査問が終わったという話を聞いたのは、夕暮れも早、残照と化した頃だった。
 空を包む紫は濃紺へと色を変え、星が瞬くのが幾つか見え始めている。
 義理堅いが視野は狭いのことだから、報告に来ないのもある意味納得できることだった。あるいは、気疲れが過ぎて眠っているのかもしれない。
 遠慮した方が良いか迷いつつ、しかし詳細を聞かぬことには落ち着かない。
 取り立てて処罰を下されたということはないらしいが、思わぬ難題を吹っ掛けられていてもおかしくなかった。
 己如きでも、役に立つことはあるやも知れぬ。
 呂蒙はそう思い立ち、仕事を切り上げて執務室を後にした。
 ただ顔が見たいというわずかな身勝手を自覚しつつも、呂蒙は歩みを止められなかった。

 の室に、気配がある。
 戻っていることが分かり、一先ずほっとした。
 凌統が討伐に赴いて以来、張り付くように警護していた兵達は居なくなった。
 代わりに、の室に通じる廊下や庭に、人を手配していると聞いてはいたが、その割には人気はない。目立たぬようにとも聞いていたが、しかし本当かどうかも怪しいものだ。
 周瑜が手配した筈だが、案外物々しい警護を忌み嫌ってわざと人を置かないようにしているのかもしれない。
 先の謀反に際し、かなり多くの処刑が為された。
 冷遇に恨みを抱いた諸侯の企てた謀反であったから、と馴染みのあるような、嫁取りの宴に加わった面子の中で罪累に上がった者はほとんどいない。戻ってきた時に執り行われた宴でも、が気付いた様子は見られなかった。
 風の便りに伝え聞いては、とも思ったが、幸いの耳には届かなかったようだ。
 の為の処刑と揶揄する者さえ居た。事実は異なるが、そうと取られても仕方ない面もある。もしも伝え聞いていれば、死を異様に恐れるのことだ。きっと気に病んで暗く沈みこむに違いない。
 だから、周瑜はを特別扱いしようとはしなかった。それこそ呉に仕える身分も低い文官の如く、粗雑に顧みずにを旨に付き合っているように見えた。
 呂蒙の行動は、そんな周瑜の厚意に背くものに違いない。
 どうしても気になってしまう。目で追ってしまう。
 いかんな、と思いつつ、さて何と声掛けたものかと考え込んでいた。
 のことを考えると、心が浮き立って仕方ない。執務に影響させないように努めているが、こうして傍に来たと実感すると、途端に頭の中が一杯になってしまう。
 まったくもって俺には似合わん、と自嘲が漏れた。
「お、おっさん。何してんだよ、こんなとこで」
 気安い呼び掛けにうんざりする。
 顔を上げると、案の定甘寧がこちらへ向かって歩いてくるところだった。
「……どうなったか、気になってな」
「俺もだ。あのアマ、査問が終わったってぇのに報告にも来やがらねぇ」
 言うなり、甘寧はの室の扉を開けた。鍵の類は掛かっていなかったらしい。
 あまりの無作法にぎょっとしている呂蒙を置き去りに、甘寧はすたすたと中に入っていく。
 止めなくては、と慌てて追い掛け、続き間の手前で甘寧に追い付いた。
「おい、甘寧……」
 その顔が固まっているのを見て、呂蒙は甘寧の視線の先に目を向けた。
 そこには、裾長の文官装束を大胆にたくし上げ、下着を下ろして股間に手巾を押し当てているの露な姿があった。
「…………」
 沈黙が落ちた。
 の顔がみるみる青褪め、唇がわなわなと次第に大きく戦慄きだす。
 まずい。
 金切り声を上げようとしたの口を押さえたのは、甘寧ではなく呂蒙だった。

「ざけんな」
 甘寧は、一人怒り狂っている。
 報告にも来ない筈だ。査問の帰りに男と乳繰り合っていたのなら、来れる訳がなかった。
 いい様を見られ、本来ならこちらが怒り狂うのが正当だろうは、泣き出しそうな顔でしょんぼりと肩をすくめている。
 小さな円卓に三人で腰掛けているから、互いの距離はごく近い。は怒り狂う甘寧を避けて椅子に深く座っているようだが、元々の距離が短いので大した差はなかった。
「……こ、これから行こうと思ってたんだもん」
 言い訳じみた言葉を呟くに、甘寧はぎろりと容赦ない視線を送り付ける。
 険しい視線を受け、は首がなくなるのではないかと思うぐらい縮こまった。
 呂蒙は、掛ける言葉が見つからない。
 思い掛けない場面を目撃し、驚愕のあまり気が抜けてしまい、興奮するどころか頭の中は真っ白に染まってしまっていた。
 そんな呂蒙を役に立たないと踏んだのか、甘寧が滔々と説教垂れるという恐ろしい状況になっていた。
「まず、俺達に報告するのが筋ってもんじゃねぇか。そうだろうが」
 ごもっともである。
 だからこそ周泰に依頼して伝言を頼んだのだが、周泰も切羽詰っていたのか、の頼みごとを物の見事にすかんと忘れてくれたらしい。
 孫権がに残れと言ったのを聞いて、ぴんと来るものでもあったのだろうか。が孫権の室から出てくるのを、ひょっとしたらずっと待ち続けていたのかもしれない。
 実際のところは本人に聞いてみなくては分からないが、恐らくそんなところだろう。
「……ったく、後であの野郎にもよくよく言ってやらねぇとな」
「あの、野郎」
 鸚鵡返しに問い掛けるに、甘寧は鋭く舌打ちした。
「どうせ相手はあの野郎だろ。跡継ぎだからって好き放題しやがって、ちっとばかし痛い目って奴を見せてやらねぇとな」
 跡継ぎ、と聞いて、の顔が引き攣る。
「だ、駄目」
「馬鹿野郎、何が駄目だ」
 何なら今からでも行ってくるか、と甘寧は席を立つ。
 途端、甘寧の腕にがしがみついて留めた。
「駄目、だ、だって、だって伯符じゃないし」
 甘寧の片眉が跳ね上がった。の顔は、既に青を通り越して白だ。
「……あの野郎じゃないってんなら、何処のどいつと乳繰り合ってたってんだお前ぇは、えぇ?」
 の顎を捉え、俯けないようにして目を合わせる。
 刺すような鋭い目に、は身を震わせた。
 甘寧は、不意にニヤリと口の端を曲げる。剥き出しになった白い犬歯が、人のものとも思えぬ程鋭く見えた。
「口で言いたくねぇんなら、体に訊いてやろうか」
 体が浮き上がり、は悲鳴も上げられぬまま体を硬直させた。
 甘寧の肩に担ぎ上げられ、室の奥へと連れて行かれる。
 唇がぱくぱくと動くが、声は一向に出てくれなかった。
「か、甘寧!」
 さすがに我に返って、呂蒙が怒鳴り声を上げる。
 甘寧は小さく舌打ちし、呂蒙を振り返った。
「……冗談、冗談だよ、おっさん」
 言いながらを下ろすが、はがたがたと体を震わすばかりで足元すら覚束ない。
 手を離すとへたり込みそうになるので、甘寧はの背中に手を回し、自分にもたれ掛けさせるようにして支えてやった。
 突然、が泣き出す。
 子供のようにぴーぴーと泣くので、甘寧は呆れたような目でを見下ろした。
「お前ぇ、いったい幾つだ」
「うっ、うる、うるさい、なっ!」
 びっくりし過ぎて、涙が止まらなくなった。
 とて、早く報告しようと思って居て、気が焦って扉の鍵を掛け忘れたのだ。
 甘寧達とて、下着を下ろす前か始末が終わった後にでも来てくれたらいいではないか。何で、よりにもよって下ろして始末している真っ最中に乗り込んでくるのだ。
 ここのところ、何でも悪いように悪いようにと事が運ぶ気がする。厄年だろうか。
 八つ当たり先が見つからないまま狂ったように憤った感情が、涙という形で噴出したのだ。しばらくは止まるまい。
 ぐしぐしと乱雑に拭っていると、頭をぐしゃぐしゃと掻き回された。
「泣ーくーなって」
 子供のように泣いているからか、子供のような扱いを受けている。
 腹は立つのだが、何故か涙がすっと引いてきた。
 何か、悔しい。
 むぅっと頬を膨らますに、甘寧はけらけらと笑い出した。
 睨め付けるの前で、笑っていた甘寧の顔がふっと真剣な面持ちに変わる。猫の目のようにくるくる変わる表情は、妙に蠱惑的で目が離せない。
「……で、誰なんだよ」
「誰って」
 流してくれたと思った話題なのに、甘寧は執拗だった。
「……言えない……です、ごめん」
 出していい名前とも思えなかったし、甘寧に言っていいとも思えなかった。
 気まずさから詫びると、甘寧は無言のままを睨め付ける。
 は俯きはしたものの、敢えて甘寧の視線に自分を晒した。
 どうしても、言えなかった。
「……わかった」
 意地の張り合いに、先に折れたのは甘寧の方だった。
 ほっと気が緩んだの手を取ると、ぐっと顔を寄せる。
「分かったからお前ぇ、俺と寝ろ」
「は?」
 ナニヲイッテルンデスカー。
 思わず頭の中が外国人になる。
 呆然とするを他所に、甘寧はを連れて牀のある室の奥へと歩き出した。
「か、甘寧っ!!」
 呂蒙が怒鳴ると、甘寧も怒鳴り返す。
「おっさんは後だ!」
 ぎゃああ。
 ナニイッテルンデスカ、アナター!!
 外国人から立ち返れないものの、体には俄然抵抗の意志が蘇ってきた。足を踏ん張り、引き摺られつつも、お断り申し上げますと全身で拒絶する。
「……んでだよ、お前ぇ、誰でもいいんだろうがっ!!」
「だっ、誰でもいいって訳じゃないもんっ!!」
「なら、俺ならいいだろうがっ!!」
 うん。
 内心、即座に納得してしまった自分にぎょっとした。
 体の力が抜け、踏ん張っていた足からも力がすこんと抜ける。
 浮き上がった体が甘寧に激突し、鼻の辺りに熱い衝撃が走った。
「……っ……」
 声なき悲鳴に、甘寧もぎょっとしてを見遣る。鼻を打ちつけたと知れたのかもしれない、慌てての顔を覗き込んだ。
「……鼻血は出てねぇな。びっくりさせんな、お前ぇはよ」
 はぁ、と大袈裟に溜息を吐く甘寧に、は誰のせいかと怒鳴り付けたいのを我慢した。鼻から口先に掛けて、まだ痺れるような痛みが残っていたのだ。我慢せざるを得なかった。
 醒めちまった、と甘寧は面白くなさそうに呟くと、頭を掻いて椅子に戻る。は未だに手を繋がれていて、そのまま引っ張られるものだから、仕方なく甘寧の後を追うように席に着いた。
「まぁ、また今度な」
 今度なんかねぇよ。
 怒り心頭といった態で睨め付けるのだが、甘寧はまったく取り合わない。出された茶を音を立てて啜りながら、酒ぐらい置いておけと文句を垂れている。
 呂蒙が軽く咳払いをした。
「その……何だな。少し、慎まれた方が宜しかろう」
 状況も何だろうし、時間もあれであろうしとごにょごにょと続ける呂蒙に、甘寧は訳が分からねぇとぼやく。
 甘寧に分からなくとも、には身に染みて理解できた。
 明らかに状況もナニだし、時間もアレだ。慎むべきだろう。
 ともかくも、もう少し査問の詳細を、と呂蒙が仕切り直しに入る。
 も気を落ち着けて、査問の状況を最初から話そうと頭の整理を始めた。
「周泰か?」
 ずばっとそのものの名を出され、の動きが止まる。
「ち、やっぱりあの野郎か」
 先越されちまった、と卓の上で不貞寝する甘寧に、呂蒙は一瞬怒り頂点に達する。
 けれど、固まったままみるみる顔を赤くするの様を見て、すぐに怒りよりも苦さが胸の内を占めていった。
 この苦さを如何にすべきか。
 悩みながら、結局に話の続きを促すしか出来なかった。

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