緩く達して放心していたは、矢庭に起き出した。
 水差しの水で手を洗うと、井戸まで出向いて水をもらって帰ってくる。
 桶に移し変え、顔を洗う。髪を丁寧に梳き、手に取った香油を軽く塗り込んだ。
 髪が重く感じられ、本当は好きではない。
 けれど、香油を塗り込めることで髪がまとめやすくなる。乱れにくくなる。
 四苦八苦しながら髪をまとめると、桶水を鏡代わりに映して確認した。いいようだった。
 行李の中を漁り、化粧品を取り出す。
 時間が経っているから、品質が変わってしまっているかもしれない。
 それでも使う。
 ファンデのコンパクトに鏡が付いていたのを、この時初めて思い出した。小さいから使いにくいが、映りは段違いにいい。
 明るいところに出て、久し振りの化粧にやはり四苦八苦しながら塗りたくる。
 前に『塗った』のは、『虎』を亡くしてから後の宴だった。
 念入りに身支度することは、にとって武装するのと変わらない。化粧の由縁が戦仕度であるのと同じで、自らを塗り固めることで隙を無くし、周囲を威圧する。
 相手の心証など、この際問題ではなかった。化粧をしようがしまいが、相手はを責めるつもりだろう。ならば、やっておくに越したことはない。
 打ちのめして気が晴れるなら、とも思った。
 だが、は蜀の外交の責を担ってここに居る。やはりどうしても、ただ負けるというのはいけない気がする。調子に乗った相手が、周泰、孫権と次の獲物を狙わないとも限らない。
 自分が食い止めなくては。
 これと言った手段も理論もない。
 下手すると、周瑜に宣言した通り集まった全員とセックス、等と言うことになりかねない。
 鳥肌が立った。
 嫌だけど、嫌でしょうがないけど、でも。
 それで何もなしになるのなら、やらなくては仕方ないだろう。
 天賦の才は、智ではなく体と孫堅に太鼓判を押されてしまった。天下国家を揺るがす魔性の体という馬鹿げた称号を与えられたのだ。
 納得がいかなくても、それが他人の、君主の評価だ。認めざるを得ない。
 けれど、ではそれをどう利用しろと言うのか。廊下の端で待ち伏せして、袖でも引けばいいのか。
 うわぁん、嫌だぁ。
 泣きたくなって、本当に涙が滲んできて、は床に突っ伏した。

 廊下の端で、本当に待ち伏せしている人が居た。
 周瑜だ。
 を見つけると、足早に歩いてくる。
「遅いではないか」
 先程の妄想と、あれだけ言ったのにという腹立たしさがないまぜになって、はくわっと目を吊り上げた。
 周瑜は敏く察して先手を打つ。
「私も呼ばれたのだ。文人の方で、中立の立場の者が要るだろうということでな」
 中立と言っても、文人達は周瑜がを快く思っていないことを承知で指名したのだろう。他の武将達ではに甘いと踏んだのかもしれないが、今までの経歴を踏まえての指名だと言うならば、悪意が透けて見えるというものだ。
 折角注した口紅も、唇をひん曲げては台無しだ。
 周瑜は苦笑して、の頬を折った指の節で軽く撫でる。親愛めいた仕草に、恥ずかしさと言うよりは驚きでの表情が緩んだ。
「案ずるな。彼らは私がお前に付いたということを知らない。これも天佑と思し、お前はただ頭を下げて詫びを入れ、後は知らぬ存ぜぬで押し通すがいい」
「でも」
「言っただろう、国の面子は既に問題外だ。彼らがやりたいのは、お前の智を底まで曝け出し、完膚なきまで叩きのめすことだけだと」
 だから、後は任せておけ。
 周瑜の言葉は頼もしく、有り難い。
 しかし、何かが引っ掛かった。はどうしても素直に頷けず、曖昧な笑みを浮かべるに留まる。
「……周瑜殿、それを言いにここで待ってたんですか」
 化粧が上手くいかなくて、少し遅れ気味になっていた。慌てて駆けてきたところに、周瑜と出会ったのだ。
「お前が遅いので、逃げ出したのではないかと騒ぎ出した者が居てな……私が迎えに出るということで、しばし座を抜けてきた」
 遅れているといっても、まだ刻限にはいくらか早い筈だ。
 そこまで盛り上がっているのかと、は薄ら寒いものを感じた。
 周瑜も同じように感じていたらしく、無言のまま表情で同意を見せる。
「辛いと言った筈だ」
 は小さく頷くと、とぼとぼと歩き出した。
 それでも広間に向かおうとするに、周瑜は内心舌を巻く思いだった。
 どれ程想像を巡らせても、恐らくはそれを上回る痛めつけられ方をするだろう。
 も分かっているようなのだが、それでも広間に行かないという選択肢は思い浮かばないらしい。
 出来る限り、何とか庇ってやらねば。
 小喬の為にも、と大きく頷いた周瑜に、しかしが気付くことはなかった。

「お待たせした」
 刻限ぴったりにも関わらず、周瑜はそんなことを言う。
 やるせない気持ちになるが、五分前行動奨励なのだと思うことにした。
 珍しく化粧をしたに、文人達のさざめく声が広間に響き渡る。
 やっぱり、化粧しない方が良かったか。
 自分を奮い立たせる為に化粧をしたというのに、早くも心が萎えかけた。
 は、前の方に設えられた椅子に連れて行かれる。
 斜め後ろと言うには背後に近過ぎる位置に、孫堅が腰掛けていた。
 同席するにしても位置がおかしくはないだろうか。
 意見できる義理ではないので、おとなしく椅子に腰掛けた。
 反対側の壁際に、周泰が座らせられている。その隣には孫権が腰掛けていた。
 居並ぶ文人の数はざっと二十を降らなかった。
 これでも淘汰されたという話だったから、如何に多くの文人が詰め掛けたか知れない。そして、ここに居るということは、張り切ってを打ちのめそうと思っている連中だということに他ならない。
 憂鬱に目を伏せるに、これ見よがしに舌なめずりしたげな文人が席を立つ。
「では、遅ればせながら始めさせていただいてよろしいですかな」
 辺りを見回し、早速嫌味が飛んだ。
 張昭だ。文人の代表として、立つものらしい。
 孫権はこれ見よがしに眉を顰める。元々、張昭とは相性が悪い。その能力は大いに認めるところであるが、この男がを弄るかと思うと無性に腹立たしい。
 君主たる父をないがしろにして場を切り出すやり口も、孫権の気に障った。
 視線を感じて振り返れば、周泰が宥め顔で孫権を見つめている。表情の動きにほとんど変化のない周泰だが、付き合いが長くなればそれ相応に感じるところもある。
 落ち着いた、と合図するように短く息を吐き出すと、周泰の視線はへと転じた。
 孫権も釣られるようにを見る。
 色味を増した唇が艶めいて、しどけない。
 贔屓目かもしれないが、やはり化粧をしていると女の格が上がって見える。
 頭の固い文人達に、それが何処まで通じるのか分からない。却って嗜虐心を煽りそうな気もして、孫権は段々と不安になった。
殿。貴女は同盟国・蜀よりの使者でありながら、好き勝手に我が呉の領土を踏み荒らした。如何なるおつもりでなさったことか、お聞かせ願いたい」
「……踏み荒らしたつもりでは」
 幾らなんでも大袈裟だろうと思う。
 しかし、張昭はすぐさま噛み付いてきた。
「踏み荒らしておきながら、そのつもりはないと! 何と言う恥知らずな。田舎育ちにも程がある、物を知らぬにも限度があろう。臥龍の珠とやらは、よもや石塊の意か」
 失笑がそこかしこから漏れる。
 は顔を赤くした。
 張昭は、わざとらしく咳払いをして座を鎮めた。の為ではなく、自分の調子を崩したくないが故の行為だ。
「そなたは、我が呉が誇る忠義の士を謀り、自身の策略の駒と為した。それに相違はあるまいな」
 貴女と呼びかけていたものが、そなたに転じた。
 蔑みが進んだことが明確に分かる。張昭も、意図して呼び方を変えているのだろう。
 それでも、に反論する術はない。黙って同意するしか出来なかった。
 責め問う言葉は更に続き、はただただ黙って頷き返すのみだった。過たず周瑜の言葉を守る形になっている。
 悔しくはあったが、上手く言い返せない以上耐えるより他なかった。
「……そなた、呉と蜀の同盟を如何に思うてか。呉は蜀に力を貸したのみならず、荊州の領土をも無償で貸し与えておる。それを、何を勘違いしての振る舞いか。蜀に義はないとてか」
 はっとした。
 さりげなくはあったが、荊州は蜀に『貸した』ものだと言っている。
 蜀の文官たるがそれを認める訳にはいかない。
 うんうんと頷いていたの首が、ぴたりと止まる。張昭は、それを目敏く見咎めた。
「何か、言い返したいことでもあるとでも?」
 ないに決まっているという口振りに、の顔が青褪める。
 ちらりと周泰を見遣る。
 我慢しなければ。張昭は、を責めることのみに重点を置いたらしく、周泰の行動はのせいだと言ってくれている。下手なことを言い返し、周泰に責めが向かうことになっては困る。
 無口で無骨な周泰のことだから、その通りとばかりに易々と罰を受けようとするに違いない。
 中原の刑罰は、実に単純だと何かの本で読んだ。
 甘寧が、けじめをつけたと錦帆賊の男達の指を切り落としたのは記憶に生々しい。
 殺すか、斬るか。
 基本はそれだ。分かり易いが、惨い。
 刑務所などという居心地のいい場所は存在しない。食料は貴重で、悔恨を促す為に塀の中に閉じ込めることなど、ここでは無意味だ。
 周泰の指が落とされる。
 耐え難かった。
 けれど、荊州の所有権が呉にあるとはどうしても言えない。
 あの土地は、劉表から劉備が託された土地だ。
 正史がどうあれ、無双の世界が演義を軸に描かれている以上、荊州は劉備の土地に相違ない。
「これはどうも、はっきりなさらぬことよ。珠といえども人は人、口を聞いてもらわねば話が出来ぬ。それとも、珠が輝くは誰ぞの手に在る時だけですかな」
 下劣な例え話をしていると、はっきり分かる。
 あちらこちらから、我慢するのも忘れたとばかりに笑い転げる声が立つ。嘲笑、嗤笑、窃笑冷笑、笑い方は様々だが、どれもを侮る笑みだった。諸葛亮を、劉備を、蜀を見下す卑しい笑みだ。
 気が遠くなるような嘔吐感がを襲う。腹が立ち過ぎて眩暈がする。
 駄目だ、我慢の限界だ。
 周泰を見る。
 誰にはばかることなく、周泰を見る。
 周泰は、静かにを見ていた。
 その手に、暁の鞘がある。
 何故、取り上げられていない。
 ばつん、と何かが弾け飛んだ。
 は、椅子を蹴って立ち上がっていた。

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