話が荊州の権利にまで及び、周瑜は介入の時と契機を見計らっていた。
 ここまで話が飛んだなら、もう構うまい。出奔という題目からは疾うに離れてしまっている。
 中立の立場を与えられたからには、それこそが周瑜の役割と見做して良い。
 だが、周瑜が介入しようとした正にその時、が椅子を蹴って立ち上がった。
 場の中で突然伸び上がった姿、椅子が吹っ飛ぶ音はすべての注目をに集め、周瑜の介入する契機を打ち消してしまった。
 真っ青な顔で目を閉じていたは、短い呼吸を経て目を開けた。
 笑みを浮かべている。
 不意打ちとも言うべきその笑みに、皆が度肝を抜かれた。
「……非があるのはこちらでしたし、黙って責められてようかと思ったんですけど」
 笑みはますます深くなる。
「もう、止めます。私の話がそんなにお聞きになりたいのでしたら、閨の中までお付き合いしてもよろしゅうございますよ」
 芝居がかった所作で、張昭にすぃっと手を差し伸べる。
「まだ、お役に立つのでしたら、何時なりとお誘い下さい?」
 あからさまな誘い掛けと侮蔑だった。
 まだ勃つのかと満座の前で問い掛けている。それは、勃つまいと言っているのと変わらなかった。
 張昭の額に、びきびきと青筋が浮き上がる。
 挽回しようと張昭が口を開いた。が、その声が発せられる前に素早くが先手を取った。
「呉の領地を踏み荒らしたと仰いましたね」
 問い掛けにより、張昭は返答を余儀なくされる。
「ああ、」
 応と答えを発した後に、すぐさま続けようとした言葉はによってまたもや塞がれる。
「私は、呉の後継者たる孫策様をお訪ねしました。それの何が踏み荒らすに値すると仰られるのか、お答え下さい張昭殿」
 孫策の名が出て、一番に驚愕したのは周瑜だった。
 あれ程巻き込みたくないと言っていた癖に、どういう気の変わりようだ。
「そ、孫策殿を訪ねたとて、呉の地を踏み荒らしたことに変わりはなく……」
「ですから」
 ぴしゃり、とが言葉を叩きつける。
「それの、何が、どうして、踏み荒らすという言葉に繋がるのかお答え下さいと申し上げています」
「それは、貴女が」
 張昭の背後に居た文人の一人が、今が好機とばかり口を開く。
「貴方は張昭殿ですか」
 きつい目線で封じると、は再び張昭に向き直った。
「踏み荒らしたと仰ったのは張昭殿でした。ですから私は、張昭殿にとわざわざ指名させていただきました。それで何で他の方がお答えになるんです」
「いや、今のは」
「今のは何です、実はあの方が張昭殿とでも仰いますか」
 先程までしょぼくれて俯いていたとも思えない。
 突然牙を剥いたに、文人達は完全に見下していた分、早々に飲まれてしまっていた。
 それでも張昭は年の功で、何とか利を取り戻そうと未だに機を窺っている。
「そも、何ゆえ貴女が孫策殿をお訪ねにならねばならぬ。色恋沙汰で政を蔑ろにするは、まこと卑しき、文官の端くれとも思えぬ……」
「色恋沙汰!」
 はっ、とは鼻で笑った。
 文官としての理知的な気品は微塵もない。まるであばずれで、張昭は面食らって言葉を呑んだ。
 その一瞬の間は、この場を決定的なものにした。
「先日の戦から戻ってこの方、孫策様に元気がないのをご存じなかったとでも。あれは、全部、私のせいなんですよ。私が、孫伯符ともあろう者が、何であんな可愛い奥方を囮に使わなければならなかった、その事で貴方達は妻の鑑よなんちゃって言ってましたけど、私は気に食いませんでしたね、ええ、気に食いませんでしたともさ。尚武の誉れが何ちゅー姑息な、しかも可愛い奥さんに無理させてさ、面白くねぇったらありゃしねぇ、そんでも男かって苛付いてましたさ。勝てば官軍と言いますけども、それでも何だか納得いかない、ぶすっくれてたのを孫策様も薄々感付いて、面目ないと落ち込ませてしまいましたよ、ええ、私が悪いんですとも!」
 キレている。
 甘寧辺りならそう評し、げらげらと腹を抱えて笑っただろう。
 けれど、常日頃から真面目かつ神聖に言葉を操る文人達にとって、言葉汚くしかし分かり易く表現するという手法はまったくもって斬新で、簡単に言えばどう対抗していいのかその術が見出せない。
 の暴言はまだ続く。
「それでも勝ったんだからいいって思うのが定石でしょう、私だってすぐに反省して、悪かったなぁって思いましたよ、そんなに矜持傷つけたなんて思ってないもの、ぶっ倒れてる間に傷心旅行よろしく出かけてしまったなんて思わないもの!」
 は、四日もの間目を覚まさなかった。悪い病気かと噂されていたものの、目覚めて後は何事もなく、しかし弱ってしまった体を労わるべく静養に努めていた筈だった。
 出奔したのは、医者から全快も告げられぬ頃だったと、ここで何人かが思い当たる。寝ていなくては駄目だと言われていたものを、いくら周泰頼みとは言え、思い切り良く飛び出していったの心根を思い描いてしまった。
「謝んなきゃって思ったんですよ、それもすぐに、今すぐに、何をどうしたってすぐのすぐに! 文字なんかで伝わりますか、拝啓、私が悪うございました、ごめんなさいなんつって伝わりますか! 直接伝えなけりゃ意味がなかったんですよ、だから会いに行ったんです! 罰があることも分かってましたよ、でも、それでも孫策様が元の通りに戻ってくれるんならそれでいいって思ったんだもの!」
「そ、それが」
 張昭がの息継ぎを読んで割り込む。
「それのどこが、色恋沙汰でないと!」
「色恋じゃないもん、友情だもん!!」
 間が、空いた。
「ゆ、友情?」
 張昭並びにその場に居合わせた者全員が、魂消るの言葉通りに呆気に取られた。
「孫策様とは、友達で居ようって約束しました。だから、これは色恋じゃなくて友情、です」
「そ」
 そんな理屈があるか。
 この時ばかりは、周瑜も張昭に同意せざるを得なかった。
「男女の仲に、友情など存立しえるものか!」
「何でですかっ!」
 張昭の言葉は理屈ではない。常識だ。
 男と女で友情が結ばれた例を、誰も知らない。在り得ない。
 古来より、男は陽、女は陰であり、その二つが相並べば即ち和合、結ばれ、一つとなる。
 友情とは並ぶものであり並び続けるものである。一つとなってしまう男女で、友情は存立し得ない。男にとって、女とは得るものでなければならず、だから女は女と言うだけで戦利品足り得るのだ。
 滔々と言葉を並べ立てた張昭に、は即座に返答した。
「馬鹿か」
 幼い頃から研鑽を積み、智を磨いてきたものにとって『馬鹿』の一言程痛烈なものはない。
 一瞬にして顔を真っ赤にした張昭に、は哀れみの目を向けた。
「男と女が必ず対になるって言うなら、それは番でなければ話が合わないじゃないですか。それを、あんた方は何て言ってます。産めよ増やせよよろしく、女はたくさん居た方がいい、子供はたくさん産んだ方がいい、何ちゃってまぁまぁ。矛盾じゃないですか。おかしいでしょうよ」
 張昭も、思わず口篭った。
 建前上は一夫一妻を謳ってはいるが、一妻多妾を推しているのは事実である。それは、事実上の一夫多妻制に当たる。
 陰陽の考えをそのまま男女に当てはめるなら、一夫多妻はの言う通り矛盾と言うことになろう。
 だがしかし、である。
 うろたえているからそう考える。
 多彩な解釈も言い逃れの法も、いくらでもあるのに張昭はうかうか乗せられてしまっていた。馬鹿の一言があまりにも効いていたのだ。
「女は、物じゃありません」
 馬鹿にしやがって、とは呟く。
「しかし」
「女が物だって言うなら」
 張昭の反撃を、は言葉を被せてあくまで封じる。
「物から生まれた貴方は何ですか」
 女から生まれるのではない、母から生まれるのだ。母は女ではなく、女は母でない。
 理論が、破綻している。
 儒学は元より難解なものだ。時代時代に応じて器用にその質を変化させる。
 それ故に無敵であり、それ故に時代を支配してきた。
 ああ言えばこう、と形を変える。それは一種、屁理屈と言ってよいかもしれない。
 先祖を敬い、その血を絶やさぬことを第一に慮ったが故の矛盾をに突かれてしまったのだ。
 無知なるが故の素朴な疑問だった。
「父の血をのみ受け継ぐ考え方は、私は変だと思います。女の腹だけ借りれば良いと言うなら、結婚なんて何の意味もない」
「それでは父親が誰か、分からなくなるではないか!」
 いいじゃないか、とはあっけらかんと言い放った。
「親を敬い尊ぶのが孝なんでしょう。それで言うなら、父親なんてもの誰だか分からなかった方が、戦もなくなってちょうどいい」
 誰が父親か分からないなら、迂闊に戦も仕掛けられまい。何せ、相手は父親かもしれない。孝の道に反するではないか。
「滅茶苦茶だ!!」
 張昭が叫ぶ。
 は、重々しく頷いた。
「まったく」
 しん、と辺りが静まり返る。
 ぱんぱん、と手を打ち鳴らす音が響いた。
「すいません、仕切り直しお願いしますー」
 他ならぬだった。
 周瑜の方を向いている。仕切り直せと言われても、と内心複雑ながら頷き、立ち上がった。
 話はきちんと聞いていたつもりだ。しかし、あれよあれよという間に話はどんどんずれていき、周瑜の頭脳を以ってしてもいったい何がどうなったのか分からない。どうまとめたものか、頭が痛い。
 は澄ました顔をしている。
「その」
 咳払いなどして話を整理する時間を稼ぐ。
「……つまり、殿。悪気はなかったのだな。貴女はあくまで、孫策……殿の身を案じた、と」
 張昭が目を剥いた。
「いえ」
 が即座に否定し、張昭がまたも目を剥く。
 頭に血が上り過ぎて倒れないかと、周瑜は張昭に目を遣りながら、はらはらしていた。
「……私が、勝手してやったことです。呉の方達に良くしてもらってた癖に、こんな勝手なことして申し訳ないです。ですから、罰はきちんと受けたいと思います……って言うか、罰は受けなきゃいけないんですけど、でも、私が勝手したのは本当ですけど、でもそれは、この国を踏みにじろうとしたつもりではないってことだけ認めていただけませんか。それだけは、どうかお願いします」
 深々と頭を下げるに、皆、声がない。
 罰を受けるつもりだと言うなら、何を言い募ろうと蛇足に過ぎない。誰も何も言えなかった。
 頭を上げたが、椅子に座ろうとして、こけた。
 先程自ら椅子を蹴飛ばしたことをすっかり忘れていたらしい、どしーん、と地響きにも似た音を立て、それは見事に引っ繰り返った。
 一瞬の間を空け、大爆笑が起こる。
 は顔を真っ赤にし、恥ずかしさのあまりか涙まで浮かべていた。
 その痛々しさに、周瑜は思わず顔を覆う。
 張昭は溜息を吐き、孫堅に拱手の礼を取った。
「……どうにも、罰を与えられる空気ではございませんな。遣りようは無茶苦茶ですが、申し立てにも一理あるかと存じます。如何でしょう、ここは一つこの張昭めにお任せ願えませぬか」
 孫堅は鷹揚に頷いた。
 それを見た孫権は、さっと顔色を変える。
 何をする気だ。
殿」
 呼ばれたが、慌てて立ち上がる。気をつけの姿勢で張昭に向けて畏まった。
「貴女はどうも、我らが修めた儒学と言うものを分かっておられないようじゃ。心して学べば、天地の理まで尽く明瞭となる素晴らしき学ぞ」
 言い返すこともなく、はへこりと頭を下げた。
「月に一度、我らと共に論議の場に加わること。その日の為に、学を積まれよ。貴女はどうも、礼が足りぬ。さすがの臥龍も、磨き損ねたようじゃ」
 が頬を染め、周囲から笑いが漏れた。
 失笑の類ではなく、どこか軽い、明るい笑いだった。
「……それで、様子見と致しましょう。特に悪さをしたようでもなし、こうして城に戻り、反省を見せていることでもあり。それでよろしいか」
 異論を唱える者はなかった。
 すっかり疲れ切ったという按配の張昭に、これ以上負担を掛けられぬという空気が強く場を占めていた。
「そ、そんな」
 のみがうろたえている。
「でも、あの……それじゃあ、罰になってない、ような……」
殿」
 うんざりとした態で張昭が吐き捨てた。
「貴女は、何を以って己が悪事を為したと仰るのかな。呉の跡継ぎの為に奔走したことか。医師の言いつけに背いて、病の床を抜け出したことか」
 答えられなかった。
「……まぁ、わしを役立たず呼ばわりしたことは、いずれ後悔してもらうのでそのおつもりでな。では、大殿」
 が目を白黒としている間に、文人達は一斉に立ち上がる。
 孫堅も続いて立ち上がり、重々しく宣言した。
「皆の者、ご苦労。本日のこの場、これにて散会とす」
 査問が終わった。

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