文人達が室を辞し、と周泰、孫権と周瑜のみが残された。
 がらんとした室内は、意外に広かった。人が詰め掛けていた証拠だろう。

 茫然自失として立ち尽くしているに、孫権は恐る恐る声を掛けた。
 矢庭に膝から崩れ落ちるに、孫権達は慌てて駆け寄る。
 床に這いつくばって、まるで床に口付けを落とそうといった風情だ。
 一体何をしているのかと、一様に顔を合わせる。
「……うごー」
 うめき声が上がり、はのたくたと顔を上げた。
 疲れ切った顔をしている。
 だらしなく開いた口から大きく息を吸い込み、また吐き出した。数回繰り返して、ようやく口が閉じられる。
「疲れた……」
 肩をとんとんと叩いている様子はまるきり年寄りのそれだ。
 疲れたのは周瑜も同じで、詰ってやりたい衝動に駆られた。はっと思い当たる。
「何故、私の言う通りにしなかったのだ」
 途中までは、不承不承ながらも周瑜の言い付けを忠実に守っているように見えた。だから周瑜も、そのつもりで頭の中で策を練り、場を仕切って文句を言わせないだけの言霊を整えていた。
 それが、急なの反乱で何もかもが台無しとなった。
 上手く納まったから良かったようなものの、下手をすれば更に厳罰を処されていたかもしれない。
「だって」
 不貞腐れ顔で周泰を見上げるに釣られ、周瑜も孫権も周泰を振り返る。
「周泰殿が、刀の柄に手を掛けてるから、びっくりしちゃって」
 あの瞬間、は背中を押し出されるように飛び上がっていた。何とかして周泰を止めなければならない、その一心だった。
 ところが、孫権は気難しい顔をしてを見下ろすばかりだ。
 周泰も、やや困惑したようにを見ている。
 何かおかしなことを言っただろうか。
 が周瑜を振り仰ぐと、周瑜は軽く溜息を吐いた。
「すると、お前は周泰が刀を抜いて血の雨を降らせようとしているのだと勘違いした、と言うのだな」
「へ」
 勘違い、と聞こえては頓狂な声を上げた。
 孫権も大きく頷き、決して聞き間違いでないことを証す。
「……もしも周泰が殺気立ったとすれば、私が気付かぬはずがあるまい。何の為に私が隣に付いていたと思っている」
 得意の居合いを披露されれば、文人の一人くらいはあっという間に屠ってしまうだろう。だからこそ周泰を文人達から引き離し、壁際に座らせた上で孫権が隣に付いたのだ。
「だ……だって、普通は武器とか持ってこないでしょ!?」
 の必死の主張にも、皆、一様に首を傾げるばかりだ。
「何故だ」
 逆に問い返されてしまい、は何と言っていいか分からなくなってしまった。
 口篭るを不思議そうに見下ろしながら、孫権は言葉を続ける。
「武人たるもの、如何なる時にも武器を手放さぬのが筋ではないか」
 体の一部を、何でわざわざ置いてこれる。
 孫権はそう言うが、は納得がいかない。
「だ、だって、周泰殿は査問に呼ばれてたんでしょう?」
「そうだが」
 頭の中で話が噛み合わないらしく、孫権はますます首を捻る。
「査問であって、罪人を裁く場ではない」
 周瑜が割って入ってきた。
「武人から武器を取り上げるのは、歴とした罪がある時だけだ。故に周泰は帯刀を許されていた。私や孫権殿も剣を携えているのを見れば理解できよう?」
 何とはなしにの言いたいことを察してくれたらしい。周瑜の説明を聞いて、はようやく把握した。要するに、嫌疑を掛けられた程度で武器を取り上げることはまずないのだ。
「でも、でも、周泰殿が刀の柄に手を掛けてたのは本当ですよ? 私、見たもの」
 が喚き散らし、周泰はしばし何事か考えていた。
「どうした、幼平」
 何か気付いたらしく、周泰の唇が少し動いたのを孫権が目敏く認める。
 周泰はの前に膝を着くと、刀の柄に手を掛けて見せた。
「……癖だ……」
「は?」
 軽く柄を叩く周泰に、刀の柄に手を掛ける癖がある、と言っているのだとやっと理解できた。
 理解できたが、途端にどっと疲労がを襲い、ずぶずぶと体が沈み込む。
「……先に言ってくれ……」
 勘違いから暴走し、大勢の前で訳の分からんことを喚き散らしてしまった。
 疲労に恥が上乗せされて、はしばし自分の殻に閉じこもった。

 室から出てくると、ちょうど大喬が駆けつけてきた。
「大姐!」
 の顔を見るなり嬉しそうに微笑む大喬に、も釣られて微笑んだ。
 疲労は極みに近かったが、大喬の素直な好意に気持ちは和んだ。
「ご無事でしたか、何かされたりしませんでしたか」
 査問の一件は聞いて居たのだが、室で控えているようにと孫堅から沙汰があったもので、今の今まで室に篭もっていたのだという。
「うん、もう終わった。一応、大丈夫だったけど」
 査問が終わったことを聞いて出てきたのであれば、に与えられた処置もその時に聞かなかったのだろうか。
 大喬は、に処罰らしい処罰がないことを聞くと嬉しそうな顔をしてみせて、転瞬切羽詰った表情での手を取った。
「孫策様を、お見かけしませんでしたか?」
 何でも、大喬と一緒に居たところで沙汰を受け、大喬に室に居るよう言い残したまま帰ってこないのだという。
「お義父様のところへ行って直談判されると仰ってたんですけど、なかなかお戻りにならないし……私、心配で……」
 正直に言えば、孫堅と折り合いが付かず査問会を潰しに行ってしまったのではないかと思ったのだそうだ。それで直接孫堅の室には行かず、まずはこちらへと出向いてきた。
 大喬の考えは実に理路整然としていて、孫策の行動を良く見抜いていると思えた。
 しかし、孫策は査問の場には現れていない。
 よくよく考えれば、あの男が飛び込んでこないのもおかしな話だ。卑怯卑劣の類が大嫌いで、しかも自分が惚れた女が吊るし上げに遭おうかと言う時に、黙って引っ込んでいる性質とも思えない。
「…………」
 その場に居合わせた全員が一斉に頷いた。
 目指すは、孫堅の室だった。

 孫堅の執務室前でが伺いを立てると、中から入室の許しが下りる。
 どやどやと入ってきた集団に、孫堅の顔はわずかに呆れていた。
「何だ、が礼を言いに来たかと思えば、違うのか」
 故意にがっかりした態の孫堅に、はいきり立ち孫権は怯み、周瑜は頭痛を覚えて額を押さえた。
「お義父様、孫策様をお見かけしませんでしたか」
 大喬が即座に切り出した。
 不安で潰れそうなのか、華奢な手を重ねて胸を強く抑えている。
 意地悪を言うのも気が引ける可憐な大喬の様に、さすがの孫堅も哀れみを覚えたのか、ついっと室の奥を指差した。
 大喬は一礼するなり続きの隣間に走り込んでいく。
 が覗き込むと、以前孫堅と食事をした時と変わらぬ豪華さだった。調度品が幾つか見慣れないものに変わってはいたが、それすら孫呉の豊かさを強調しているかのようだ。
 しかし、孫策の姿は見えない。
 大喬は気持ちが焦るのか、大きな壺の中などを覗き込んでいる。
 確かに孫策一人くらいは入りそうだが、あの孫策がそんな壺の中に仕舞われたままでいると言うのも想像が付かなかった。
 の目が、ふと厚い布壁に留まる。
 昨夜は、この向こうで孫堅に抱かれた。
 濃厚な愛撫が記憶にまざまざと蘇り、は思わず頭を大きく振る。
 いつの間にか孫堅が室の隅に立っていて、の様子をじっと見ていた。
 目が合うと、にやっと笑われる。
 体が熱くなるのを誤魔化すように、きつく孫堅を睨む。けれど、それすら孫堅には愉快で堪らないらしい、面白そうに笑っている。
 孫策の姿は、何処にもない。
 大喬が涙目になっているのを見て、は羞恥を振り切り思い切って布を捲り上げた。
 果たして、そこに孫策が居た。
 猿轡を噛ませられ、しかもどうやら二重と言うご丁寧な仕様に、海老反り状に手首足首を戒められている。
 背中を向けてじたばたともがいて居たのだが、の姿を見ると更に勢い良く跳ね始めた。
 きっちり身動き取れなくされているというのに、スバラシイ体力と褒めていいのやらどうやら。
 が呆然としていると、その脇から顔を出した大喬が悲鳴を上げて中に飛び込む。
 周瑜達も後に続き、孫策の無様な姿に唖然としていた。
 大喬が縄を解こうと懸命になるが、ぎちぎちに固く結ばれた結び目はなかなか解けそうもない。
 最後に室に入ってきた周泰がそれと見ると、不意に腰を沈めて柄に手を掛けた。
 二閃。交差した白い斬撃は、孫策の体を掠めることはなくその身を拘束する縄だけを断つ。
 自由になった途端に跳ね起きた孫策は、拘束されていた痛手も何のその、真っ直ぐに孫堅の前へ走り込んだ。
「何すんだ、親父っ!!」
 どうやら孫堅自らの手で捕縛されていたものらしい。
 実の親とは言え、否、実の親だからこそあまりに手加減なしの非情な縛り上げ方だ。
 感心半分、呆れ半分のに、孫堅は悪戯めいた笑みを浮かべた。
「いきなり縛り付けやがって、どういうつもりなんだよ! 昨日といい今日といい、いい加減俺も頭に来るぜ!」
 と言うことは、昨日は怒ってなかった訳か。
 は心密かに突っ込んだ。
 孫策の怒りをいなしながら、孫堅は笑う。
「縛ってでも置かなければ、お前は査問に殴り込んでくるだろう?」
「おう!」
 当たり前だと言わんばかりに胸を張る孫策に、は頭痛を覚えた。
 孫策が飛び込んできたら、もう誰にも収拾が付けられなかっただろう。今だけの条件付なら、孫堅に感謝してもいいくらいだ。
 周瑜と目が合い、互いに苦笑いが漏れた。心が通じたものらしい。
「……孫策様、ホラ、大喬殿が心配してるから」
「お……う?」
 の呼び方が気になりつつも、孫策は涙目で事態を見守っている大喬に気付いたらしい、すぐに大喬の傍へと駆け寄った。
「俺はと少し話がある。お前達、廊下で少し待っていろ」
 人払いを命じられ、孫策達はわずかにむっとした気配を見せる。
 しかし、少しという言葉と廊下で待っていられるという距離の近さに、渋々従うことにした。
 以外の全員が扉の外に姿を消すと、孫堅は改めてに向き直った。
「俺は、上手くしてやったろう?」
 その笑みに、は目を見開いた。
 どういうことだ、と問い掛けている。
「張昭には、俺から手を回しておいた」
 あっけらかんとした種明かしに、は言葉もない。
 孫堅が話して聞かせたところによると、から『報酬』を受け取った孫堅は、早速に舞台作りに取り掛かった。
 張昭と密かに落ち合うと、文人達を取りまとめさせ、適当にを弄って事を安穏に終結させるように命じた。
 諸葛亮にいいようにされた文人達も、多少をいたぶれば気が済むだろうと見越し、張昭もそれに同意してせいぜい快くいたぶって差し上げようと約定した。
 張昭は、年の上から言っても才から言っても、文人の取りまとめに相応しい。また、これまで張昭自身が敢えてに接近するようなこともなかったから、役どころとしては正に相応しかったのだ。
 と言って、朝早い内から張昭を呼び出せば、鼻の利く者が裏の事情を嗅ぎ付けないとも限らない。
 だから廊下の立ち話で、互いに二言三言で済ませたそうだ。
 の席を孫堅の前に露骨に位置取らせ、に食って掛かろうとする文人達を尽く威圧できるように調整したのも孫堅だった。に怒鳴りかかれば、即ちその背後の孫堅にも口汚い言葉を浴びせることになる。相対した文人の席からならば即座に分かり、生半な文人達では口を開くことも叶わない。
 時間がなかったにも関わらず、孫堅はこれだけの手筈を容易にしてのけた。
 君主として如何に内部を統制しているか、人心を把握しているか、臣の忠義を傾けられているか。
 すべてを鮮やかに見せ付けられた。
 最早、言葉もない。
「報酬の追加を強請りたいものだな」
 軽く首を傾けた孫堅に、は思わず目を逸らした。
 目を、奪われてしまいそうだった。一度目が合ってしまったらもう離せなくなるような、そんな予感に怯えたのだ。

 孫堅は、構わず距離を零まで詰めた。
 押し付けられるものに、の体が色めき立つ。
 廊下で孫策達が待っている。
 分かっているのに、重ねられた唇に舌を差し出していた。

← 戻る ・ 進む →

Arrange INDEXへ →
TAROTシリーズ分岐へ →