査問会の詳細を呂蒙に話すと、呂蒙は腕組みして唸り声を上げた。
「……本当に、それで構わぬと? 張昭殿にしてはいささか、らしくないように見受けられるが」
場に居なかった呂蒙は、雰囲気に流されないだけ冷静に物事を捉えていた。
さすがだと思う反面、どうしようと迷う。
孫堅が手を回したのだと暴露するのは簡単だが、何故孫堅がと訊き返されることは目に見えている。そうなると、周泰のみならず孫堅との関係をも暴露しなければならなくなりそうで、は打ち明けるのを躊躇った。
一人も二人も同じこと、と開き直れるならばいいのだろうが、抑えられる範囲で抑えられればそれに越したことはないと思う。
特に、学びの師である呂蒙に『淫乱な女』と蔑まれるのは嫌だった。
が周泰と関係したと知った瞬間の苦い顔は、鈍いとしきりに揶揄されるですらそれと分かる嫌悪に満ちたもので、は呂蒙が憤ってこのまま見捨てられてしまうかもしれないと思った。
けれど、呂蒙は小さく溜息を吐くと、静かにを促し話を再開させた。
流してくれた温情ゆえに、だからこそこれ以上は、という思いが胸にある。
「……蜀との、同盟を続けることに利があると考えてくれたのかもしれません」
結局、誤魔化した。
孫堅の為し様は、尊敬する君主の仕業としては人聞きが悪過ぎる。知ったところで呂蒙の得になることなど何もない、とは思い込んだ。
「どっちみち、月一でちくちくいびられるのは決定事項ですから。定期的に呼び出すことで、私の動向を見守ることもできるとか思われてるんじゃないでしょうか」
何もなしに等しくとも、本当に何もない訳ではない。
海千山千の儒学者達相手に議論、ということは、分かり易く考えてみれば、理科を学び始めた小学生にアカデミーの研究会に出席しなさいと言っているようなものだ。
無理に決まっていることを強制するのは、パワハラと言ってもいいのではないだろうか。
が溜息を吐いていると、呂蒙は軽く咳払いした。
「……そちらが構わなければ、だが、その、俺が教える時間をもう少し増やしてもいいのだが」
躊躇いがちの申し出は、にとっては至極有り難いものだ。しかし、は口元を押さえて眉間に皺を寄せる。
嫌だったか、と呂蒙は焦った。
「……これ以上、負担を掛ける訳には……」
押さえているが故の低い声が漏れた。
そんなことかと内心安堵しながら、呂蒙は余裕を見せて肘を付く。
「今のところはそれ程多忙であることもない。戦でも起こらぬ限り、軍師兼任といえど時間の都合は合わせられる。お気に召さるな」
呂蒙の言葉に、は口を押さえていた手を除けた。
そこに嬉しげな笑みを見出し、これを隠そうとしてかと気付く。
無遠慮に申し出に乗ろうとしたことを恥じたのだろう。その嗜みは呂蒙にとって酷くくすぐったい、照れ臭いものだった。の己への信任が、その笑みに滲んでいるように見えたのだ。
互いの都合が合い次第、ということで、どのように調整するかを話す。
甘寧は詰まらなそうに二人の話し合いを頬杖突いて見つめていたが、不意に腕を伸ばしての耳朶に触れた。
腰から下に引き絞られるような悦が駆け抜け、は椅子から転げ落ちる。
「……か、甘寧! 何をしているのだ、お前は!」
思った以上の反応に、甘寧は一瞬気が抜けて、転瞬爆笑して卓を叩いた。
転げ落ち、床にへたり込んだまま耳を押さえているは、顔から首筋の方まで真っ赤にしている。
ようやく笑いが収まった甘寧は、にやりと笑っての顔を見下ろした。
「……んなに感じやすくちゃ、いっくら気ぃ遣っても足りねぇだろうよ」
「ううう、うるさいなぁ、もう!」
は乱暴に耳を掻くと、引っ繰り返した椅子を戻す。
甘寧に背を向け屈み込むその尻を、甘寧の目は遠慮会釈もなしに眺め回した。
呂蒙の顔は渋い。
「では、殿。俺達はそろそろ、この辺で、な」
「あ、はい」
唐突に呂蒙は席を立ち、甘寧の首根っこを引っ掴むようにして立たせてしまう。
甘寧はやかましく騒ぎ立てたが、逆らう気はないのかおとなしく呂蒙のなすがままにされていた。
二人が室を出て行くのを見送りつつ、仲睦まじい様に自然に笑みが零れた。
自分も、あんな風に出来たらいいんだけどな。
は、未だ熱を帯びた耳朶に指を添える。
そっと触れると、先程甘寧が触れてきた指の感覚が思い出され、背筋が震える。
相手はお頭なのに。
自分の淫乱さが恨めしくなった。
「……おっさん、いい加減離してくれよ」
なあ、と甘えて強請るような甘寧に、呂蒙はようやく巻き締めていた腕を離した。
首の辺りを撫でさする仕草は嫌味っぽいのだが、口元に浮かんだ笑みは不快感を帳消しにしても尚余りある、男ながらに惚れ惚れとするものだった。
「甘寧、お前、殿にちょっかいを出すのはいい加減に止せ」
「何で」
呂蒙の苦言も、甘寧には通じない。
平気な顔をして聞き返してくる始末だった。
「殿は、蜀の文官だ。そこいらの端た女とは訳が違う」
「まあ、確かにそこらの端た女とは比べ物にならねぇらしいけどな」
アレの具合が、と下卑た笑みを漏らす甘寧に、呂蒙は眉間に皺を刻んでみせた。
「お前」
「おっさんだって、興味ないとは言わせないぜ」
更に説教しようと口を開いた呂蒙の言を、甘寧は自らの言で遮った。
「あの周泰が、大事な大事な孫権様差し置いて手ぇ出した女だぜ? 気になるなってぇ方が酷な話だ。そうだろうが」
天下国家はいざ知らず、女を巡っての諍いなど珍しいことではない。巷ではありふれ過ぎていて、それがどうしたで流されるようなことなのだ。
「どんな『味』なんだろうなぁ、なぁおっさん」
「甘寧」
呂蒙の声は低く、濁声に近い。
けれど、それが怒りを含むと異様な重みを増して相手を威圧する。
「それ以上は、言うな。言えば、俺が許さん」
言い切った呂蒙の言葉に、しかし甘寧は笑みを崩さずへいへいと投げ遣りに返すのみだ。これには呂蒙も苦笑いする。戦場では多くの兵士が震え上がる恫喝も、甘寧にはなしのつぶてだ。
「おっさんは、あの女に惚れてるからな」
軽口を言い捨て歩き始めた甘寧は、隣に来る筈の呂蒙がいつまでも追いついて来ないことに気が付いた。
あん、と軽く後ろを振り返ると、放心して立ち尽くしていた呂蒙が突然顔を真っ赤にし、ひっぱたく勢いで手のひらを打ち付けているところだった。
「……マジかよ……」
自分で気が付いていなかったらしい呂蒙に、甘寧はその初心さに呆れていいのか感心していいのか迷って唸り声を上げた。
一人になったは、まだ他に何か遣り残してはいないかと考え込んでいた。
あまりに立て込み過ぎた。
責められたり慰められたり、情事ですら二人相手を捌く様にこなし、恥じ入るばかりの醜態を見られたり無理矢理見られたり(見られてばかりじゃないかと言うことはさておき)、そんな次第でほっとするよりも何か忘れているのではないかと尻の座りが悪くなるばかりだったのだ。
思い付きはしないのだが、思い付かないだけで何かあるのではないかと半ば神経症の発作のように思い悩んでいると、この城付きの家人の訪問を受けた。
さすがに家人相手に何か約定した覚えはない。何だろうと出迎えると、沐浴用の湯を持ってきてくれたのだと言う。
「本日からは、また毎日お届けするように、と」
誰の指示か尋ねると、大喬からだという。
大喬か。
どうしようかと一瞬迷ったが、今日わざわざ大喬の元を訪ねて礼を言うのもおかしな気がした。大喬とは顔を合わせて事情を説明してあることだし、礼は明日でも良かろう。
その場で一番偉いと思われる年かさの女官に、礼を言っていたと伝えてくれるよう頼むと、恭しく頭を下げて必ずお伝えいたしますと承る。
自分如きにそんな、という思いが強い。
戸惑いながら頭を下げると、女官は不思議そうな顔をした。少し躊躇ったように間を空けたが、すぐに思い切ったように口を開く。
「……殿、殿は御家人をお連れでないと伺っております。差し出がましい口を聞くようですが、私共でお手伝いできることがありましたら、何なりとお申し付けいただきとうございます」
今までここの家人がやってきたことと言えば、の飲む茶の為の湯を届けることと沐浴の湯を届けることのみと言っても過言ではなかった。
食事はわざわざ煮炊き場まで取りに来てしまう。膳は無論自分の足で下げに来る。茶葉は自分で買い求めると聞いている。洗濯も、水場を借り受けてしているのを見た。持ってきた鉄瓶の湯はなくなってしまっていることも多く、沐浴の湯に至っては使い終わった後はわざわざ庭に捨ててたらいを干した状態で片付けてある。
女官から言わせれば、何とも言えず歯痒いのだという。
「あ、えと」
どう答えていいか分からず、すいません、と頭を下げると女官は目を剥いた。
「無礼なことを申し上げているのは、こちらでございます。どうぞそのように頭を下げられませぬよう……わ、私共の肝が冷えましてございます」
要するに、こちらの仕事なのだから気を使ってくれるな、どんどん使ってくれたらいいのだと言う話らしい。
人を使うのに慣れていないには、それでも幅ったく感じられてならない。
女官は半ば呆れているようだが、なるべく改めるからと頭を下げると、また慌てて諌められた。
「どうぞ、私共のことはご自分の手下と思し召されてご自由にお使い下さい……私共も、殿の好きなようにしていただくよう命を受けてはおりますものの、こうもお声が掛からないと段々に心配になりましてございます」
使い物にならぬと思われているのではないか。
それは、自身にも思い当たる感情だった。
「分かりました、何とかこう、お願い事を探しておきます」
ぐっと握り拳を握ったに、女官は呆気に取られ、次いでくすくすと笑い出した。
「ご、ご無礼を、どうも……」
詫びてはいるのだが、笑いが込み上げて止められないらしい。
も顔が赤くなるのを感じたが、おかしなことを言ったかもしれないと思うので苦情も言えない。頭を掻いていると、女官は懸命に笑いを堪えたらしく、口をへの字に曲げて軽く咳払いをした。
「……折角のお湯が、冷めてしまいますわね。どうも勝手なことを申し上げまして」
「あ、いえ、こちらこそ」
が口を挟むと、女官は疲れたように肩を落とし、しかしくすりと笑った。
「ご伝言は、必ずや大喬様に。きっとお喜びになられます」
女官がそう言って頭を下げると、まるで申し合わせたように皆が皆一斉に頭を下げた。
慌てて頭を下げ返すを取り置き、しずしずと去っていく。
最後の家人が出て行くと、恭しく頭を下げて扉を閉める。
鍵を掛けに後を追っていたは、またも慌てて頭を下げた。
ようやく一人になった。
今度こそそれと認識して、はくたびれ果てて項垂れた。
低い屏風越しに温かな湯気が見えている。
行儀悪く服を脱ぎ散らかすと、素っ裸になって屏風の中へと足を踏み入れる。
たらいの中の湯は、やや温めにしてあった。熱い湯を入れた蓋付きの桶も、それを埋める水も、たらいから手が届くところに並べられている。
細やかな気遣いに感謝しつつ、たらいの中に腰を下ろす。
湯の温さに、体の芯に凝り固まっていた緊張が解けていくようだった。
が湯を掬い上げると、ほのかな芳香が鼻をくすぐる。香油を振ってあるらしい湯は、身も心も解きほぐすような優しい香りを漂わせる。きっと大喬の指示なのだろう。
会いに行っても、良かったのだ。
分かって、避けた。
事の起こりはつまらない嫉妬をした自分だ。責任は孫策にもあると喚いてしまったけれど、本当の責の所在は自分にこそあると思う。
嫉妬と言うよりは僻みと言うべきか。到底大喬のようにはなれない、出来ないと今更覚り、その隣に並べられるのを嫌悪したのだ。
だって、仕方ない。
演義では赤壁の戦いのきっかけとさえ言われる、二喬の片割れだ。年も自分よりずっと若く、直に見てその愛らしい美しさに妬ましさも忘れて見惚れてしまう。あの曹操が欲したと伝えられる程の美貌と才に並べられるのだ。
もしも自分は平気だと言う人がいるなら、は心底羨ましいと思う。
を好きだと言ってくれる。
となら、並んでもいいと言ってくれる。
けれど、卑屈になればそれらの言葉は幾らでも卑屈に受け止められた。
私となら、そりゃあ、並んだって別に痛くも痒くもないわな。
湯が解き放つのは疲れだけではないようだ。
体を浸すように丸まっていたのを起こし、は髪を湯に浸けた。
汚れごと嫌な気持ちを洗い流してしまいたかった。