当帰の心遣いのお陰で、湯冷めすることもなくは外気に冷え込んだ街中を運ばれていた。
錦帆賊の男達と分かっていれば、それ程怖くもない。
ただ、何のことや知れんと、状況に対する無知がを困惑させていた。
「あのう」
「黙って、姐さん。舌を噛みますぜ」
男の一人に担ぎ上げられたを、併走していた男が窘める。
その男の顔は何処か嬉しげで、『やってやった』的な達成感に満ちていた。
恐らく、というより十中八九の確率で誤解があるのだ。
その誤解を解こうにも、状況が分からないでは何ともしようがない。
なので、先程からはそれを尋ねようと口を開くのだが、その度に窘められて閉口してしまう。これでは埒の明けようもない。
そうこうしている間にいつもと違う見知らぬ建物に連れ込まれ、更に奥へと運ばれる。
「お頭っ!」
「うるせぇ、馬鹿野郎っ!」
喜び勇んで飛び込んだ手下達に、甘寧の罵声が飛ぶ。
が恐々後ろを振り返ると(肩口に担ぎ上げられていたのだ)、甘寧は簡素な寝床の上で胡坐を掻いて俯いている。
どうやら、熟睡しているところを叩き起こされてしまったものらしい。あまり寝起きが良くない性質なのか、あー、だのうー、だのと呻いている。
の隣で寝ていたことも何度かあったと思うのだが、ここまで寝起きの悪い甘寧を見るのは初めてのような気がする。他人が横に居ると、寝床が変わるのと同じように寝起きの度合いも変わるものなのだろうか。
「いや、お頭」
「何が嫌だ、嫌ならとっとと消え失せろ」
「そうじゃなくて、お頭」
「曹だ? 当ったり前だろうが、胸糞悪ぃ名前出すなボケ」
完全に寝惚けているのか、顔を上げる様子もない。
折角努力奮迅してきたのを相手にもしてもらえず、錦帆賊の男達がしょんぼりと項垂れる。
攫われた身で言うことでもないが、何だか可哀想になってきた。
「お頭」
「気色悪い声出すんじゃねぇ」
思い切って声掛けるもむげにあしらわれ、もどうしていいか分からない。
と、のたのたとのたうっていた甘寧の動きがぴたりと止まった。
ぱっと顔を上げた甘寧は、切れ長の目をそれこそ目一杯広げる。
ああ、ようやく起きたと一同が安堵した瞬間、甘寧の怒声が高らかに響き渡った。
椅子に腰掛けてはいるものの、行儀悪く足を投げ出した甘寧は非常に機嫌が悪かった。
はそのすぐ斜め横に座らされており、二人を隔てるものは何もない。
甘寧の反対側には卓が置かれ、酒壺と椀が添えられてはいるものの、甘寧がそれを口にすることもに勧めることもなかった。
沈黙が肌に痛い。
「……あの」
途端、甘寧の目が殺気を帯びてを睨め付ける。
先程からこんなことの繰り返しだ。
説明しようと口を開くと、甘寧に凄い目で睨まれる。首をすくめてが黙ると、甘寧は視線を虚空へと戻す。
話も進展しないし、これでは何も出来ない。
「……あのね、お頭」
睨まれる。
しかし、怖気付いてばかりも居られない。当帰や周泰がどれ程心配しているか考えると、も胸が痛かった。
「私、一度帰してもらえないかな」
「帰るって、何処にだよ」
そんな風に聞き返されるとは思わなかった。
口篭ると、甘寧はの襟首をむんずと掴み、ぐいと引き寄せる。
「前に言わなかったか。蜀でも何処でも、帰りてぇなら俺が帰してやるってな。何で俺に言わなかった。俺ぁ、そんなに頼りにならねぇってか」
「へ」
甘寧が怒っている理由が理解できない。
帰りたいと言ったのは、宿に一度帰してもらえないかという話だ。蜀がどうこう言う話ではない。
としては、会話の流れからすれば分かって当たり前の流れなのだが、甘寧はどうも勘違いしているらしい。
考えてみれば、つい先程まで寝ていたのだから、理解できなくて当然かもしれない。
「……あのね、お頭。私、別に蜀に帰ろうとしてた訳じゃなくてね」
まずは誤解を解こうとが切り出した時だった。
「お頭! 黒幕が分かりやした!!」
ばん、と勢い良く扉を開き、転がり込むように入ってきた男が居る。
話の腰を折られたことも忘れ、が振り返ると、男はぱっと顔を明るくした。
「姐さん、ご無事で!」
「は……へ?」
どうも何処かで見た顔だが、思い出せない。
ご無事も何も、一番外敵のいなさそうな場所に居たのを、拉致同然に連れ去ってくれたのは錦帆賊だった。そう思い返した時にふと、あの時自分を攫った内の一人かもしれないとは思い当たった。ばたばたしていてよく分からなかったのだが、こんな顔の男が居たような気がする。
「そんなことより、黒幕ってなぁ何処のどいつだ」
視線も険しい甘寧に、錦帆賊の男は大きく頷いた。
「へい、それが何と、あの周都督で!」
黒幕。周都督。何のことだ。
いきなりの展開に目を点にするしかないと違い、甘寧はそれまでの不機嫌を戦前の昂揚に変化させ、俄然やる気の態で仁王立ちした。
をくるりと振り返り、重々しく頷く。
何、その納得顔。
胸の内で突っ込むも、声になっていないのだから甘寧に届く由もない。
「成程な。どおりでお前ぇの口が重い筈だ。寄りにもよって、あの美周郎が絡んでるときちゃあ、言うに言えねぇ筈だわな!」
「え、いや」
「野郎ども!!」
違うと言い掛けたの言葉は、甘寧の鬨の声で掻き消された。
「性懲りもしねぇあの取り澄まし面に、一発かましてやろうぜ!」
何処から現れたのか、わらわらと室内に踊り込んできた男達が一斉に雄叫びを上げた。
ご近所迷惑だ、とずれた焦りを抱きつつ、は何をどうしたらいいのかを見失って辺りを見回す。
「姐さん、ご心配なく!」
「二度とこんな真似ができねぇよう、俺達できつく仕置きしてやりまさぁ!」
見送っている訳でも声援を送っている訳でもないのだが、錦帆賊の男達はどうも良いように捉えてしまっているらしい。口々に頑張ってくると手を振ってくれるのだが、むしろ頑張らないでいただきたいにとってはかなりいただけない状況だった。
「ま、待っ……」
大声を張り上げようとした途端、先頭の方で何か起きたらしい、わっと騒ぐ声が突然起こった。
が飛び出そうとするのを錦帆賊の男達が抑えようとする。
真っ向から張り合っても武人の腕力に敵う筈もなく、しかし妙な不安に襲われて、一刻も早くと気が急くは非常手段に訴えることにした。
「痴漢!」
の周りに居た男達が、一斉に両手を挙げて飛び退る。
その隙を逃さず、は脱兎の如く駆け出した。
男達の人垣を無理に抜ける。
最初は押すなと怒鳴りに振り返った男達も、相手がだと見るや慌てふためいて退いてくれた。
錦帆賊のねぐらの前にある、小さな広場状に開いた場所に二人の男が立っている。
片や、炎が燃ゆるが如くの赤の衣装の甘寧。
片や、闇に沈み込むような黒の衣装の周泰。
傍から見れば、千両役者と声掛けたくなるような美しい色彩の極みだった。
各々の手には得意の得物が握られて、いざ刃を交えんとばかりに鋭い気が放たれる。
「……まさかお前ぇが、を連れまわしていたとはな」
「…………」
すぅっと甘寧と周泰の腰が落ちる。
「だ」
「やめぬか、馬鹿者!」
が声を張り上げようとした時、割って入ってきたのは周瑜だった。その背後には宿の主と得意顔の娘を連れている。
錦帆賊の男達の中から、『鳴花、テメェ』と声が掛かったところを見ると、この娘が周瑜を連れて来てくれたものらしい。
でも、今周瑜が来たら。
の不安は的中し、甘寧を筆頭とする錦帆賊の男達の殺気は一気に膨れ上がった。
「ずいぶん、面白い真似してくれるじゃねぇかよ、美周郎さんよぉ」
ぎらぎらと光る目は、最早味方を見る目ではない。
「何の話だ」
周瑜は、常の凍るような眼差しと声音で応じる。こちらも味方に対するものとは到底思えない。
「あんたがを目の敵にしてんのは知ってたぜ、だがなぁ、これはちっとやり過ぎってもんじゃねぇのか。なぁ」
一対一を線で結んでいた闘気が、周瑜の登場によって乱れ始めている。
乱戦になる、とは何故か覚った。
それはまずい。場が混乱すれば、それだけ鎮まるのに時間が掛かってしまう。甘寧や周泰、周瑜はまだしも、錦帆賊の男達の内、幾人かは必ず怪我をするだろう。最悪、死者が出かねない。
ぞっとした。
かつての記憶がを脅かした。
生温く鉄錆び臭い匂い、ねっとりと頬にこびりつく血の感触を、は決して忘れていない。
は、ちょうど三角に開いた空間に飛び出した。
「ちょ、ちょっと待って。お願いだから、待って!」
ぐるりと見渡せば、集った男達のそれぞれの手に刃が握られている。
剥き身の刃に取り囲まれて、は瞬時に恐怖に叩きのめされそうになった。
でも。
歯を食い縛る。
でも、頑張れ、私。
詰まらないことで、詰まらない事態に陥るのはもう御免なんだから。
この場を仕切っているのは甘寧、周泰、周瑜の三人だ。内の、周泰と周瑜はまだ冷静。一番頭に血が上ってしょうもないことになっているのは、間違いなく甘寧だ。
ばっと勢い付けて甘寧に向き直ると、は四肢に力を篭めて歩き出す。
手と足が同時に出ているのは、この際ご愛嬌だろう。
甘寧の前に立ち塞がると、甘寧の視線は先程とは比べ物にならない程殺気だっていて鋭い。かちかちと歯が鳴るのが、自分でも良く分かった。
「……退け、」
声が出せない。怖かった。
しかし、ならばとは首を大きく横に振った。
鼻から大きく息を吸い、口から出す。首の下から背中にかけて、冷たい汗がじっとりと滲んだ。
「お頭、誤解してる」
「誤解じゃねぇ」
「誤解だよ」
「違う」
いつもの甘寧ならば、怒鳴り散らすのが旨だろう。静かに応じているのは、それだけ怒り狂っていることの表れに思えた。
怖かった。
「私が、誤解だって言ってるのに。どうして、聞いてくれないの」
甘寧の目が更に鋭く光さえ放ち始める。
四肢の戦慄きが大きくなった。恐怖から漏らしそうになっても、けれどは引けなかった。
「……退け、」
「いや」
「ぶった斬るぞ!!」
甘寧が、キレた。
戦場での恫喝そのままの激昂に、の両目は勢い良く固く閉ざされる。
立ちすくんだまま、その身も固まってしまったの肩を、甘寧はおざなりに退かそうとした。
その手を、がしっと掴む者が居る。
だった。
目は閉ざしたままだ。恐怖に引き攣った眉も、噛み締めた口元も、先程と何ら変わりはない。
「おい……」
いい加減にしろよと押しのけようとした途端、は思わぬ電光石火の早技を見せた。
甘寧の口を、己の口で塞いだのである。
唖然。
周囲の度肝を抜く行為に、誰もが動けなくなった。
いち早く我に返ったのは甘寧だが、を押しのけようにも何処にこれだけ力があったかと思うような剛力で、甘寧の唇をぴったり塞いでしまっている。
「……んんっ!!」
何事か喚こうとしたらしい甘寧だったが、口を開けた瞬間の舌が絡み付いてきた。
ぞく、と腰骨から背筋に掛けて走る寒気が、甘寧の足から力を奪った。
引っくり返るも、はどう体をさばいたのか衝撃を難なく殺し、執拗に甘寧の口中を犯す。甘寧が下になってやりやすくなったとでも言わんばかりに、四つん這いに甘寧を組み敷いて口付けを続けていた。
甘寧の喉がぐびりと鳴り、併せて見物客に成り下がった錦帆賊の男達の喉もぐびりと音を立てる。
周瑜は眩暈を感じて額を押さえた。
長い長い口付けが終わり、が口を離すと同時に甘寧は横を向いて咳き込んだ。
無論、殺気など微塵もない。すべて吸い取られでもしたかのように消え去っていた。
も甘寧の上に跨ったまま、荒い息を継いでいる。
「……」
そのが、よし、と拳を小さく握ったのを、周泰は複雑な思いで見守っていた。