孫堅の執務室は、既に通い慣れたと言っても過言ではない。
 それなのに足が竦むのは、こなさなければならない責務が控えているからだろうか。
 いつの間にか、触れるか触れないかの位置に周泰の手が在る。
 無表情な筈のその顔が何処か気遣わしげに見えるのは、付き合いに深みが増したからかもしれない。
 笑みを浮かべて答えると、周瑜の後に付き従って中へと足を踏み入れた。
 途端。
 鳥肌が立った。
 寒いのではない。
 けれど、ぴりぴりと肌が震えた。
 ただ、孫堅が居るだけだ。
 置かれた家具も調度品も、何ら代わり映えはない。何も変わらぬはずの室は、けれど異質な空間だった。
「お待たせを、いたしました」
 周瑜の声も、心なしか強張って聞こえる。
 顔は上げられなくて、その顔色までは定かではない。
 孫堅が、を見た。
 そう思った。
 伏せた顔ではそれと分かる筈もないのに、突き刺すような鮮烈な視線に晒されている。
 いつもの、からかい顔でを見つめる孫堅の姿はそこにはない。
 恐らくは戦地で対峙する、あるいは対当する者を圧倒する目をして、を見ている。
 為政者の孫堅が居るのだ。
 それは、の知らない孫堅だった。
 何となく予感はしていた。
 孫堅と言う『キャラ』で一番惹かれたのは、父親としての慈愛と相対する為政者の二つの面を同時に兼ね備えているところだった。
 その癖、すべてを放って単騎で駆け出すような豪胆さも兼ね備えている。
 支配者とも言うべき雄の理想を体現していた。だから、憧れた。
 敵対することなど考えても居なかった。ゲームの中ではではなく、趙雲なり馬超なりのプレイヤーであり、孫堅は倒すべき相手キャラの一人に過ぎなかった。
 腕力で敵う筈もなし、だからと言って口で勝てるものだろうか。
 悪さをして叱られる小さな子供のように、は身を竦めていた。
「……この度のことは……すべて、俺の責に当たります……」
 突然の周泰の言葉に、も周瑜も息を飲んだ。
「どういうことか」
 孫堅は周瑜に目を向ける。周瑜は汗を掻いているようだ。
 あの周瑜をして、ここまで萎縮させている。
 やはり孫堅は支配者なのだ。恐ろしくて、打ちのめされて当然なのだ。
 そう考えた瞬間、は居直った。
 逆ギレしたとも言う。
「違います」
 声はが想像したよりも大きく、朗々と響いた。
「周泰殿は、私に同情してくれただけです。今だって、私が自分勝手にびくついてたりしたから、だから庇ってくれただけです。今度の件は、全部私が悪いんです。伯符に……孫策様に振られて、でも理由が分からなくて、確認しなきゃって馬鹿みたいに思い込んじゃって。どうしても会わなきゃって、それで周泰殿に泣きついたんです。どうにかしてくれって。周泰殿が偶々大喬殿の故郷を知っているって口を滑らして、じゃあ連れて行ってくれって、連れて行ってくれなかったら、何するか分かりませんよって脅すみたいにして、それで」
「抱かせたか」
 孫堅の言葉が冷たく割り入った。
 は瞬時に声を失い、かたかたと身を震わせた。
 白状したも同じだ。
 経緯は違うが、周泰と関係したのは本当のことだ。こうして顔に出してしまった以上、否定は出来ない。認めざるを得なかった。
 は、こくりと頷く。周瑜が驚愕するのが目の端に映ったが、ガラスの向こうで見るかのような隔たりを感じた。
「抱いたのか?」
 孫堅の確認は、純粋な悪意としか思えない。
 しかし、周泰もまた頷いた。
「……俺が、望んだことです……」
「そうか」
 さしたる興味もなさげに頷くと、孫堅は再びに視線を向けた。
「どうしたものだ」
「お待ち下さい、孫堅様。二人は、己の罪の重さに動転しており埒もないことを口走っております。事実は、私の申し上げたとおり……」
 周瑜が何とかして場を取り繕おうとするも、孫堅の手の動き一つで沈黙を余儀なくされる。
「お前の言うのが真実だとして」
 孫堅は、気鬱そうに溜息を吐いた。
「残りの三説をすべて虚言だとするならば、俺が罰しなければならぬ人数が増える一方だな」
 三説と聞いて、周瑜の思考は急停止した。
「さ、三説……とは……」
 心の乱れるままに問い返してしまう。
 孫堅は、未熟者、と叱るが如く上目遣いに周瑜を睨めつけた。
「お前の言う通り、周泰が己の忠義ゆえにほだされたと言うのがまず一説。周泰の言う、自らほだされて見返りまでも手に入れたというのがもう一説。そして権の言う、己が命にて周泰をに付け、気晴らしに外に出したというのが更に一説」
 周瑜と周泰、同時に驚きに目を見張る。
「……周泰、お前、権に未だ会っておらぬな」
 会ってさえいれば、こんな間抜けたすれ違いは生じなかっただろう。
 何の面目あってと会わずにいたのが、またもや裏目に出たのだ。これでもう何度目の裏目になることか。
 正に、『裏目』は『恨め』なのだった。
「最後の一説だが」
「親父ぃ!!」
 孫堅が口を開いた途端、『最後の一説』は奥の室から自ら場に躍り出てきた。
「何でいきなり一発食らわせるんだよ、痛ぇじゃねぇか、親父!!」
「は」
 腹をさすりながら腹立たしげに口を歪めているのは、何処からどう見ても孫策その人だった。
「な」
 言葉がないとはこのことだ。絶句した。
 しかし、孫策はの顔を見出すなり陽気に手など掲げてみせる。呆れる程能天気だった。
「よぅ、。何か、入れ違っちまったみてぇだな!」
「…………」
 入れ違うも何も、何故ここに居るのだ。居てはならない筈だ。居ないように、申し付けたのだから。期日は未だ、到来しては居ない筈だった。
 わなわなと震える指に察したか、孫策は腕組みして快活に言い放った。
「俺ぁ、もたもたしてんのは嫌いなんだ!」
「もたもた違うわ、たわけがぁっ!!」
 作戦だと言った筈だ。いつもこうなのかと、勢いで周瑜を振り返る。
 周瑜はついっとの視線を避けて見せた。
 いつもなんだ。
 そうなんだな!?
 怒り狂うに、先程まで震えて怯えていた様はもう微塵も見られなかった。
 単純ゆえに、目の前にぽんと現れた巨大馬鹿で視界のすべてが塞がれてしまっている。
 どう怒鳴りつけてやろうかと奥歯をぎりぎり噛み締めているところなど、これから罪科を裁かれる者とは到底思えない。
 場の空気に巻き込まれずに居た周泰だけは、孫堅の顔が少しほころんでいるのに気が付いた。
 周泰の視線に気付いた孫堅は、悪びれずに周泰に笑い掛ける。
 その笑みが意味ありげに思えて仕方ない。見たところ、周泰を罰するつもりがないようなのが却って不安を駆られる材料だった。
 周泰を罰しないとすれば、が罰せられることになる。
 それがどのような罰なのか、想像も付かなかった。
「場が、乱れたな」
 頃合を見て、孫堅が静かに宣言した。
 茶番はもう終わりだと。
 笑みを打ち消した孫策がを背に庇い、父親を睨め付ける。親子の情など窺いようもない気迫に、周瑜は困惑し孫堅は笑った。
「周泰、外に居る権を中に入れてやれ」
 孫堅の命に、周泰は転瞬扉へと駆け寄った。
 礼儀も弁えず大きく戸を開くと、そこに驚いた顔をした孫権が立っていた。
「……孫権様……」
 周泰の声が、らしくもなく震えている。
 驚愕から立ち返った孫権は、周泰の脇をすり抜け孫堅の前に出た。
 まるで、周泰など目に入っていないかのような振る舞いだった。
 周泰は、顔色こそ変えなかったがわずかに項垂れ、主人から見捨てられたことに打ちひしがれているようにも見えた。
「お呼びと伺いました」
 拱手の礼を取る孫権に鷹揚に頷くと、孫堅は周泰を顎で指し示した。
「お前に預ける。明日迄、自害などせぬよう見張っておけ」
 孫権は、はい、と明朗に答え、周泰の前へと足を進める。
「行くぞ、幼平」
 字を呼ばれ、周泰は微かに口を開いた。
 早くしろ、と追い立てられるのを、信じ難い気持ちでそれでも受け入れたようだ。
 孫堅らに拱手の礼をすると、孫権を追うように室を後にした。
 扉が閉まると、残された四人を不思議な空気が包んだ。緊張とも弛緩とも異なる。ただ言えるとすれば、それを醸しているのは間違いなく孫堅だということだった。
「周瑜。お前が思う程、この一件は潜匿されてはおらぬ」
 孫堅の言によれば、話は下級兵士を通して大きく広まってしまっているという。
 が周泰に連れ去られるようにして飛び出したのを見届けた門番は、まず上官を通して孫権に伺いを立てた。
 問われた孫権は素早く機転を利かし、自分の急命であるから構わぬよう、またこの件に関しての緘口を命じた。
 しかし、どうもおかしいと納得のいかない門番は、口を封じられたことで却って話したいという衝動に駆られたらしい。酒が入った勢いも手伝って、誰が居合わせているとも分からぬ酒場でぽろりと口を滑らした。
 本人は、そのことすら覚えていなかった。
 けれど、本人が自慢げに話して聞かせているのを、酒場の主や他の兵士何人かが聞き及んでいる。機転の利いたのが上手く連れ出し、それ以上は話させなかったらしいが、それでも他の幾人かは聞いただろうし口止めされるより早く酒場を後にしていた。
 孫堅はこの場で話さなかったが、その門番には既に上官の手で罰が下されている。彼が喋ることはもうない。
 だが、兵士の間で伝え広まっているだろう噂は、今や誰が知って誰が知り及ばぬのか見当も付かない。理由が分からぬままに当て推量を披露していたとかで、実は周泰がを連れて駆け落ちさながらの逃避行をしたの、孫権の妾として秘匿されているの、手土産代わりに魏に引き渡されただのとまことしやかに噂になっているらしい。
 噂には尾ひれが付くものと相場は決まっているが、背びれ胸びれまでつけて雄々しく世間の大海に放たれたとあっては、どんな魚に成長して帰ってくるものやら想像も付かない。
「こうなっては俺も、表立っての擁護は叶わぬ。無論、周瑜も、策、お前もだ」
 大まかな事情は、疾うに筒抜けだったらしい。聞かされた話を総合しての結論だろうが、誰が一番正直に話したかなど、比べる必然もなく歴然としている。
 と周瑜に横目で見られ、孫策はきょとんと目を丸く見開いた。
「とにかく、そういうことだ。が戻ったとなれば、明日には小うるさいのがしゃしゃり出てくるだろう。正直に言うも良し、だが、今度こそ一人で臥龍の真似事をせざるを得まい」
 に向けられての言葉は、つまり諸葛亮がやったように並み居る文官ことごとく論破せよということだろう。論破できずとも、囲みたがっている者共に囲まれることには変わりない。の、文官としての真価がここで問われることとなる。
 真価があるとしての話だが。
 青褪めるに、孫策が何事か話し掛けようとして周瑜に止められる。何を言おうとこの際の負担にしかなるまい。言わぬがまだマシと言えた。
 はゆっくりと顔を上げた。
 青褪めてはいたが、目には強い光を宿している。
「分かり、ました」
 大きく頷いたに、孫堅は優しげな笑みを向けた。
「……疲れただろう。今宵は、もう休むといい」
 どうせ帰還はすぐにもばれる。夜の内に引っ立てよという物好き程度は、何とかしてやると孫堅は請け負ってくれた。
「……湯を、言いつけよう。多少は疲れが取れる」
 周瑜の気遣いに、はただ声もなく頭を下げた。

 先に室を出た孫権は、周泰と共に自室に居た。
 暖められた室には、酒肴の用意がなされていた。
「さぁ、まずは一献だ」
 そこまで温情に甘える訳にはいかない。
 周泰が辞すと、孫権は周泰を怒鳴り付け、無理矢理席に座らせてしまった。
「……兄上がな」
 周泰の手に酒盃を握らせ、孫権自らが酌をしながらぽつぽつと語り始める。
「兄上は私に、好きなら本気で狙え、と仰った。でなければ、本気で蹴飛ばせぬと、変な遠慮をするから遠慮し返してしまうのだと、そう仰ったのだ。分かるか」
 お前も同じだ、幼平。
「もしも、お前が本当にを望むのなら、本気で狙ってみせよ。であれば、私もお前と本気で渡り合える。お前が遠慮をすればする程、私もつまらぬ遠慮をする。私は、お前を蹴飛ばせなくなる」
 周泰に言葉はなかった。孫権にを、と思った気持ちに嘘偽りはない。
 けれど、今はどうだろうか。
「はいと言え、幼平。でなければ、許さんぞ」
 酒を煽る前から酔っているような孫権に、周泰は極々淡い笑みを浮かべた。
 それを見た孫権は、いいことを教えてやる、と鷹揚に杯を煽る。
「あの女は、耳が弱いのだ」
 知っておりますとの返答に、孫権は親愛なる臣下の顔を思う存分睨め付けた。

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