昼も近くなって、ようやくは起き出してきた。
昨晩とは打って変わって不機嫌そうなと、これまた逆に酷く上機嫌な甘寧の様に、錦帆賊達は『お頭がやりなすった』と一様に納得した。
実のところ、甘寧がに押し倒されたことで錦帆賊の間には少なからず動揺が走っていた。
あんな文官如きにいいようにされてしまった甘寧への失望もあったし、あの甘寧の腰を抜かさせたの絶技に男としての本能をくすぐられてもいた。
怪しい気配に甘寧の副官を務めていた杜峻も肝を冷やしていたのだが、一晩経って立場が逆転した二人にどうやら事なきを得られそうだった。
にはお頭なりから一度注意をした方が良いかもしれない。どんな田舎で育ったか知れないが、中原の男達がどういう性質のものなのかを教わってもらい、もう少し用心して欲しいものだと思う。
「姐さん、それじゃあこれを着ていただけますか」
杜峻が差し出した装束を、は邪気のない顔で見下ろし、そのまま杜峻を見つめ返してきた。
本当に無用心だ。何の警戒心もなく、人の目の奥底までを覗き込む。
苦笑いが零れるのを、は困ったような顔で見上げていた。
「甘寧以下、罷り通るぜ!」
雑な報告、しかも暴走するが如く駆け抜ける馬煙を、門兵達がどう思っているかは分からない。
しかし、これが常なのだろうことは静止の声も掛からないことで知れた。諦めているのだろう。
お陰ではすんなりと呉の居城に戻ってくることが出来た。
猛る馬の背にしがみつくようにして、しかも着慣れぬ鎧を身に纏ったがそれと実感できるのは、もう少し後になってからだったが。
一気に駆け抜けるような馬の背に身を低くして乗るのは極自然なことで、しかも馬上にあるから背の大小はしかとは分からない。
さすがに周泰の隣にが居てはばれ易かろうということで離れた位置に居たのだが、それでも錦帆賊の男達の(文字通り)厚い守りに守られて、は落馬することもなく城の中に入ってこれた。
逢魔が刻の薄闇が、人相を上手く誤魔化してくれたのも大きかったかもしれない。
厩の片隅に身を潜め、は息を整えながら埒もないことを考えていた。
少し外を出歩いただけで、命に関わるような体験をしたことなどない。が生まれ育った世界では、誰もが自由に外を歩く。国外へ旅に出たとてそれは変わりない。紛争やテロに巻き込まれたとしても、基本的に外国人の身の保障は国家によってなされる。
ここは違う。
同盟を結んでいたとしても他国同士、いつ戦に発展してもおかしくない細い危うい均衡で結ばれている。
実感がないでは済まされないから、敢えて意識するようにすれば、余計に重く苦しく感じる。
城に無事に潜り込めてからというもの、大きく揺れる振り子のように楽観と悲観を行ったり来たりで、は体よりも神経の方が参ってしまいそうな心持ちに陥っていた。
厩には、一人しか居なかった。
周泰は、その際立った長躯からあまりに目立ち過ぎる。厩ではその図体で隠れられる場所もないということで、とは別に時が来るまで隠れ潜むことになっていた。
よりも遥かに城内に詳しく、また気配を殺すことに長けた周泰なら、特に戒厳令を布かれた訳でもない城の中に一人で潜むことなど何と言うこともなかろう。
甘寧は、少し待っていろと言い残して錦帆賊と共に出て行ってしまった。
着いたばかりの甘寧が、いつまでも厩から出てこないでは却って疑われる。
他の馬の世話はもうとっくに終わった頃合だったし、甘寧達は自分の馬は自分で扱う。迂闊に顔さえ出さなければ、馬以外にの所在を見咎める者は居ないとのことだった。
それでも、万が一がある。
不安に拍車が掛かり、身を縮こまらせていたの耳に、望むべくもない足音が届いた。
慌てて厩の隅に身を潜めるも、下手な位置取りをしては馬に蹴り上げられかねない。
柱と柱の隙間に出来た狭い窪みに体を押し込める。少しは死角になるのではないかと期待したが、自分では良く分からない。
足音はどんどんと近付いて来て、それに釣られての心臓もどくどくと早い鼓動を刻み始めた。
よもやこの音で感付かれはしないかと思うと更に落ち着かなくなってくる。
この時点で、相手が甘寧だとは思わない。甘寧ならば、もっと手前での名を呼ぶなり駆けつけてくる筈だからだ。
足音は静かに、ゆっくりと進んでくる。柱の隙間に身を潜めたものだから、向こうからも見えないかもしれないがからも相手の正体が確とは分からない。
ざっと鋭い音と共に、柱の影から現れたのは呂蒙だった。
ほっとして体の力が抜ける。
呂蒙は、の姿を認めると足早に近付き、その頬を打った。
暗くなるのを待って、は呂蒙の先導の元、厩から一番近い甘寧の室へと移動した。
庭の木々を抜け、開け放たれた窓の明かりを頼りに進む。
程なくして甘寧の室の裏手に出て、達の到着を待っていた甘寧が待ち焦がれたように窓から顔を覗かせた。
「……どうした?」
ずっと頬を押さえたままのの片手に、甘寧が目を留める。
「なんでも」
窓枠に手を掛けたの体が、急にふわりと浮き上がった。
呂蒙がの腰を抱き上げたのだ。
それを甘寧が受け止めて、は楽々と甘寧の室に入ることが出来た。呂蒙は、身軽に窓枠を飛び越えて続く。
の手は、また同じ頬を押さえていた。
「……どっかで、打ったのか?」
見た感じ、腫れてもいないし痣にもなっていない。甘寧が不思議がるのも無理はなかった。
打たれたと言っても、触れるのより少し強い位の力でしかなかった。
けれどは心底驚いたし、それに見合う痛みも感じた。
何より、を見つめる呂蒙の苦々しい目が、に強い痛みをもたらしていた。
頬に触れるのも、無意識の内のことだ。
を打った後、呂蒙は何も言わずにをその腕の中に抱き締めた。
辺りが闇に包まれるまでのわずかな時間だったが、には長い時間に感じられた。あるいは逆に、本当に長かったのにそれと分からずに居るのかもしれない。
頭の中が痺れて、時間の感覚が大きく狂っていることだけは分かった。
どんな感情が呂蒙の胸の内を占めていたのか、には分からない。
ただ、学びの師として頼んだ人が、男の人だったのだと改めて実感した。
あの場で呂蒙が望んだのなら、は受け入れてしまったかもしれない。否、そうして欲しいと思ってさえ居たかもしれない。
薬のせいでなくそんな風に思ってしまうのだとすれば、やはり自分は救い難い淫乱の気質なのだろうと思った。
嘆くでなく、ただありのままの事実として受け入れることが出来る。
それが成長なのか退化なのかは分からなかった。
周瑜が折り良く甘寧の室にやって来た。
訪問の態を取り繕う為に持参したと思しき竹簡を投げ出し、ふ、と息を吐く。
「……改めて確認しておくが。此度の件は、お前一人の暴走だ。お前は偶々居合わせた周泰を体良く言い包め、孫策の元へと連れて行かせた。連れて行かねば、何をするか分からぬとでも言ったのだ。それで、良いな」
が頷くと、周瑜の顔は何故か翳りを帯びた。
「すまぬ」
短いが、真意からあふれ出た謝罪に却ってはおたついた。
周瑜に頭を下げられることがあるなど、思ってもみなかったのだ。
「孫策は、強い男だ。だが、それだけに脆いところもある。此度の件は、私の補佐の甘さが招いたものだ。お前の身の安全は、この周公瑾が名誉に賭けて保障する。必ずだ」
からすれば、周瑜の申し出は思い違いもいいところだ。
今回の件は、総じての貞操の緩さに端を発している。孫策の早合点や思い込みの凄まじさも、確かに何がしかには影響しているかもしれない。
けれど、やはり発端は自分だと思わざるを得ない。
孫権と体を重ねた時は、許してしまった自分を馬鹿だと思ったものだ。だが、行為そのものを後悔しているかといえば甚だ怪しい。
周泰との関係に至っては、後悔している気配もない。
いつかは後悔するかもしれないが、こと今の段階において、は後悔していない自分の厚かましさに感心すらしていた。
とは言え、わざわざ周瑜の気遣いをむげにするつもりもない。
だから、は黙って周瑜に頭を下げた。
今度は周瑜を先導にし、は孫堅の室に向かった。
誰が何と言おうと、結局は孫堅の胸算用に掛かっている。曹操とは比較にならないが、孫堅もまた一国の頂点に立つ男なのだ。和を以って旨とする劉備とは、その点で相容れない。
だが、この際はむしろ有難かった。
見方を変えれば、孫堅さえ何とかしてしまえば後は何とでもなるということだからだ。
こちらの陣容には、周瑜が居る。
口うるさい文官達の相手は確かに難儀だが、心強い存在は何とかなるという楽観へとの気持ちを傾けた。
孫堅さえ、という前置きも、今までの孫堅との遣り取りを思えば何とでもしようがあるように思えた。
廊下の影で、周瑜の合図を待つ。
「……申し訳なかった」
背後から声掛けられて、は乗り出していた体勢を無理に捻る。
呂蒙が、罰の悪そうな顔でを見下ろしていた。
頬を打ったことを謝っているのだろうか。
が首を横に振ると、呂蒙は何故か痛ましいものを見るような目をした。
「周瑜殿が、貴女を守ると仰っておられたが」
くっと呂蒙の喉が動く。
「……俺もまた、貴女を守ろう。約束する」
数瞬の間。
は、顔がかっと赤くなるのを感じた。
何でそんなことになったのか、自分でも分からない。とにかく、やたらと恥ずかしくなった。
思わぬ反応に慌てたのは呂蒙も同じで、よりはやや落ちるものの、こちらも顔を赤く染めた。恥辱を受けたとでも思ったのだろうか、眉を寄せて小さく空咳をしてみせる。
「その。……似合わんことを言ったやもしれんが」
「あ、いえ」
何と説明したらいいのだろう。
とにかく、何と言うか、恥ずかしくなったのだ。
「あの……有難うございます。あの、あの……嬉しい、です」
また顔が熱くなった。
そうか、とは思い当たった。
告白されたみたいな気がするんだ。
呂蒙が、相手を選ばずにこんなことを言う男だとは思わない。その呂蒙が守ると言うなら、全力で守ると言っているのだろう。それこそ、恋しい人を守るように。
だから恥ずかしいんだ、何だか無性に照れ臭くて、それで。
納得したものの、だからと言って落ち着けるものでもない。
廊下の角から周瑜が顔を出し、を手招く。
呂蒙が着いていてくれるのも、ここまでだった。
ここから先は一人で孫堅と対峙しなくてはならない。
でも、支えてくれる人が居るのなら、それはにとっては強い力となる気がした。
呂蒙に頭を下げると、は周瑜の後を追う。
庭に広がる闇の中から、周泰がすっと現れた。音もなく飛び上がると、の斜め後ろに従者のように付き添う。
私も、守らなくちゃ。
は、ともすれば沈む心を奮い立たせ、孫堅の待つ室へと向かった。