は鼻歌を歌っていた。
 機嫌がいい訳ではない。何かやろうという気がしなかっただけだ。
 やることは無論ある。尚香へ物語やその挿絵を書き綴って送る作業に終わりはないし、そこら辺をうろつき回って会う人会う人と挨拶交わすのも、にしてみれば立派な業務の一つだ。
 ただ、やる気が全然しない。
 腰がだるいことも要因の一つだ。
 孫堅の女の抱き方は、濃ゆい。濃ゆ過ぎる。
 気のせいではなく、恐らくの反応を一々確認しながら次に移る。だからなかなか行為に没頭できないし、見られているという恥辱で(情けなくも)興奮してしまうのだ。
 記憶鮮明な今、思い返すだけで背筋にぞくぞくしたものが走る。
 子沢山だから牀上手と言うわけでもないだろうが、孫堅の手管はを陥落させるのには充分な程練れていた。
 もう、しない。
 思い出すだけで恥ずかしい。
 嫌な気はしなかったというものの、親子どんぶりの事実に代わりはなく、ついでに言うなら一家まとめて食ってしまった訳だ。
 凌統が知ったら、ただでは済むまい。
 お兄ちゃんごめんなさい、妹は畜生道に堕ちました。
 ナムナムと手を合わせる。
 凌統は死んだ訳ではない。墓前で懺悔するが如くのの有様を見たら、間違いなく激怒しそうだ。とは言え、がやっていることなど中原育ちの者には分からないだろうから、問題はない。
 たぶん。
 が暇なことをしていると見抜いた訳でもないと思うが、ちょうど来訪を告げる声がした。鍵は開いていない旨伝えると、入室してきたのは周瑜だった。
 供連れもなく、苦い顔をして立ち尽くしている。
「大殿の命により、本日正午からお前の査問を執り行う。心しておけ」
 謹んで承ると、周瑜は声を顰めた。
「……お前、何をした」
 周瑜の言によれば、隠蔽に関わる一連の不義に関しては一切不問にすると通達されたそうだ。孫堅一人の胸に仕舞い、今後一切この件に関する処分は取り沙汰しないと誓いまで立てられた。孫堅が周瑜に使者の命を与えたのも、半分はその通達を周瑜に与える為の方便だったらしい。
 孫堅は約束を守ってくれた。
 疑っていた訳ではないが、やはりほっとした。
「どういうことかと伺えば、お前に尋ねろと仰られる。……お前はいったい、何をしたのだ」
「寝ました」
 周瑜に隠しても仕方がない。
 隠せば、この男は勝手に聡明な頭を働かせ、が考え及ばぬ複雑怪奇な結論に達するだろう。この上面倒を招くよりは、正直に話した方が害はない。
 恥になるには変わりないので、の顔は不機嫌そのものになった。
 の告白を受け、周瑜は間の抜けた素の顔を晒す。
 それでも美麗に見えるものだから、つくづく女の敵だと思う。
「……お、お前は、それでいいのか!?」
 声を荒げるのは、のしたことが周瑜の道徳観念をことごとく裏切っているからだろう。この際周瑜がすべて正しくて、に異を唱える権利などない。
 けれど、返答はしなければならなかった。
「いいから、したんです」
 周瑜は絶句した。
 絶句したくもなるだろう。息子と関係して、その父親とも関係する。権力に振り回されてというのではなく、自らの意志でそうしたと言うのだから、周瑜の人間不信を招いてもおかしくはない。
「それで罪に問われないんだから、いいじゃないですか」
 ふてぶてしい物言いだった。
「お前は、……」
 周瑜は二の句が継げないようだ。は努めて目を険しくし、周瑜から目を逸らさないようにした。
 数瞬の睨み合いの後、目を逸らしたのは周瑜の方だった。
 は内心ほっとしていた。ここでくじける訳にはいかないのだ。
「正午の査問には、私も付き添おう」
「結構です」
 きっぱりと拒絶され、周瑜の眉が跳ね上がる。
「周瑜殿が私に付き添ういわれがありません。下手なことをして、周瑜殿まで疑われたらどうするんです」
 事実、甘寧は周瑜が周泰をそそのかし、を拉致させたのだと信じ掛けた。同じことを考える者が出ないとも限らない。
 最近では態度を緩めた周瑜であっても、以前に与えた仕打ちを忘れていない者は多い筈だ。すわこの為かと思い込む者が居たらどうするつもりだ。否、居ると見て間違いないだろう。
 は、これ以上無関係な善人を巻き込みたくなかった。
「他の方にも、そうするように厳命を出していただけませんか。関わっているのは私と周泰殿、二人だけに収めて頂きたいんです」
 ひょっとしたら孫権だけは、周泰に命を出したということで連れてこられるかもしれないが、その時はその時でどうにか誤魔化しようはある。
 何せ孫権は、兄思いの兄孝行だ。が兄の下に向かうと察したのだろうと言えば、孝悌の教えを遵守したということで強くは責められまい。
「しかし」
 周瑜も負けてない。
 呉の文人が相当数集まるだろうという話を聞いている。
 親の七光りならぬ孔明の七光りにより、呉でのの評価はかなり高い。
 中原の作法も知らぬ田舎者ということで、諸葛亮に煮え湯を飲まされた者達もそれで何とか溜飲を下げてきた。だが、復讐の機があるのに逃す程お人よしではないだろう。
 それでなくとも、臥龍の珠ならば是非討論をと望む者は多い。
 罪科に関する不快感の差はあれど、を場に引っ張り出しその智を確かめたいという輩が続々と名乗りを上げているのだ。
 しかも、我こそはと意気込んでいるものだから、自身で考えている以上にの罪を大袈裟に喚き立てている節がある。どれだけ激しているかを訴えかけて、何とか討論の場に加わりたい一心なのだろう。
 査問であって、討論ではない。しかし、結局のところ文人達の思惑に実に適った場でもある。
 を責め、話す言葉の細かな差異に突っかかり、矛盾を指摘し打ちのめす。
 罪科を激しく追及すればする程、査問の場は文人達の欲して止まない討論の場へと変化する。
 最早、の出奔は問題外になっている、と周瑜は見ている。
 だからこそ危うい。
 に、力の入った彼らを上手く捌けるとは到底思えなかった。
「でも、囲まれるのは初めてでもないですし」
 悪意に晒されたことなら、は初めてではない。
 会社でもそうだったし、呉に来て孫策が出奔した時もまた、引きずり出されて囲まれた。
 そのことを指摘されると、周瑜は弱い。
 あの場で一番にに非難の目を浴びせていたのは、まず間違いなく自分だったろうという引け目がある。
「叩きのめして満足してくれるっていうんなら、別に構わないんです」
 諸葛亮の名を穢してしまうかもしれない恐れはあったが、は諸葛亮ではない。珠を曇らせたのはその手にある時ではないとか、何とでも言い訳は立つ。
 申し訳なさが消える訳ではないが、今は周泰を如何にして守るかが最大の焦点だった。
「しかし……」
 周瑜はぐずぐずと言い募った。
 孫堅相手に気後れし、詰めが甘過ぎたことがの『不貞』に繋がったのであれば、それは周瑜の罪だ。
 だからこそ、汚名返上する機を得たい。
 無論、に対しての憐憫の情もある。言葉が人の心を傷つける刃になることを、周瑜自身も痛い程理解していた。
 この、図々しいくせに変に繊細なところがあるが、刃の嵐に晒されて平気で居られる訳がないと思う。
「小喬も、お前を案じていた。自分が付いていけば、もう少し何とかできたかもしれないと、な」
 確かに小喬ならば、その無邪気な性質ゆえに悪意がなかったと押し通せたかもしれない。
 けれど、かもだのたらだの言う話は蛇足の極みだ。
「でしたら、周瑜殿は小喬殿の方をお願いします」
 はきっぱりと言い切って、もう話は終わりだというように拱手の礼を取った。
「君は」
 周瑜は思わずの肩を掴む。
「何も分かっていない、悪意に晒されるのと、悪意を突きつけられるのとではまた話は別なのだ。まして今日、君が相手にせねばならない文人達は、海千山千の老獪な連中なのだぞ!」
 言葉を操る専門家と言っていい。少しのほころびも、彼らにとっては涎の出るような格好の獲物と化す。
「……孫堅様が」
 の笑みは暗い。
 いきなり孫堅の名を出され、怯んだ周瑜が口を噤んだ隙をは見逃さなかった。
「お前の体は、武器になるって。国を乱しも鎮めもしようって、そう仰られてましたから」
 何だったら、今日来た全員と寝て全員黙らせますと卑屈な笑みを浮かべた。
 周瑜は、今度こそ本当に絶句した。
 思わずの肩に置いていた手をぱっと離してしまう。
 取り繕いようがない行動に周瑜自身が慌てふためき自分を責めるが、後の祭りだ。
 は。
 そんな周瑜を見て、笑った。
 胸が痛くなるような、罪悪感をはなはだしく刺激する笑みだった。
「周瑜殿は、私なんか気にしないで、伯符と小喬殿のことをお願いしますね」
 そんなことは当然のことだ。むしろ、こそがここまで自分を犠牲にするいわれがないではないか。
 だが、返事をする前に押し出されるように扉の外に出されてしまい、周瑜は自身の非礼を詫びる暇も与えられない。
「連絡、どうも有難うございました」
 閉められた扉は、ぱたん、と軽い音を立てた。
 その音は、周瑜の胸の内に重く冷たい影を落とした。

 周瑜の足音が遠く去っていくのを確認して、は深く息を吐きだした。
 少し意地悪が過ぎたかもしれない。
 けれど、これ以上周瑜が深入りするのは正直言って有り難くない。周瑜が首を突っ込めば、漏れなく小喬、呂蒙が出てくるだろう。小喬が出てくれば大喬が、呂蒙が出てくれば陸遜、甘寧、凌統が、なし崩しよろしく巻き込まれよう。後は推して知るべしだ。
 呉国は連帯が強いだけに、一人が引っ掛かれば芋蔓式の恐れが強い。無理矢理にでも断ち切る必要があった。
 その為に、例え周瑜を打ちのめすことになっても、だ。
 肩に、周瑜の手の重みが残っている。
 それ以上にまるで感電したようにぱっと手を離されたあの一瞬が、強く心に刻まれていた。
 周瑜の反応は、自然なものには違いない。親子兄弟の区別なしに抱かれる女など、まともな観念を持っている人間なら汚らわしいと思って当たり前だ。
 傷付く理由など、にはない。
 長椅子の上に戻ると膝を抱え、また鼻歌を歌いだした。
 コンプリート、コンプリート、孫家コンプリートー。
 情けない程くだらない歌だ。
 適当に調子を付けて歌っているだけだから、別に歌詞はない。鼻歌は何度か繰り返している内に飽きてしまった。
 はごろりと横になった。
 長椅子の上で寝そべると、昨夜の孫堅との記憶が如実に蘇る。
 何度したかな。三回ぐらいだったかな。
 嫌悪感が、ない。
 それどころか、足の間がもやもやとして落ち着かなくなってきた。
 膝を割り、片足を背もたれに乗せる。もう片方は爪先が床に触れていた。
 たぶん、こんな姿勢。
 この体勢で孫堅に貫かれた。
 熱くて固い肉で何度も挿されて、擦られて、いっぱい声を出して。私、声大きいらしいから呆れられなかったかな。でも、呆れたらあんなにしないよね。すごい、ずこずこって音してたし。
 指を唇に当てる。
 舌を出し、ちろりと舐め上げると、わずかに苦いような気がした。
 胸に手をやれば、既に固く勃ち上がって布に擦れる。緩い悦が湧き上がる。
 これも、逃避だろうな。
 足を上げて勢いよく起き上がると、は牀のある奥へと向かう。
 査問にはまだ時間がある。
 その前に、熱くなってきた体を慰めようと思った。
 いいんだ、もう、どうせ淫乱だし、昨夜あんだけ可愛がってもらったって一人でしちゃうし。
 責めたければ責めるがいいさー。
 半ばやさぐれながら、牀の上で下着を下ろした。

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