰める。
 当帰は溜息を吐くと、周瑜を振り返り頭を下げた。
「どうも、面目もございません」
 苦い顔をしている。育ててきたと思っていただけに、裏切られた衝撃は周瑜の想像を遥かに凌駕するのだろう。
「……以前にも、引き込みのような真似を仕出かして、うんと叱り付けておいたつもりでしたが懲りもせず……連中がたむろしている場所は、幾つか心当たりがございます。若いのを手配して、早速」
「いや」
 それでは事が大掛かりになり過ぎる。
 周瑜は未だ泣き伏している鳴花の傍らに膝を着き、その肩を優しく叩いた。
「お前はもしや、あの女の行く先に心当たりがあるのではないか」
「し」
 知っていても教えるものか、とでも喚こうとしたのだろうか。しかし、鳴花は周瑜の顔を間近で見るに及び、一瞬で言葉を失い頬を赤らめた。
「あ、の、あたし」
 賊の手先なんか勤めるつもりではなかった、と言い訳がましく言い募る鳴花に、周瑜は忍の一文字で優しく頷いた。
「分かっているとも、お前はただ頼まれて断れなかっただけだ。だが、あの女をこのままにしておけば、騒ぎが大きくなってお前も罪に問われることになる。女の行く先を教えてくれたなら、私の力でお前だけは罪に問われぬように計らってやろう。どうだ」
 鳴花はまだ何か渋っているようだ。ぴんとくるものがあって、周瑜は迷わず言葉に直す。
「……無事に事が収まった暁には、お前には何か礼を用意しよう」
 それでようやくにっこり笑い、すっくと立ち上がる鳴花に周瑜は内心呆れていた。
 戦乱に追われ、運良く宿の主に助け出されたせいか、どうも世間の荒波に疎くそのくせちゃっかりとした性質に育ってしまったらしい。
 商人の気質ありと言えば言えたが、誠実さを欠いてはいずれ足元をすくわれかねない。
 主も頭が痛いらしく、周瑜と目が合った途端に申し訳なさそうに頭を下げて寄越した。
「馬を出して下さいな。奴等の根城まで、少しばかり距離がありますからね」
 ふふん、と如何にも小憎たらしく鼻で笑う鳴花の様に、当帰は歯軋りせんばかりの獰猛な視線を向ける。
 女同士の熾烈ないがみ合いに、宿の主は元より周瑜も頭が痛かった。

 周泰は、賊の後を追っていた。
 着かず離れず、ひたひたと足音のみに追われるような錯覚に、前を行く錦帆賊は血の気が引く思いだ。
 あからさまに泳がされている。
 それと分かっていて周泰を撒くことも出来ず、かと言って真っ正直にねぐらに案内する程馬鹿でもない。
 ええい、ままよと男達は目線で合図し、極寒にも関わらず街に巡らされた濠の中に飛び込んだ。水賊ならではの最後の手段だったが、どのくらいで体が言うことを聞かなくなるか、ある程度は読み込めるが故の確実な手段でもあった。
 水に慣れ親しまぬ者では、溺れて死ぬのが関の山だ。
 けれど、錦帆賊の男達は失念していた。
 周泰もまた、水賊の出だったのだ。
 迷いもなく濠に身を躍らせると、装備の重さを毛程も感じさせず錦帆賊の男達を追う。
 意表を突かれた周泰の行動とその水練の凄まじさに恐慌し、錦帆賊の男達の体は予想外に早く強張り、みるみる重くなっていく。
 周泰が助け出さねば、恥さらしさながらに溺れ死んでいたことだろう。
 ともあれ、濠から引き上げられた錦帆賊の男達の一人は、ただ一番近くに居たと言うだけで息も絶え絶えなところを無言で締め上げられる羽目になった。
 文字通りにぐいぐいと締め上げる周泰に、男は堪えきれなくなって悲鳴を上げた。
「わ、分かった、分かった。連れて行くから、もう勘弁してくれ……!」
 ようやく楽に呼吸することを許された男は、喉輪をさすりながらよろよろと歩き出す。
 不意に足を止め、許しを請うようにおどおどと周泰を振り返り、無言の威圧にどやされるようにして再び歩を進めた。
 取り残された男達は、精も根も尽き果てたという態でうずくまっていた。
 が、周泰達の姿が見えなくなったのを見計らい、寒さと疲れで不自由な筈の体を起こし、再び走り出した。
 男達は、周泰を案内して行った男の視線の合図を見逃さなかった。
 の安否に気が急いていたせいか、ただ振り返っただけの男の目線の意味するところを周泰は気付けぬままだった。
 夜の眠りに就いた街中で、再び茶番劇が始まろうとしていた。

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