呉に戻ってきてから、その絶望的な間の悪さに食傷気味だった。
嫌なことは続くというが、そろそろ勘弁して欲しいものだ。
早目に寝てしまおうと夜着に着替えたの元に、大喬が訪ねてきていた。
「お休みになるところでしたか」
申し訳なさそうにの夜着を見詰める大喬を、が見詰め返す。
年の割には幼い、まだ少女少女したあどけない顔だ。
けれど、もう少し成長したら(成長できるか分からないがなどと意地悪なことも考えてしまうが)きっと美しい女性に育つだろう。
それも、見るものすべてを虜とするような美しい女性に。
と違って、武の才にも溢れた少女だ。孫策の、小覇王という光の隣にあって尚誇らしげに咲き誇る花だろう。
そこを自分の居場所と定められることに嫌悪があった。
綺麗なお花にキラキラの効果が入っているところにおどろ線なんて入れたら台無しになるだろう。
自らをおどろ線の効果と蔑んでしまうのが情けないが、他にいい例えも浮かばない。
いつの間にか思案に沈んでいて、大喬が心配そうに見詰めていた。
「お疲れでしょうか……」
困っている。
大喬を困らせたい訳ではなかったから、は無理に笑みを浮かべた。強張ってしまうのは申し訳ないが、大目に見て欲しいところだ。
「ええ、ちょっと……色々ありましたしね」
敢えて否定もしない。疲れていたのは本当だ。
大喬は、の返事を聞いてもまだ何か悩んでいるようだった。としては、『そうですか、ではまた明日にでも』と素直に引いてくれないかと期待していたのだが、そうも行かないらしい。
二進も三進も行かなくなって、仕方なく誘い水を向けた。
「……何か、御用でしたか」
大喬の顔が笑みに綻ぶ。
が話を振ってくれるまで待っていたのかもしれないが、何となくいらっとした。
「今、身内の者だけで簡素な宴をしているんです。大姐も、ご都合がよろしければ是非と思って」
ご都合がよろしくないのは先に話したつもりだが。
つけつけと尖ったような感情が悪口雑言を振りまいてしまう。胸の内で留めて置ける内に、大喬には諦めてもらいたかった。
「……うん、でも、私は蜀の文官だし」
「そんな、大姐は特別です」
「でも、一応、体面だけでもと思うんで」
「大姐が来てくれたら、皆喜びます」
うーん。
伝わらない拒絶に、は苦笑いを浮かべた。
どうしたら伝わるのだろう。自分は嫌なのだ。行きたくないのだ。
それとも、自分が諦めて顔だけでも出したらいいだろうか。前の職場と同じように、自分を殺して、嫌味に耐えて。
そうするのが、当たり前なのかもしれない。仕事なのだから。
「……分かりました、じゃあ、仕度してきますから」
嫌々承知して戸を閉めようとすると、大喬の無邪気な声が高らかに上がる。
「私、お手伝いします!」
あー。
もう駄目だ、とは投げた。
進歩がなかろうが性格が歪んでいると言われようが、もう結構だ。実際その通りだし、こうも勘違いされると辛過ぎる。
最近はようよう影を潜めたらしい夢遊病も、こうなってはいつまた発症してしまうか知れたものではない。
息を深く吸い込む。
人を傷付けるのには、それなりに覚悟が要った。
特に、大喬のような素直で無垢な少女を傷付けるのは、人としての大事な何かを失くしてしまいそうな気すらする。
けれど、胃の辺りに感じる重い痛みにも、もううんざりだった。
「大喬殿」
の呼び掛けに、大喬は愛らしい笑みを浮かべて小首を傾げた。
可愛い。
それだけに、憎たらしくなる。
「大喬殿は、いったい私を何だと思ってるんですか」
切り付けるような鋭さを秘めた言葉に、大喬の大きな目が更に大きく見開かれる。
構わずは言葉を続ける。構っていては、もう二度と言えない気がした。
「私、そんな大した人間じゃないんですよ。二喬の、しかも呉の跡継ぎの正夫人に、着替えの手伝い頼めるような身分の人間じゃないんです」
お気持ちは有難いですけど、と、取って付けたように繋げる卑劣さに我が事ながら辟易する。
「……とにかく、大喬殿は私を持ち上げ過ぎです。そんなに親切にされると、私、逆に困ってしまうんですよ」
「あ……そ、そうでしたか、ごめんなさい……わ、私、気が付かなくて……」
この期に及んで。
の口元は苦い思いのままにひしゃげる。
この期に及んで尚、大喬は無垢だった。の因縁に等しい主張にさえ素直に詫びを入れる。
その素直さは、の黒い感情を残酷なまでに煽った。
「……でも大姐は、孫策様の大切な人ですから……だから、私」
限界の二文字が脳髄に焼き付けられた。紅く熱された鏝が生肉に押し当てられるような、じゅうっという音と焦げた鼻を突く匂いを嗅ぎ取る。
無理だ。
泣きたいような笑いたいような、感情を極限に追い遣られる目に見えない圧力を感じた。
貴女の傍に、居たくない。
「貴女の隣には、立てません。立ちたくありません。だから、もう」
いい加減にしてくれ。
大喬の顔色は蒼白としている。
それはそうだろう、心から慕っていた相手に突然迷惑だと吐き捨てられているのだ。大喬ならずとも、まともな神経を持った人間であればかなりの衝撃を感じるに違いない。
酷い罪悪感と、わずかな爽快感が綯い交ぜになった。
終わったな、とが扉を閉めようとすると、その手を押し留められる。
え、と押し留めた人間に目を遣れば、他ならぬ大喬が扉を押さえていた。
どん。
小さくも力強い音がして、は後ろによろけていた。
扉が閉められる。
大喬は、扉を背後にして俯いていた。
肩が、震えていた。
「……し、だって……」
鈴のような軽やかな声もまた、震えている。
激情が大喬を脅かしているのを、必死で押さえているように見えた。
「私だって、大姐の隣に立つのなんか、嫌ですっ!」
ずどん、と胸の奥に重く響くものがある。
目の縁が熱くなり、涙が吹き出し掛けているのが分かった。
大喬の言葉に、傷付いていた。
勝手な話だ、先に傷付けたのはの方だったというのに、大喬に同じ言葉を言われたと傷付いている。
そんな馬鹿な話はなかった。そんな我がままが許される筈もなかった。
だから、は目に力を込め、涙を堪えた。
「……それ、なら……それなら、話は早いじゃないですか。私は大喬殿の隣に立ちたくないし、大喬殿もそうだって言うなら、それでいいじゃないですか。何も」
何も、問題ない。
「だって、孫策様が」
大喬の眦から涙が溢れる。がなけなしの矜持を振り絞って泣くのを我慢したというのに、大喬は止める様子もなくぽろぽろと涙の珠を零している。
ずるいと思う。
自分と大喬との、決定的な違いに思えた。
情けない矜持にしがみつく自分と、素直に泣ける大喬。どちらが上か、一目瞭然だろう。
「……伯符とは、友達で居るって約束したし……だから、もう、いいんですよ」
妻の座にある者が、あからさまに自分より劣る女に夫を盗られて気分がいい筈もない。
大喬は、自分の中に在るそんな矮小さを認めたくなかったのだろう。
ならば認めるべきだとは思った。
認めて、吐き出して、もう孫策に近付くなとに厳命すればいいのだ。
その権利が大喬にあり、それに従う義務がにある。
それでもういいじゃないかと思う。
「……嫌、です……そんなの、嫌ぁ……」
大喬の涙は溢れて留まることを知らない。
孫策が来てくれないだろうか。来て、大喬を慰めて、二人で立ち去っていってくれないかと思った。
そうしたら、本当に諦めることが出来る。そう思った。
「大姐の言うこと、何でも聞きます……だ、だから……だから……」
「聞いて欲しいことなんて、何にもないんですよ」
もう本当に、本当に勘弁して欲しかった。
「私はもうこれ以上、大喬殿の隣に立つの嫌なんです。もう、比べられたくない。自分の方が劣ってて、つまらなくて、小さい人間だって思い知らされるの、もう嫌なんです」
頼むから、分かって欲しかった。
大喬の目が鋭く吊り上がる。
「私だって!!」
体を捻るようにして声を絞り上げていた。悲鳴のようにも、産声のようにも聞こえた。
耳を、胸をつんざくことに、変わりはない。
「私だって、大姐と比べられたくない……私なんて、何も出来なくて、何も知らなくて、全然子供で、孫策様を慰めることも笑わせてあげることも出来なくて……いつも気を使われて、もっと頼って欲しいって思っても頼ってもらえなくて、それなのに大姐は何でもないみたいに孫策様を励まして、笑わせてあげて、楽しませてあげて……私だって、嫌です! こんな、こんな何にも出来ない自分を思い知らされるの、もう嫌なんですっ!!」
叫ぶだけ叫ぶと、大喬はその場でうずくまってわんわんと泣き出した。
は、ただ呆然としていた。
大喬の泣声も、何処か遠いところから聞こえてくるようにしか思えなかった。
とにかく、大喬を起こしてやらないと。
重い足をのたのたと動かし、へたり込むようにして膝を着く。
大喬の二の腕に手を掛け、引っ張ると、大喬は緩く抵抗した。
更に引くと、大喬はきっと顔を上げる。
しかし、すぐに泣き崩れての腕にしがみついて来た。
の頬も、知らぬ間に濡れていた。
二人で抱き合って、声を上げてわんわんと泣き散らした。
宴が行われている広間で、孫策は戸口の方を見遣っていた。
内輪の宴会と言うことで、敷布に直に腰掛けて車座を作る気兼ねなさだ。けれど、内輪が内輪を呼び、気が付けばかなりの人数が出揃っている。
お国柄なのだろうが、宴のお題目は公に出来ないもの(出奔の件が無事片付いたこと)だったから、異様といえば異様だった。
先程まで大喬が孫策の隣に腰掛けていたのだが、を呼びに行って来ると言って席を外したままだった。
まだかまだかと忙しく戸口を見遣る孫策に、落ち着きないと周瑜の苦笑が深まる。周瑜の隣に座した小喬も落ち着きなく戸口を見ているのだが、こちらは別物らしい。
「策」
孫堅がやって来て、孫策の隣に腰掛ける。
宴の華やかな空気に馴染まぬ父親の真顔に、孫策も何事かと顔を引き締めた。
周瑜と小喬も、突然現れた孫堅の言葉に注視している。
「を、俺にくれぬか」
驚くには値しない。孫堅がを欲しがっているのは、周知の事実だった。
けれど、孫策は孫堅の変化を嗅ぎ取った。
何かは分からない。
だが、何かが変わった。
以前の孫堅は、を得たいと願ってはいたが、それはあくまでと言う『人材』を得たがっているように思えた。
『人材』と言う名のモノだ。駿馬や愛玩動物を求めるのと何ら変わらない。代用が利くならでなくとも良いと言うような、冷淡な感情が垣間見えていた。
それが、消えた。
眼と眼を合わせ、決して逸らさぬ孫堅と孫策の様子には親子らしい情愛は感じられない。
黙したまま一歩も譲らぬ睨み合いに、周囲も徐々に気付き始め、ざわめきが潜められていく。
いかん。
最も恐れていた事態が始まろうとしていることを、周瑜は確信した。