「何しやがる」
甘寧の言葉は至極もっともに聞こえた。
ぐったりと疲れ切ったような声音は、真実疲れ切ってのものだったろう。
はしたなくも甘寧の腹をまたいだままのは、呼吸を整えるのに気を取られていたのか目線で甘寧に問い返す。
自棄気味の甘寧がもう一度繰り返すと、は投遣りに頷いた。
「うん、ご馳走さま」
それで、甘寧の意気は完璧に沈んだ。
男三人が疲れたような面持ちをしているのに比べ、は一人元気だった。
手酌で酒を注ぐと、ちびちびと舐めている。
「……あー」
周瑜が珍しくやさぐれた唸り声を上げた。
「説明しておこう、か。……私は、太史慈に報告を受け、この女……が、孫策の元に向かったことを知った。蜀の文官が呉の領土を許可もなしに闊歩したとあっては、大事になる。周泰が連れ出したと聞いていたので、道中の安否は心配しなかったが……堂々と城に戻られては策の立てようがない。当帰とは面識があったから、密かに繋ぎを取り……当帰がその主人に依頼し、何とかしてが城に戻る前に捕まえてもらうよう手配した、とこういう次第だ」
周瑜から視線を送られた周泰も、重い口を開く。
「……宿に泊まった時、主が現れた……」
はその話を知らなかった。が眠っている間のことだろうが、教えてくれれば良かったのに、と、ほんの少しだが思う。
だが、主の思惑どおりに従うことを言いたくなかったのかもしれないと思うと、むげには責められなかった。周泰の過去は、それだけ複雑に彩られていたからだ。
次に甘寧に視線が向けられ、甘寧はだるそうに首を回した。
「……おっさんが、よ。細かいことは言えないが、が姿を消したってよ。もしも見っけたら、城に戻る前に匿ってやってくれとよ……こう、頭下げたもんだから、俺も手下に探させてたと、そんなワケだ」
事情をさっぱり掴めぬまま、とにかく探してくれと言われた甘寧は、当初はが蜀に向かったのではないかと疑った。
孫策との件で気落ちしていたのは知っていたし、丸四日以上寝こけるという離れ業をしてのける程には傷付いたのだろうと想像した。
ただ、自分を頼れと言い聞かせてはあったし、何の挨拶もなしとはどういう了見だと腹も立った。
とは言え、本当に蜀に向かっているのかも定かではない。
では、他にどう考えようがあるか。
色々考えた。
攫われたのかも知れぬ、諸葛亮の策でとっとと逃げ出したのかも知れぬ、知れぬ知れぬで甘寧の苛々は募るだけ募ってしまった。元より、ごちゃごちゃ考えるのは苦手な性質だ。
それは錦帆賊の男達も同義で、甘寧は正直に詳しいことが分からないと話してやっていたから、勝手気ままに悪い想像ばかりを膨らませ(この点錦帆賊達は甘寧への心酔度が強く影響しており、が甘寧に挨拶なしに去る訳がない、ないから攫われたに違いないということで一致していた)、犯人を見つけ次第ただじゃおかねぇのぶっ殺してやるの、物騒な気合ばかりがどんどん高まったという次第だ。
当帰に乱暴しなかったのは、単に仲間の情婦たる鳴花の育ての親とも言うべき女であると、ただそれだけの話であった。賊とは言え元が付く。今や呉軍の主力を担う男達であるから、多少の分別くらいは付くようになったらしい。
ただ、見るからに腕の立つ男(周泰)がを運んでいること、また、思わぬ場所で周瑜に出くわし、甘寧達の思考は一気に固められてしまった。
実は周瑜が黒幕で、孫策が居ない間に孫策に悪影響を及ぼす(これは周瑜の思惑に合致しているからあながち否定も出来ない)を排除しようとしたのだと、なまじ綺麗にまとまってしまったものだから疑問を挟む余地もなく頭から信じ込んだ。
が深々と溜息を吐く。
情熱大陸の人々が誤解に至るまでの速度たるや、赤兎馬をも上回る。
「……違うって」
「……分かってるって」
唇を尖らせて如何にも不貞腐れているその様は、本当に分かっているのか怪しいものだ。
「呂蒙には、私から伝えたのだ。なまじ学問の面倒などを見ていたから、居なくなったことにすぐ気が付くだろうと思ってな……」
却って裏目に出たか、と周瑜は悩ましげに眉を顰める。
最後に、が補足を兼ねて事の顛末を語った。
「私がね。伯符……孫策様に、せめて振られた理由を聞きに行こうって思い付いちゃって。太史慈殿は、せめて周瑜殿に相談をしろって言ってくれたんだけど、周泰殿は、周瑜殿にも立場があるからって。自分が責任取るってことにして、連れ出してくれたんだよね。私も、もっとちゃんと止めれば良かったんだけど」
「……」
周泰は無言で、しかし微かに首を横に振った。
無理矢理連れ出したのは自分だ、に責はない……そう言っているように感じられたが、それで済む話ではない。
「聞いてきたのかよ」
甘寧が問うと、は急に態度を投遣りにして椅子の背もたれに顔を伏せてしまった。
「おい……」
「きーてきた」
察しろ、と態度で示すのだが、甘寧にこの手の微妙な要求をするのは土台無理な話なのだ。
「誤解だった」
はああ、と嫌みたらしい溜息を吐くと、はぼりぼりと頭を掻く。
とても嗜みを弁えた女の態度とは言えず、周瑜の眉間に皺が寄る。
「……何つったらいいかなぁ……伯符は、私に振られたと思ってた、らしいのね」
沈黙が落ちる。
それはそうだろう、孫策が語らずに去ったせいもあるが、の話では別れを切り出してきたのは孫策の方だったのだから。
「うん、でも、私はほら、『もうやめる』って言われて、だから振られたんだなぁって思ってた訳で」
言い訳を良しとしないのは孫策の利点だろうが、ここまで裏目に出ると笑えもしない。
「……そちらの誤解は、解けたのだな?」
帰ってくるとは聞いていたものの、詳細を耳にするに及び確かめずには居られない。
はい、とが頷くのを見て、周瑜は深く息を吐き出した。
「何と言う、馬鹿な話だ……」
周瑜の嘆息も分かるが、まずは周泰の進退問題を何とかしてやらなければならない。馬鹿な話だというなら尚更だ。
「それについては、私に考えがある」
周瑜の案に、周泰は嫌そうな顔をし、甘寧は複雑な顔をした。
一人が、晴れやかに笑った。
「そうするのが一番いいなら、私は全然、構いません」
望むところだと胸を張るに、周泰は気遣わしげに目を顰めた。は、案じるなとばかりに微笑んでみせる。
二人の様を見ていた甘寧は、不意に口をへの字に曲げた。
「お前ら……」
ん、と顔を向けるは、いつもと何ら変わらないように見える。
それで甘寧も口を閉ざし、話は終わった。
「では、出立するぞ。思わぬ手間を食ったが、城に戻るにしても夜陰に紛れての方が具合がいい。夜が明けぬ内に城に辿り着かねば、却って目立つ羽目となる」
嫌味交じりに周瑜が宣言し、それを受けて達も立ち上がる。
「まぁ、待ってくれよ。どっちにしても目立つことには変わりねぇ、そうでしょうが」
怒りが鎮まったせいか(多少)丁寧な言葉遣いに戻った甘寧が、にっかりと笑って引き止める。
「、お前ぇ、馬には乗れたな?」
何を言い出すのか分からず、はとりあえずの態で渋々頷いた。
周瑜は、一度城に戻り手筈を整えると言って出て行った。
残されたと周泰は、そのまま錦帆賊のねぐらに留まることになった。
当帰が心配しているから、と一度は戻ろうとしたのだが、これ以上うろついて誰かに見られたらまずいだろうと甘寧に諌められた。それで伝言を主に託し、逗留を決めた。
出立するのも、朝一番で出る訳ではなく、夕方辺りに城に着くように調整するから今の内に寝ておけと勧められる。
「明日には、牢獄の中かもしれねぇしな」
甘寧の軽口は、しかし洒落にもならない。明日の今頃は、本当に牢獄に入れられているかも分からないのだ。
用意された室で、借り受けた上掛けに包まって眠る。
牀は簡素なものだし、布団のように柔らかくもなかったが、当帰が着せてくれた装束のお陰かそれ程寝心地は悪くない。
暖かさと疲労に釣られて眠気が襲ってきた。
何処でも寝られるのは、特技にしていいと思う。
明日は明日の風が吹くさ、とが眠りに就こうとした時だった。
すっと冷たい空気が頬を打ち、は閉じかけた瞼を開けた。いつの間にかすぐ傍に周泰が立っていて、を見下ろしていた。
「しゅ」
声を掛けるも、すぐに堰き止められてしまう。
強引な口付けは、彼の人となりにそぐわぬものだ。舌が侵入してくると、執拗に絡んでくる。応える暇も与えない。何度も角度を変えて重ねられる口の端から、唾液が糸を引いて滴った。
口付けを終えた周泰は、その唾液が描いた線を舌で丹念に拭う。
首筋に舌が触れると、体が愉悦を覚えてひくんと跳ねた。
周泰の意図が見えず、は困惑した。
しようとしていることはさすがに分かる。
けれど、まさかこんな場所でとは思わない。他の室では甘寧や錦帆賊の男達が寝ているのだ。
「……周泰殿」
肩を叩いてなだめすかすのだが、周泰はお構いなしにその先へと進もうとする。
襟を大きく寛げられてしまい、さすがにもうまずいもう駄目だという気持ちが強くなってきた。
「だ、駄目ですって」
声を出して意思表示し、周泰の手に手を重ね何とかして思い留まらせようとする。
と、周泰の動きが止まった。
やっと分かってくれたとほっと息を吐くと、周泰はではなく扉の方を見ている。
え、と顔を向けると、そこに甘寧が立っていた。
一気に血の気が引く。
慌てて襟元を引き寄せ、露になった肌を隠した。
周泰は無言で立ち上がり、さっさと室を出て行ってしまう。残されたは、口を閉ざしたままで何を考えているかも分からぬ甘寧と二人きりにされてしまった。
沈黙が肌に痛い。
「……えー……と……」
せめて言い訳を、と考えた訳ではないが、何か言わなければと追い詰められたが口を開く。
甘寧が動いた。
牀の上にうずくまるの顎を捉えると、ぴったりと唇を合わせてしまう。
「……っ!!」
もがくも、唇をこじ開けて突きこまれた舌がから自由を奪う。柔軟な動きでを翻弄し、自らの口中にの舌を招き入れ奔放に嬲る。
突っぱねようとする動きを逆手に取られ、背中から牀に倒されてしまうと、もうに逃げ道は残されていなかった。
呼吸をすることも忘れてしまい、次第に体が痺れたようになって言うことを聞かなくなる。
頭の中が真っ白になり、全身から力が抜け落ちる頃、ようやく解放された。
身をよじって軽く咽る。
耳元に、熱い吐息が触れた。
「ご馳走さん」
くく、と小さく笑い、甘寧はから身を離した。冷たい空気が、熱を帯びた肌をひんやりと冷ます。
甘寧は、そのまま何事もなかったように出て行ってしまった。
扉の閉まる音に、先程の仕返しをされたのだとようやく気付いたは、思い出したように罵声を浴びせてやろうとして散々に咽込んだ。